2016年5月19日木曜日

明治38年(1905)11月1日~15日 伊藤博文(枢密院議長)が大韓国皇室慰問特派大使として出発(保護国化強行) 安部磯雄・石川三四郎・木下尚江ら「新紀元」(月刊)創刊 ロシア人捕虜送還開始 幸徳秋水アメリカに向う ペトログラード・ソヴィエトがストライキを決定

皇居東御苑 2016-05-12
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明治38年(1905)
11月
・保護条約反対の義兵闘争おこる。
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・北京、日露講和事項に関する日本と清国の談判開始。
12月22日、満州善後協約・付属協定調印。
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・大倉喜八郎、南満州の本渓湖炭坑の開発開始。
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・谷中村農民第1回移住18戸、那須野へ。
明治39年3月時点で谷中村に留まるものは約半数の100戸程度となる。
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・森近運平一家、この頃から1年近く、東京・神田三崎町でミルクホール「平民舎」を経営しながら社会主義活動をしている。
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・「帝国画報」、「民報」創刊
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・漱石(38)、「薤露行(かいろこう)」(「中央公論」)       
「ホトトギス」4月号に発表した「幻影(まぼろし)の盾」に似たロマンチックな物語りで、中世のアーサー王伝説に取材した騎士物語り。テニスンの「国王牧歌」とマロリーの「アーサー王の死」が資料とされた。
アーサー王のコメロットの城で、騎士ランスロットは王妃ヴィニーヴィアとの恋に酔っている。王妃は二人の恋が終ることを暗示するような夢を見たので、ランスロットを予定されている試合の場所にやりたからない。やがてランスロットは試合に出かけるが、そこでシャーロットの娘エレンに恋される。エレンは片袖を切り取ってランスロットに贈るが、自分が恋に破れたのを知って自殺する。その屍骸を載せた舟が川を流れ下ってコメロットの城に着く。
王妃の不義の恋という難かしい事件を派生させるが、漱石はそれを避けて、終りを夢幻的なロマンチシズムでぼかし、字句に凝り、甘美なイメージを連ねた一種の美文小説とした。
この小説は、前の「幻影の盾」のように、美しい小説を好む若い学生たちには特に気に入った。
この頃から改めて学生たちの間に漱石の愛読者が多くなり、彼の家を訪れるものがふえて来た。

平出修は「明星」12月号の出版月評で「薤露行」評している。
「漱石氏の「薤露行」は独り苦心の痕見えて愛読すべき好小品なり。」
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・坪内逍遙、戯曲「新曲赫映姫」(早稲田大学出版部)
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・宮崎滔天(34)、横浜に行き、滞在中の孫文を訪ねる。ヴェトナムの志士潘佩珠と出会う。
12月1日横須賀に行き、伊藤痴遊・一心亭辰雄らと共に高倉亭に大晦日まで出演。
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・米の不作による飢饉が拡大。東北地方では、この年平年の1~3割の収穫。
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11月1日
・農商務省山林局林業試験所、東京目黒に設置。1910年に林業試験場と改称。
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11月1日
・ロシア、ペトログラード・ソヴィエト、出版の自由要求。
同日、ヴィッテ、首相に任命される。
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11月2日
・枢密院議長伊藤博文、大韓国皇室慰問特派大使、日本発。
随員:枢密院書記官長都筑馨六・陸軍少将村田惇・陸軍大佐西四辻公堯。8日、ソウル入城。
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11月2日
・文部省、清国留学生が激増し、その取締りのため清国人を入学せしむる公私立学校に関する規定、いわゆる「清国留学生取締規則」を公布(1906年1月1日施行)。清国留学生抗議。
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11月2日
・ロシア、ペトログラード・ソヴィエト、第2回政治的ゼネスト指令。
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11月4日
・小村寿太郎外相、清国派遣特命全権大使に任命。外務大臣を桂太郎が臨時兼任。ロシアより譲渡された権益に対し清の承認を得るため。清の抵抗により会議は長引き、小村は又も国賊扱いされる。
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11月4日
・ロシア、ニコライ2世、大赦勅令署名。フィンランドに対する2月宣言の効力を停止。
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11月5日
・京義鉄道開通式。
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11月5日
・靖国神社大祭。~7日。
14日~19日、天皇、伊勢神宮行幸。
20日、日本赤十字社総会。上野公園。参加者5万4千。これらの記事が新聞を埋める。
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11月5日
・山川登美子、死別した夫から感染した呼吸器の病で駿河台鈴木町の高田病院に入院。以後、病と闘い、翌明治39年、京都で療養。
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11月6日
・韓国一進会の尹始炳・李容九ら9人、韓国は日本の保護に服すべきと宣言。
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11月6日
・菅野須賀子、半自伝小説「露子」(「牟婁新報」)。
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11月6日
・ワルシャワで自治復活を求めて暴動。
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11月8日
・[露暦10月26日]クロンシュタット海兵、武装蜂起。
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11月8日
・オデッサ、ユダヤ人虐殺事件。農民・警官・軍将校・政府官吏が関与。ユダヤ人1千人以上死亡。
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11月9日
・この日付け漱石の鈴木三重吉(小説家、童話作家、漱石の教え子、1882-1936)宛の手紙。
中川芳太郎(漱石の教え子、漱石の依頼を受けて講義から「文学論」の草稿を起こした。1882-1939)のことについて、
「中川君抔がきて先生は今に博士になるさうですなかと云はれるとうんざりたるいやな気持になります。先達て僕は博士にはならないと呉れもしな〔い〕うちから中川君に断つて置きました。さうぢやありませんか何も博士になる為に生れて来やしまいし。」
と語る。
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11月9日
・[露暦10月27日]セント・ペテルブルク、「ノヴァヤ・ジーズニ(新生活)」創刊。
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11月10日
・伊藤特使、林権助日本公使らと徳寿宮で高宗と会見。
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11月10日
・安部磯雄・石川三四郎・木下尚江らキリスト教社会主義派、新紀元社設立、「新紀元」(月刊)創刊。内村鑑三「新紀元の発刊を祝す」。執筆者:徳富蘆花・大川周明・赤羽一・内村鑑三・斯波貞吉・高島米峰・山口孤剣・小野有香・幸徳秋水・金子喜一ら。1906(明治39)年11月10日終刊(平民社再興気運の中で、石川がこれに参加の意向、安部は継続を望むが木下が社会主義に疑念を持ち始める)。

菊判48頁、12銭。編輯には石川三四郎があたり、安部と木下は編輯顧問になった。
第1頁に「巻頭の祈」が、「神よ、今筆を執りて又爾の栄光に跪く。希くば我心を開きて爾の愛と力に満つることを得せしめ給へ」と印刷される。

また次の予告が掲載された。
「小説『黒潮』第二篇を掲載するにつきて/三年前拙著小説『黒潮』の第一篇を公にせし以来、余は殆んど一行をも書かずして今日に到れり。今や我日本人民は北の巨人を相手の拳闘より起ちて、砂を払ひ、汗を拭ひ、嘯(うそぶ)いて世界環視の中に立たんとす。彼の歴史は確か、に一時期を劃するなり。『新紀元』の此時を以て生るゝも亦偶然にあらずと謂はむ歟。/此誌上に於て拙著小説の稿を続ぐを得るは余の窃に喜ぶ所なり。/恐らくは、依然たる低級の芸術、生硬、粗笨、浅薄の旧態を脱する能はざらんことを。/十月廿日秋雨コスモスの花に灑ぐ夕/原宿の僑居に於て/蘆花生」

徳富蘆花は、この雑誌に賛意を表し、作品をここに掲載する決意をした。そして12月号に「黒潮」第二篇の一・二が掲載された。蘆花はこの時数え年38歳。
彼は迷っていた。社会主義者の群に加わったが、自分にその資格があるのか?無産労働者でなければ真の社会主義者たり得ない、との反省が絶えず彼を苦しめていた。また、自分は兄と絶縁していていいのだろうか? 「国民新聞」が襲撃されたことを白眼視したまま、何の同情も示さなかった自分が正しかったのか?
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11月10日
・この時点でロシア軍捕虜、国内26ヶ所の収容所、総計71947人。ロシア人負傷者。俘虜に対する日本の寛大な処置を讃える海外メディア特派員の記事は数多い。
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11月10日
・「帰還俘虜取扱方」(「東京朝日」)。陸軍は俘虜帰還者取扱規則により、当該所管長官が審問会議に付し取調べ。放免か軍法会議か行政処分かの結論が出るまで外出の自由なし。
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11月10日
・社説「言論自由と政府」(「東京朝日」)。「神戸クロニクル」が緊急勅令存続で新聞を取締るのは憲法を反古にする手段との主張を引用。
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11月10日
・日米間著作権保護に関する協約、同上協約第3条の解釈に関する交換公文調印。1906.5.10 実施。
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11月10日
・この日、漱石は、新学年に出て来ず、胃病と神経衰弱の治療のために、広島から瀬戸内海の小さな島へ移り住んだ鈴木三重吉に手紙を書く。

「三重吉さん一寸申上ます。君は僕の胃病を直してやりたいと仰やる御心切は難有いが僕より君の神経病の方が大事ですよ早く療治をして来年は必ず出て御出でなさい。僕の胃病はまだ休講をする程ではないですが来年あたりは君と入れ代りに一年間休講がして見たいです。・・・

「君は島へ渡ったさうですね。何か夫を材料にして写生文でも又は小説の様なものでもかいて御覧なさい。吾々には到底想像のつかない面白い事が沢山あるに相違ない。文章はかく種さへあれば誰でもかけるものだと思ひます。・・・僕は方々から原稿をくれの何のと云つて来て迷惑します。僕はホトゝギスの片隅で出鰭目をならべて居れば夫で満足なのでそんなに方々へ書き散らす必要はないのです。・・・文庫といふ雑誌の六号活字がよく僕のわる口を申します。・・・文章でも一遍文庫へ投書したらすぐ褒め出すでせう。・・・段々秋冷になりました。今日は洋服屋を呼んで外套を一枚、二重廻を一枚あつらへました。一寸景気がいゝでせう。猫の初版は売れて先達印税をもらひました。妻君曰く是で質を出して、医者の薬札をして、赤ん坊の生れる用意をすると、あとへいくら残るかと聞いたら一文も残らんさうです。いやはや。一寸此位で御免蒙ります。」
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11月11日
・警察、9月5日国民大会主催の河野広中・大竹貫一・山田喜之助・桜井熊太郎ら6人を兇徒嘯聚罪で拘引。
12月19日、東京地裁予審結果。河野・大竹・小川・桜井・佃信夫の5人は12月2日の保釈取消し、東京地裁重罪裁判所に付され、山田・細野は免訴。
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11月12日
・横浜・神戸・長崎よりロシア汽船による捕虜送還開始。翌年2月19日迄に7万9454人の送還完了。日本人捕虜の帰国は翌年4月28日迄に2045人完了(死亡28、残留31を除く)。
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11月13日
・中国の廬漢(京漢)鉄道開通。
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11月14日
・幸徳秋水(34)、横浜港から伊予丸で出航、アメリカに向かう。留学する医師加藤時次郎長男時也と画家志望の甥幸徳幸衛を同行。
11月29日シアトル着、
12月5日SF着。
39年6月23日香港丸で横浜港に帰着。

幸徳が外国行きの希望を加藤時次郎に相談すると、加藤は、サンフランシスコぐらいなら旅費と半年か1年の滞在費は出してやろう、と言った。友人たちも、彼の外遊に賛成した。母は国許へ預けることにした。妻千代子の姉須賀子は判事松本安蔵の妻になって金沢に住んでいたので、妻はそこへ預けるか、金の集まり具合では連れて行ってもいいと思った。千代子は国文学の素養が深く、日本画に巧みであった。結局、幸徳は母を郷里の家を継いでいる義兄幸徳駒太郎に預け、駒太郎の息子で東京の自宅に置いていた甥の幸衛を連れて行くことにした。

幸徳は伊予丸でこう書く。
「多くの洋行者は、洋行に依て名を得んとせり、利を射んとせり、富貴功名の手段となせり、此如き洋行者は洋行を以て名誉となせり、愉快となせり、所謂壮遊なるものとせり、我れに於ては然らず、我れの去るは去らんと欲するが故に非ず、止まらんとして、止まる能はざれば也。」

激しい弾圧により、日本ではこれ以上積極的な展開は出来ないと考えた。彼は、獄中で読んだクロボトキンなどの影響を受け、新しく無政府主義の研究を志し同志の多いアメリカに行って、身体を休めるとともに在留する日本人同志のカを集めるというのが目的であった。

「一貧洗ふが如き我は、何の処より遠遊の資を得しや、・・・。細野次郎君、竹内虎治君。加藤時次郎君。福田和五郎君、小島龍太郎君、幸徳駒太郎君、大石誠之助君、小泉策太郎君、片野文助君、是等の諸君が或は三十円、或は百円と給与せられたもの一千金を得た。」とし、その一半を出獄以後の生活費に充て、その一半は携えて日本を去った、と書いた。
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11月14日
・堀内紫玉、没。翌年2月「紫玉遺稿」刊行、序文啄木。
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11月14日
・ロシア、ペトログラード・ソヴィエト、ストライキ決定。クロンシュタット反乱弾圧・ポーランド戒厳令抗議。
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11月15日
・伊藤特派大使、再度高宗会見。日韓新協約(保護権設定)について陳説、保護国承認強要、恫喝。
午後、林公使は外部大臣朴齊純を公使館に呼出し、条約案文・照会文を手渡し、翌16日に伊藤特使が閣僚に説明すると告げる。
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11月15日
・露バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、神戸港より帰国。
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