2025年2月6日木曜日

大杉栄とその時代年表(398) 1902(明治35)年5月19日~25日 「この小提灯といふ事は常に余の心頭に留まつてどうしても忘れる事の出来ない事実であるが、さすがにこの道には経験多き古洲すらもなほ記憶してをるところを以て見ると、多少他に変つた趣が存してゐるのであらう。今は色気も艶気もなき病人が寐床の上の懺悔(ざんげ物語)として昔ののろけもまた一興であらう。」(子規『病牀六尺』) 「子規には珍しい恋の記憶である。」(井上泰至『評伝選 正岡子規』)  

 

目黒と筍飯

大杉栄とその時代年表(397) 1902(明治35)年5月11日~18日 「○余ら関西に生れたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事において関東の進歩遅きを見る。ただ関東の方著く勝れりと思ふもの二あり。曰く醤油。曰く味噌。 ○下総の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(醤油)。」(子規『病牀六尺』) より続く

1902(明治35)年

5月19日

インドで暴風雨、シンド鉄道の路線65キロが押し流される。

5月20日

第一銀行、韓国釜山支店で銀行券発行(続いて仁川支店,京城支店で発行)。

5月20日

この日、子規に負担をかけないため古島一雄の配慮で『病牀六尺』休載。

子規は古島に悲痛な手紙を送る。


「五月二十日、病床枕頭で蕪村句集輪講会が行われた。病状悪化で会場を鳴雪宅に移していた会だが、子規が望んだので四月下旬の例会から再び子規庵に還ったのである。四月の参会者は、子規のほか鳴雪、碧梧桐と虚子であった。五月には、それに紅緑が加わった。地方の新聞を転々として、合計十一社に在籍することになる紅緑は、この時期たまたま在京していた。

その日、「日本」の編集者古島一雄があえて『病牀六尺』を休載にしていた。体力の著く衰えた子規を、無理して連載することはないと気遣った結果であった。

子規はすぐに古島宛の手紙をしたためた。


僕の今日の生命は「病牀六尺」にあるのです。毎朝寐起には死ぬる程苦しいのです。其中で新聞をあけて病牀六尺を見ると僅に蘇るのです。今朝新聞を見た時の苦しさ。病牀六尺が無いので泣き出しました。どーもたまりません。若し出来るなら少しでも(半分でも)載せて戴いたら命が助かります。(原文はカタカナ)


悲痛な手紙であった。その悲痛さのなかにも、やはり現代日本語の書き言葉の確立が読みとれる手紙であった。」(関川夏央、前掲書)

5月20日

スペイン戦争以来駐留の米軍、キューバ撤退。軍事占領下にあったキューバは米保護国として独立。キューバ初代大統領就任、キューバ共和国成立。

5月20日

(露暦5/7)露、メーデースト責任者26人解雇抗議スト。警察・軍隊にバリケードで応戦。

5月21日

無煙炭炭鉱スト(5月12日~)中止。

5月22日

この日の『病牀六尺』(十)


「○前にもいふた南岳(なんがく)文鳳(ぶんぽう)二人の『手競画譜』の絵について二人の優劣を判じて置いたところが、或人はこれを駁ばくして文鳳の絵は俗気があつて南岳には及ばぬといふたさうな。余は南岳の絵はこれよりほかに見たことがないし、殊(こと)に大幅(たいふく)に至つては南岳のも文鳳のも見たことがないから、どちらがどうとも判然と優劣を論じかねるが、しかし文鳳の方に絵の趣向の豊富な処があり、かつその趣味の微妙な処がわかつて居るといふことは、この一冊の画を見ても慥たしかに判ずることが出来る。尤もっとも南岳の絵もその全体の布置(ふち)結構(けっこう)その他筆つきなどもよく働いて居つて固(もと)より軽蔑すべきものではない。故に終局の判断は後日を待つこととしてここには『手競画譜』にある文鳳のみの絵について少し批評して見よう。・・・・・

(後略)

(五月二十二日)」


5月12日の記事に関連して、5月22日、23日、24日の3日間、子規は文鳳の詳細な絵解きをするのだが、どうやら一部的外れの箇所もあったようだ。


「子規は、『手競画譜』全十八番の右の文鳳絵すべてにわたって、明治三十五年(一九〇二)五月二十二日、二十三日、二十四日付(「十」回、「十一」回、「十二」回)の「日本新聞」の『病牀六尺』において見事な「絵解き」を試みたのであったが、右に見たように「十六番右」のみは、その「絵解き」を誤ったのであった。」

復本一郎 子規の文鳳絵解き一件[『図書』2022年11月号より]

5月22日

仏、国際鉱山労働者大会開催。全鉱山の国有化を要求。

5月25日

横溝正史、誕生。

5月25日

子規の「小さな恋の物語」

「こうした回想の中で特筆すべきは、芥川が何度読んでも飽きないと激賞した、「小提灯」の記事(『病牀六尺』五月二十五日)である。新聞『日本』の同僚、古島一雄の手紙が発端となった。日清戦争が起こる四ケ月前の、明治二十七年三月末の出来事の回想である。

小さな恋の物語

古島一雄に誘われて、大宮公園に出掛けたが、桜はまだ咲かず、引き返して目黒の牡丹亭という店で、筍飯を注文する。給仕をしてくれたのは、十七、八才の娘だった。


此女あふるるばかりの愛嬌のある顔に、而(しか)もおぼこな処があって、斯(かか)る料理屋などにすれからしたとも見えぬ程のおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいはず独り胸を躍らして居つた。


子規には珍しい恋の記憶である。」(井上泰至『ミネルヴァ日本評伝選 正岡子規』)


この日の『病牀六尺』(十三)


「○古洲よりの手紙の端に

御無沙汰をして居つて誠にすまんが、実は小提灯ぶらさげの品川行時代を追懐して今日の君を床上に見るのは余にとつては一の大苦痛である事を察してくれ給へ。

とあつた。この小提灯といふ事は常に余の心頭に留まつてどうしても忘れる事の出来ない事実であるが、さすがにこの道には経験多き古洲すらもなほ記憶してをるところを以て見ると、多少他に変つた趣が存してゐるのであらう。今は色気も艶気(つやけ)もなき病人が寐床の上の懺悔(ざんげ物語)として昔ののろけもまた一興であらう

 時は明治二十七年春三月の末でもあつたらうか、四カ月後には驚天動地の火花が朝鮮の其処(そこ)らに起らうとは固(もと)より知らず、天下泰平と高をくくつて遊び様に不平を並べる道楽者、古洲に誘はれて一日の日曜を大宮公園に遊ばうと行て見たところが、桜はまだ咲かず、引きかへして目黒の牡丹亭とかいふに這入り込み、足を伸ばしてしよんぼりとして待つて居るほどに、あつらへの筍飯(たけのこめし)を持つて出て給仕してくれた十七、八の女があつた。この女あふるるばかりの愛嬌(あいきょう)のある顔に、しかもおぼこな処があつて、かかる料理屋などにすれからしたとも見えぬほどのおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいはず独り胸を躍(おど)らして居つた。古洲の方もさすがに悪くは思はないらしく、彼女がランプを運んで来た時に、お前の内に一晩泊めてくれぬか、と問ひかけた。けれども、お泊りはお断り申しまする、とすげなき返事に、固よりその事を知つて居る古洲は第二次の談判にも取りかからずにだまつてしまふた。それから暫(しばら)くの間雑談に耽(ふけ)つてゐたが、品川の方へ廻つて帰らう、遠くなければ歩いて行かうぢやないか、といふ古洲がいつになき歩行説を取るなど、趣味ある発議に、余は固より賛成して共にぶらぶらとここを出かけた。外はあやめもわからぬ闇やみの夜であるので、例の女は小田原的小提灯を点じて我々を送つて出た。姐(ねえ)さん品川へはどう行きますか、といふ問に、品川ですか、品川はこのさきを左へ曲つてまた右に曲つて……其処まで私がお伴致しませう、といひながら、提灯を持つて先に駈け出した。我々はその後から踵(つ)いて行て一町余り行くと、藪(やぶ)のある横丁、極めて淋しい処へ来た。これから田圃(たんぼ)をお出になると一筋道だから直ぐわかります、といひながら小提灯を余に渡してくれたので、余はそれを受取つて、さうですか有難う、と別れようとすると、ちよつと待つて下さい、といひながら彼女は四、五間後の方へ走り帰つた。何かわからんので躊躇(ちゅうちょ)してゐるうちに、女はまた余の処に戻つて来て提灯を覗(のぞ)きながらその中へ小さき石ころを一つ落し込んだ。さうして、さやうなら御機嫌宜(よろ)しう、といふ一語を残したまま、もと来た路を闇の中へ隠れてしまふた。この時の趣、藪のあるやうな野外(のはず)れの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提灯の中に小石を入れて居る佳人、余は病床に苦悶して居る今日に至るまで忘れる事の出来ないのはこの時の趣である。それから古洲と二人で春まだ寒き夜風に吹かれながら田圃路をたどつて品川に出た。品川は過日の火災で町は大半焼かれ、殊(こと)に仮宅(かりたく)を構へて妓楼(ぎろう)が商売して居る有様は珍しき見ものであつた。仮宅といふ名がいたく気に入つて、蓆囲(むしろがこひ)の小屋の中に膝と膝と推し合ふて坐つて居る浮(うか)れ女(め)どもを竹の窓より覗いてゐる、古洲の尻に附いてうつかりと佇(たたず)んでゐるこの時、我手許より燄(ほのお)の立ち上るに驚いてうつむいて見れば、今まで手に持つて居つた提灯はその蝋燭(ろうそく)が尽きたために、火は提灯に移つてぼうぼうと燃え落ちたのであつた。

うたゝ寐に春の夜浅し牡丹亭

春の夜や料理屋を出る小提灯

春の夜や無紋あやしき小提灯

(五月二十五日)」

5月26日

永井荷風(23)、父が牛込区大久保余丁町79番地(現・新宿区余丁町)に土地家屋を購入、家族とともに転居。来青閣と称する。

5月26日

この日の子規『病牀六尺』。


「・・・・・子規は書いた。


車に載せられて一年に両三度出ることも一昨年以来全く出来なくなりて、ずんずんと変って東京の有様は僅に新聞で読み、来る人に聞くばかりのことで、何を見たいと思うても最早我が力に及ばなくなった。


(略)

そこで、噂に聞いていて、ぜひ見たいと思うものを書き出してみた。

- 活動写真。自転車の競争及び曲乗。動物園の獅子及び駝鳥。

上根岸の子規の病床まで、板戸を開け放した夏の夜などは上野動物園の猛獣の咆哮が届く。しかし新来のライオンとダチョウを子規はまだ見たことがない。

- 浅草水族館。浅草花屋敷の狒々(ひひ)および獺(かわうそ)。

明治二十三年の凌雲閣、通称「十二階」の完成以来、東京市中第一の盛り場となった浅草は、子規が病床にある間に殷賑をきわめている。遊園地の走りである花屋敷には動物園が併設され、ヒヒとカワウソが人気の的だという。自筆稿なら断簡零墨のたぐいまで保存する癖から獺祭書屋主人とも自称した子規としては、ぜひ本家のカワウソを見物したかった

- 見附の取除け跡。丸の内の楠公の像。自働電話及び紅色郵便箱。ビヤホール。女剣舞及び洋式演劇。蝦茶袴の運動会。

日清日露の戦闘期、産業革命は高潮し、江戸人は完全に東京人になりかわった。四谷、赤坂、市谷などの見附跡を道路はまっすぐに貫ぬいた。明治三十三年九月に上野と新橋両駅に設置され、十五銭でかけられるという自働電話(公衆電話)は着々と市中にひろがりつつある。ビヤホールの第一号が開店したのも明治三十二年であった。女高師附属高等女学校では明治三十一年四月、本来は男性のみの服装であった袴を制服とした。海老茶色の袴に編上げの革靴姿で通学する女学生は、たちまち東京市中の風物となった。そんな彼女たちの運動会を、ぜひ見てみたい。」(関川夏央、前掲書)


つづく

0 件のコメント: