2016年5月26日木曜日

憲法を考える(『朝日新聞』) 自民改憲草案 自由(上) 責任・公の秩序 自覚求める / 自由(中) 「ほどほど」では、自由でない / 自由(下) 自分の自由 吟味する覚悟も

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憲法を考える 自民改憲草案
自由(上) 責任・公の秩序 自覚求める (『朝日新聞』2016-05-19)

 自由ってなんだ?

 自民党憲法改正草案12条には、こうある。「国民は、これを濫用(らんよう)してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」

 説教くさい。

迷惑かけない「当然のこと」

 あなたたちは自由です。でも濫用はだめ。責任と義務を自覚しなさい。公益及び公の秩序に反してはいけません - 。条文に新たに付けられたタイトルは「国民の責務」。自民党はQ&A集で説明する。「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです」

 当然のこと・・・。あれ? この言葉のトーン、「あの時」に似ている。20年前の光景を、ふいに思い出した。

 「そんなわがままは社会で通用しないぞ」

 小学6年の夏。私が「中学で坊主にはせんから(しないから)」と切り出すと、先生からこんな答えが返ってきた。通うことが決まっていた岡山県倉敷市立の中学校は「男子は丸刈り、女子はおかっぱ」が校則だった。いがぐり頭に詰め襟の学ラン姿。一面に広がる田んぼの中をヘルメットをかぶって一列に並び自転車を走らせる。ださい。おしゃれに目覚めつつあった私は、どうしても嫌だった。

 日ごろは優しく、親切な先生だった。最初は諭すように。次第に声が冷たくなり、最後は怒声に変わった。

 「校則は社会のルール。守れないやつは犯罪者と同じだ」

 自分の髪形が、どうして社会のルールの話になるのかよくわからなかった。でも先生には「当然のこと」のようだった。

 結局、受験して私立中学に入学し、丸刈りは免れた。でも、私と先生の「当然」が違う時、先生の「当然」が正しいのが社会なのか? 私は「犯罪者」なのか? 少し後ろめたかった。

 中学入学後、そんな後ろめたさを解消してくれる本を偶然、書店で手にした。1990年に出された「生徒人権手帳」だ。89年に国連で採択された「子どもの権利条約」に基づき、「体罰をうけない」「集団行動訓練を拒否する」「自分の髪形は自分で決める」といったことは、子どもが持つ権利だと説明していた。他人がなんと言おうとも個人の自由は尊重される、と。

 現行憲法97条も、わざわざ明記している。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であると。

 ではなぜ、自由を主張すると警戒されるのか。「大人は、鋳型のような『よき子ども像』を勝手に描いていますからね」。「手帳」の筆者の一人で、当時、学校の校則問題に取り組んでいたノンフィクションライターの藤井誠二さんは、そう振り返る。「鋳型」から外れると子どもは不幸になる。規則で縛ってあげないといけない。それが子どものためなのだ - 。

 だが藤井さんは言う。「仮に善意でも、相手を縛る規則をつくるのは結局、相手を信用していないからです」

 なるほど。改憲草案をつくった政治家には、国民が「子ども」のように見えているのかもしれない。

 (高久潤)

憲法を考える 自民改憲草案
自由(中) 「ほどほど」では、自由でない (『朝日新聞』2016-05-20)

 「ほどほどの自由」

 自民党の憲法改正草案の「自由」に対するスタンスを追うと、そんな印象を持つ。

 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」だと明記した現行憲法97条は、削除。

 表現の自由を定めた21条には「公益」や「公の秩序」を害することを目的にしてはならないとの文言が追加され、「自由」は念入りに制限を掛けられる。

 だが、「ほどほどの自由」しか許されない社会とは、どんなものなのだろう? 今年1~3月、TBS系列で放送されたテレビドラマが、ひとつの答えを与えてくれる。

 「わたしを離さないで」

 原作は英国の作家カズオ・イシグロの長編小説。他人に臓器を提供する目的で作られた「クローン人間」が主人公だ。

 人為的に作られたということ以外「普通」の人間とほぼ変わらない主人公たちは幼少期から「あなたたちは臓器提供の使命を持った天使だ」と教え込まれる。クローン同士の恋愛や、生活の自由はあるが、臓器提供の拒否は決して許されない。

 ドラマでは原作にない独自の設定として、そんな「ほどほどの自由」を疑う少女「真実(まなみ)」が登場する。真実は仲間とひそかにクローンの権利を訴える活動を計画する一方、周囲に順応しがちな主人公に、私たちの人権は侵されている、と伝えようとする。「誰にだって幸せを追求する権利があるのよ」。紙切れに記されたのは現行憲法13条

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 美しいはずの「他者」や「公」への奉仕が個人の身体や心を侵食していく不気味さ - 。

 自民党の伊吹文明元衆院議長が4月、講演でこんな発言をしていたことを思い出した。

 「皆が公のことを考える強靱(きょうじん)な日本人をつくらなければならない」

 今の日本社会を「パチンコ屋の前で良い台を取ろうとして、開店を待っていてもなんとか食べていける国」と嘆く伊吹氏。憲法に直接関係する発言ではないが、自民党議員からは幾度となく、個人が自分のことばかりを主張し、公の秩序が乱れているのではないかという危機感が表明されている。

 憲法学者の山元一・慶大教授は言う。「公の秩序と個人の自由を対立させ、『公』に『自由』を服属させた途端、権利としての自由の価値は根幹から破壊される。もはやそれは、自由とは言えません」

 ドラマの第6話。真実らの権利活動は警察の知るところとなる。追いつめられた真実は街頭で手首を切り、自分は天使などではなく人間だ、と訴える。自分の心も身体も、自分のもの。それが許されないなら「どうか何も考えないように作って」。

 「ほどほどの自由」は、自由ではない。自ら命を絶った真実の姿が、その「真実」を私たちに突きつけてくる。

 (高久潤)

憲法を考える 自民改憲草案
自由(下) 自分の自由 吟味する覚悟も (『朝日新聞』2016-05-21)

 「リベルテ(自由)! リベルテ!」

 2015年1月、パリ中心部の共和国広場に、無数の声が響き渡った。

 イスラム教の預言者ムハンマドへの風刺画などで知られる週刊新聞社が、イスラム過激派によって襲撃され、12人が死亡したテロ事件。市民たちは抗議の意思を「リベルテ」の言葉に託し、練り歩いた。その数はパリだけで120万人以上。1944年、第2次世界大戦中の「パリ解放」以来の大行進だった。

 怒りと高揚が渦巻く中、うつむき立っている女性の姿が、取材中の私の目に留まった。

 友人に誘われてきたというパリ郊外在住のドルカス・マキーヤさん(25)。なぜ参加したのか尋ねると、テロへの抗議、言論の自由の大切さをよどみなく語り、少し間をあけて、付け加えた。「私はイスラム教徒。この状況で、参加を断れないでしょ」

 自由という理念は輝かしいし、なんだか人をワクワクさせる。ただ同時に、ある人の自由が、他人の自由を侵したりする場合もあることを私たちは経験的に知っている。自分が大事に思う価値や権利を主張することが、他人のそれを抑圧したり、侵害したりしていないか?

 私の自由と、他人の自由。それがぶつかったときの調整弁として、現行憲法が設けているのが「公共の福祉」だ。13条は、自由については国政上、最大の尊重を必要とするが、「公共の福祉に反しない限り」との条件をつけている

 だが、調整はなかなか面倒だ。2004年、自民党憲法調査会憲法改正プロジェクトチームの議論では「こういう風にものを考えれば幸せになれる、ということを国に規定してほしいと多くの国民は願望しているのでは」と発言した議員もいた。

 経済的自由が行き過ぎた結果としての格差拡大が問題視されたり、表現の自由の名の下でのイスラム教への風刺が強い批判にさらされたり。昨今、とかく自由は分が悪い。自民党改憲草案にあるように、自由より「公の秩序」を優先した方がいい。その主張に同意しないまでも、ひかれる人は多いと思う。「こうしなさい」と誰かに決めてもらった方が、正直楽だ。「公の秩序」を優先して、ややこしい問題が解決するなら結構なことではないか。

 しかし、法哲学者の井上達夫・東大教授は「『公の秩序』に委ねたところで問題は解決しない」と指摘する。

 「自由への不信の根幹にあるのは、自由の主張が他者への不正な支配に転化することへの怒りや反発です。自由を主張する者が、同じく自由を求める他者の視点からでも、それを正当化できるか、批判的に吟味し続けるしか、自由を守ることはできません」

 なんとも面倒くさい。でも、時にぶつかりながら、自分と他人の自由に折り合いをつける面倒くささを個々人が引き受ける以外に、自由な世界を成り立たせるすべは、おそらく、ない

 自由には責任が伴う。自民党改憲草案12条の言葉が、そのような意味で用いられるのであれば、正しい。

(高久潤)

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