1901(明治34)年
2月13日
加藤外相、清国公使に露清交渉について警告を発す。
2月13日
子規のもとに伊藤左千夫が百花園で買った植物の籠を持参。
子規は左千夫に語った。
「入浴せぬことすでに五年、足を洗わぬこと半年、顔を洗わず二ヵ月、アルコール清拭は律にしてもらうものの、身動きできぬのでは是非もない。そして、左千夫との交際が、人との交際としては最後になるだろうといい、左千夫をかつ感動させ、かつ悲しませた。
そのあと子規は、歌人平賀元義(もとよし)についてしばらく書きたいといった。平賀元義は万葉以来のすぐれた歌人、源実朝、田安宗武、井手(橘)曙覧(あけみ)とならべて指を折るべき人だ、とつづけた。
石上(いそのかみ)ふりにし妹が園の梅見れどもあかず妹が園の梅 平賀元義
平賀元義は岡山藩士、文化十二年(一八一五)十五歳で黒住教の租、黒住宗忠の講義を聞いて古代研究を志した。天保三年(一八三二)に脱藩、山陰、吉備の古社をめぐりつつ万葉調を学んで、天保八年(一八三七)頃から「高古にして些の俗気なき」歌を詠むようになった。だが、その性格の烈しさゆえに結婚は再三破綻、六十五歳で備前国上道郡大多羅村の路に窮死したといわれる。
皆人の得がてにすちふ君を得て吾率(わがみ)寝(ぬ)る夜は人な来(きた)りそ 平賀元義
矢かたをうち出て見れば梅の花咲有(さける)山辺(やまべ)に妹が家見ゆ
忘れられた歌人平賀元義は、明治三十三年夏、岡山の地方紙上に発掘・紹介された。記事の題号は「恋の平賀元義」というものであった。
この時期たまたま備前児島にいた赤木格堂が、児島の素封家に寄寓したことがあるという元義の縁を頼って、散逸した歌を集めた。それに元義の真筆十数枚と岡山の地方紙の切抜きを添え、子規に見せた。
それらを検討した子規は、平賀元義がたんに天保期の「恋愛歌人」にとどまらぬことを知り、「其歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪」んだ。自分は「幾多の歌人に就きて研究」し、しかるに「真箇(しんこ)の万葉崇拝者を只一人だに見出だす能はざるに失望」していたまさにそのとき、平賀元義の歌を得たのは奇縁と書いて、平賀元義を万葉以後の四歌人のひとりに数えたのである。
平賀元義の歌を論じた稿は、『墨汁一滴』の二月十四日から二月二十六日まで、都合十三回つづいた。書きながら、子規のうちには再び「古今調」への嫌悪と「万葉調」への好感がよみがえり、それは生涯最後の作歌衝動へとつながっていく。」(関川夏央、前掲書)
2月13日
「 毎朝繃帯(ほうたい)の取換をするに多少の痛みを感ずるのが厭(いや)でならんから必ず新聞か雑誌か何かを読んで痛さを紛(まぎ)らかして居る。痛みが烈しい時は新聞を睨(にら)んで居るけれど何を読んで居るのか少しも分らないといふやうな事もあるがまた新聞の方が面白い時はいつの間にか時間が経過して居る事もある。それで思ひ出したが昔関羽(かんう)の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであらうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであつた。ナアニ今考へて見ると関羽もやはり読書でもつて痛さをごまかして居たのに違ひない。
(二月十三日)」(子規「墨汁一滴」)
2月14日
亡命中の孫文、和歌山の南方熊楠を訪問。4年ぶりの再会。熊楠がイギリスで親しくした福本日南より孫文が横浜居留地に中山樵という名前でいることを知らされ、連絡をとる。
2月14日
「 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最もっとも善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵(かものまぶち)を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義(ひらがもとよし)といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇(ちゅうちょ)なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣(もほう)し万葉調の歌を世に残したる者実に備前(びぜん)の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。(中略)この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非(あらざ)るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然(たくぜん)として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧(かえりみ)ざりしはけだし心に大(おおい)に信ずる所なくんばあらざるなり。
(二月十四日)」(子規「墨汁一滴」)
2月14日
2月14日~16日 ロンドンの漱石
「二月十四日(木)、 Edward Ⅶ (エドワード七世)が初めて国会を開く開院式で大騒ぎである。 Queen Victoria (ヴィクトリア女王)の葬式で懲りたので行かぬ。 Brixton (ブリクストン)を散歩する。
二月十五日 (金)、この頃、下宿の食事まずくなる。今迄は、日本人が沢山いたので、少しはうまかったが、家計も苦しいらしいのと安い下宿代では、とやかく云えないとあきらめる。
二月十六日(土)、 Mrs. Edghill (エッジヒル夫人)からお茶に招かれるが、心進まぬ。 Peckham Road (ペッカム街)を散歩する。帰途、道に迷い、バスで帰る。夜、田中孝太郎に誘われて Kenningto Theatre (ケニントン劇場)で Percy Lynwood M. Ambient の ""Christmas"" を観る。余り感心しない。」(荒正人、前掲書)
2月16日 この日付け漱石の『日記』。
「Mrs. Edghill ヨリ tea ノ invitation アリ。行カネバナラヌ。厭ダナー」
2月15日
「 天下の歌人挙(こぞ)つて古今調(こきんちょう)を学ぶ、元義笑つて顧(かえりみ)ざるなり。天下の歌人挙つて『新古今』を崇拝す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義独り万葉を宗(むね)とす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。かくの如くして元義の名はその万葉調の歌と共に当時衆愚の嘲笑の裏(うち)に葬られ今は全く世人に忘られ了らんとす。
(中略)
幸にして備前児島(こじま)に赤木格堂(あかぎかくど)うあり。元義かつてその地某家に寄寓せし縁故を以て(元義の歌の散逸せる者を集めて一巻となしその真筆(しんぴつ)十数枚とかの羽生某の文をも併(あわ)せて余に示す。是(ここ)において余は始めて平賀元義の名を知ると共にその歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪しみぬ。(略)始めて平賀元義の歌を得たるを以て余はむしろ不思議の感を起したるなり。(略)そも元義は何に感じてかかく万葉には接近したる。ここ殆ど解すべからず。
(二月十五日)」(子規「墨汁一滴」)
2月15日
伊、ザナルデッリ内閣誕生。ジオリッティ内相。立憲主義復活。
2月16日
ロシア、対清協約草案12項を提示し、満州撤退の条件として満州・蒙古・中央アジアの権益独占、北京への鉄道敷設権などを要求。清・日・英、拒否。
2月16日
「 元義の歌は醇乎(じゅんこ)たる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景に非(あらざ)れば歌に詠みし事なし。故にその歌真摯(しんし)にして古雅毫(ごう)も後世繊巧(せんこう)嫵媚(ぶび)の弊に染まず。今数首を抄して一斑を示さん。
(後略)
(二月十六日)」(子規「墨汁一滴」)
翌17日~23日も元義の歌の紹介と解説を続ける。
つづく
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