2016年5月31日火曜日

詩人茨木のり子の年譜(5) 1960(昭和35)34歳 「あるとしの六月に」(『朝日新聞』) 「惰るべき六月」 翌年 「時代に対する詩人の態度」 ~ 1963(昭和38)37歳 

海の見える丘公園ローズガーデン 2016-05-21
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(その4)より

1960(昭35)34歳
2月、「ある一五分」HNKラジオ第二放送。
6月、「現代詩の会」安保阻止デモ。
7月4日、「あるとしの六月に」が『朝日新聞』に掲載される(第三詩集『鎮魂歌』1965年1月刊所収)

8月、「惰るべき六月」(雑誌「現代詩」飯塚書店)。

 ・・・五月から六月の日々を綴ったものであるが、この時期、日記本体では空欄が続いている。日記とは文体も明らかに異なり、これは日記風の体裁を取ったエッセイである。」

《(六月四日) その日、一人でも入れるデモを探そうと思った。(中略)坂の中ほどに立ってぼんやり見ていると、やがて大学生の大群がジグザグ行進をしてやつてきた。全学連をまのあたり見たのもこれが最初だった。〈岸を倒せ〉〈安保反対〉われらの友情は・・・という唄、はためき流れる無数の校旗、汗くさい顔、稚い顔の渦・・・全学連は日本の鬼っ子だ。とびがたかを生んで驚いているようなものだ。
 この皮肉と、おかしみと、感動! かれらは年令からいえば戦死した学徒兵たちの末弟ぐらいにあたるだろうか?》

《(同日) デモの波は、また動き始め、新橋方面に向かった。プロデューサーと別れて私はまた「声なき声の会」の列にもどった。警官の前を通るときは、うっかりすると押し返されるのでしっかりスクラムを組んだ。まったくこれも私にとつては劃期的なことだった。夫以外の見も知らぬ男性と腕を組むなどということは!》

《(六月十一日) 岸首相がギロチンにかけられているあやつり人形や、鬼のように手足を縛られ棒にくくりつけられていく人形や、「デッパひつこめ」のプラカードがさまざまの組合旗のあとに行進した。デッパであるのは岸氏の責任ではなく、ギロチンにかけるとすれば戦後すぐでなければならなかった。だからこれらの飾りものは、感覚的に不愉快だった。予備校生が持つて歩いたという「岸さん、浪人も悪くありませんよ」というプラカードの方が、どれほどウイットがあることか。たしかに岸氏は巣鴨以来永久に浪人でなければならなかった》

《(六月二十二日) 負けたことは事実だ。そういえば安保闘争は最初から負けていたともいえる。岸信介を選んだときにすでに負けている。
 選挙法にも問題があるらしいし、また広い日本の民衆の意識そのものが、敗戦の実態を受けとめていなかつたことの証拠で、これだけ盛上つた安保闘争が、どこかに絶望とむなしさを抱えていたのも、民衆の選んだ政府を民衆が罵倒する - その関係のやりきれなさがつきまとつていた故かもしれない》
(『清冽』)


この頃の日記にある読書感想

【L・ヒューバーマンの『キューバ』(岩波新書)をよむ。キューバについて知ることが多い。革命が成立するためには、よほど抑圧された貧困が前提となる。それが猛烈なバネとなり、ダイナマイトとなる。日本をふりかえってみると、その機会は敗戦直後しかなかったわけだ。民族性の違い。血のPHにもよるだろうが】 (一九六二年九月一日)

【『追われゆく坑夫たち』(上野英信/岩波新書)をよむ。ひどい世界だ。地獄だとおもっても、そこを去ることのできない人たち。ただこういう知識だけが増えてゆく自分をうとましく思う】 (一九六二年九月七日)

【岩波新書の『実存主義』(松波信三郎)をよむ。いかに日本人と思考形態が違うことか・・・。手をかえ品をかえ、実存という言葉をわからせようということに全努力が使われている。哲学の根づかなさ - 日本に於げろ - を痛感する。これほどこんせつ丁寧な入門書をよんでもおぼろげにわかるばかりである】 (一九六二年九月二十三日)

 キューバ革命、追われゆく坑夫たち、実存主義・・・いまや過ぎ去りし言葉ともなっているが、このころ、読書階層には親しまれたジャンルの本だった。
 茨木のり子には終始、固定したイデオロギーや特定の政治思想などはない。広い意味での教養人であり、リベラリストであったが、そのような人々は、一九六〇年代、社会的な層としていえばいまよりもはるかに厚く存在していた。自身の潜り抜けた戦争体験への自省を基点に、正面から自身と社会について思考することを止めない。それを良き〈戦後的精神〉といっていいのなら、彼女のなかにその精神を見るのである。
(『清冽』)

1961(昭36)35歳
3月、夫、くも膜下出血で入院。

「汲む」は『鎮魂歌』に収録されているが、初出は雑誌「いずみ」に掲載されている。茨木、三十五歳の作品である。
(「 - Y・Yに - 」)
Y・Yとは新劇の女優・山本安英のことである。人は若き日、そうとは知らずに大事な出会いを果たすものであるが、茨木にとって山本はそういう人だった。
(『清冽』)

エッセイ「時代に対する詩人の態度」(「現代詩手帳」1961年3月号)

 ・・・茨木は自身が安保闘争に参加した背景として、詩人と時代のかかわり方をまず押さえている。
《ヨーロッパの詩人にしても、中国の詩人にしても、どちらかというと時代に深くかかわった人達の方が私は好きだ。シェイクスピアなどほけろりとして(だと思うが)英国のルネッサンスに於ける人間たちの不安、動揺、懐疑、そして昂揚をはっきりつかみ出しているではないか。人々が思っている以上に文字をつづってなす仕事は、その時代との深いつながりを保っているものだと思う》

そして、運動参加者へのさまざまなレッテル張りなど、まるでトンチンカンであることにダメを押して締めくくっている。
《ポール・エリュアールの美しい言葉

 としをとる それはおのが青春を
 歳月の中で組織することだ

 というのか頭にひらめき、いまもひらめき続けている。私も切実にそうありたいと願う。
 私の青春とは、終戦と同時に、内からも外からもやってきた、あの矛盾だらけの若さに外ならない。
 歳月のなかで組織する - その歳月のなかに春夏秋冬しか見られない人は悲しい。歳月とは流れゆく時代だ。過渡的にして永遠な歴史そのものだ。
 あたうかぎり、自分の生きる時代と深くかかわってゆきたい。それも言葉で言うほど簡単ではないに違いない。時代の心臓は深くかくされている。
 デモに参加して以後、だいぶいろんなレッテルをはられたようだ。「進歩的文化人づら」「左派詩人」
 おお! じまんじゃないが資本論も読んだことのない者が、左派詩人のなかに入れてもらえるなら、まったく入れてもらいたいものだ。進歩的文化人づらというのはどういうのだろう? 馬づらみたいなのかしら?
 旅行鞄のラベルは賑やかな方がいい。「ミーチャン、ハーチャン」とでも「詩人にあらず」とでも、いろどり豊かにはってもらいたいものだ》
(『清冽』)

1963(昭38)37歳
4月、父洪死去、弟英一が医院の跡を継ぐ。
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(その6)に続く


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