2016年5月28日土曜日

詩人茨木のり子の年譜(4) 1956(昭和31)30歳 翌年、同人誌「櫂」解散 ~ 1958(昭和33)32歳 第二詩集『見えない配達夫』刊行

2016-05-22 横浜 海の見える丘公園ローズガーデン
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(その3)より

1956(昭31)30歳
3月、新宿区白銀町28(神楽坂)に転居
5月、私の好きな童話(木下順二)「貝の子プチキュー」NHKラジオ再放送。

茨木さんの素顔    天野祐吉
 詩を書くより前の茨木さんに、「貝の子プチキュー」という童話の作品がある。これは一九四八年に、山本安英さんの朗読でNHKから放送された。
 といっても、ぼくはその放送を聴いたわけではない。それどころか、茨木さんがそういう童話を書いていたこと自体、ずっと後になるまで知らなかった。
 が、茨木さんのことを特集した本でこの童話を読んだとき、ぼくは息をのんだ。茨木さんのいちばん根っこにあるものに、素手で触れたような気がしたのだ。
 あらすじを紹介しても作品にただよっている澄んだ空気を伝えることはできないが、ざっとこんな話である。
 来る日も来る日も海の砂にもぐって暮らしていた貝の子のプチキューは、ある晩、「いつもいつも同じことの繰り返しでつまらないなあ」と嘆く波の声を聞いて、まだ見たことのない世界を見たいと旅に出る。で、さまざまな体験をしたのち、海岸の岩によじ登ったプチキューは、そこで満天の星空と出会う。が、走り回った疲れから、美しい星空を見ながらプチキューは、岩の上で息が絶え、最後にことばを交わしたカニにむしゃむしゃ食べられてしまう・・・。

 プチキューの貝がらだけが波に洗われて、ポッカリ口をあげていました。
 だれもプチキューが死んだのを知っている人はいませんでした。
 その次の晩もまばゆいばかりの星月夜でした…。
 その次の晩も……。
 その次の晩も・…‥。

 この結末を聞いて、「むごい」とか「つめたい」と批判する人がいたら、それはまったくのお門違いというものだろう。岸田今日子さんが、「ここには宇宙と少年のドラマが隠されている」という意味のことを言っていたが、たしかにこの童話の舞台は、満天の星が象徴している壮大な宇宙である。プチキューの死は、そんな宇宙のなかの死であって、茨木さんはそれを、日常的な情緒の世界にとらわれることなく、ただ「そうあるもの」として見ているのだ。
 そんな茨木さんの目は、その後に発表された数々のすぐれた詩作にも感じられる。ぼくは茨木さんに数回しか会ったことはないが、そのたびに感じたのも、茨木さんのクールで優しい目の光だった。      
       (コラムニスト)
(『永遠の詩2 茨木のり子』)

1957(昭32)31歳
9月、『櫂詩劇作品集』(的場書房)に「埴輪」収録。
10月、「櫂」解散。

1958(昭33)32歳
2月、豊島区池袋3-1392に転居
4月、詩劇「杏の村のどたばた」NHKラジオ第一放送

10月、保谷市(現・西東京市)東伏見に家を建てる。

 茨木のり子が医師である夫、三浦安信と結婚して最初に住んだのは埼玉・所沢である。次いで神楽坂、池袋であったが、住宅難の時代、いずれも借家であった。所帯をもって九年目、東伏見に新築したマイホームに転居したのが一九五八(昭和三十三)年、茨木、三十二歳のときである。
振り返ってみれば四十数年、終の棲家となった自宅である・・・
(『清冽』)

11月、第二詩集『見えない配達夫』飯塚書店刊。
(収録作品)
「ぎらりと光るダイヤのような日」
「わたしが一番きれいだったとき」
「六月」

大岡 なるほどね。その場合、戦争中は暗黒時代だったということがあるために、戦後になって、ある意味でもう一度青春を生き直すということに結局なったわけでしょう。もちろん戦後も青春なんだけど、「わたしが一番きれいだったとき」という詩にあるように、十代の半ばすぎ、つまりハイティーン時代というのが、完全に戦争にとられちゃった。
茨木 そうですね、まあ。
大岡 そういうことからくる青春奪回の意志というものが、茨木さんの場合には、世代的にも特別に強いと思うのね。
茨木 そうだと思います。男性だって、或る陥没を成している世代ですよ。ろくに勉強してないんですから。
(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)


「見えない配達夫」について 木原孝一
 ・・・茨木のり子は、現代意識と批評精神とをはっきり身につけている数少い詩人のひとりです。私たちのよくいう「考える詩」、すくなくともその詩を読んで、なにごとかを読者に考えさせるような詩を書くことのできる、教少い女性詩人のひとりだ、と去ってよいでしょう。
 はじめて私が彼女の詩にふれたのは一九五二年のはじめの頃でした。その詩は「魂」という題の作品で、それは次のように終っていました。

 まれに・・・
 私は手鏡を取り
 あなたのみじめな奴隷をとらえる

 いまなお<私>を生きることのない
 この国の若者のひとつの顔が
 そこに
 火をはらんだまま凍っている

 鏡にうつる自分の肉体と容貌を、魂の奴隷としてとらえるところに、私は彼女の批評精神の原型を見ます。そして、そのかげに自我喪失のかたちで多くの可能性をはらみながら映っている若者のイメージのなかに、私は私たちと彼女との共通のものである現代意識の芽を見るのです。だが、それにもまして、私を驚かせたものは、この批評と意識とを肉付けしているある能力だったのです。・・・
(『見えない配達夫』)

11月、「埴輪」TBSラジオ芸術祭参加ドラマ放送。

(その5)に続く






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