2016年5月27日金曜日

詩人茨木のり子の年譜(3) 1950(昭和25)24歳 同人誌「櫂」発行 ~ 1955(昭和30)29歳 第一詩集『対話』刊行

2016-05-22 海の見える丘公園ローズガーデン
*
(その2)より

1950(昭25)24歳
芝居や戯曲の台詞における「詩」の欠如に気づき、詩の本格的な勉強を始める。
雑誌『詩学』の投稿欄「詩学研究会」を始める。
投稿に際し「本名では何やら恥しい」のでそのときラジオから流れてきた謡曲の「茨木」をペンネームに決める。のり子は本名のまま。
詩「いさましい歌」が選ばれ、この年の9月号に掲載される。村野四郎、嵯峨信之、長江道太郎、鮎川信夫、木原孝一、各氏の選。
その後、「焦燥」(昭和26年)、「魂」「民衆」(昭和27年)を「詩学」に投稿。

茨木のり子の詩がはじめて活字となったのは、雑誌「詩学」の投稿欄、「詩学研究会」である。
表題は「いさましい歌」。一九五〇(昭和二十五)年である。
「「櫂(かい)」小史」 に、詩を書きはじめた当時のことを回想している。

《昭和二十四年の秋に私は結婚していて、所沢町に住み、翌二十五年くらいから、詩を書こうとしていた。詩を書きたいという欲求もさることながら、言葉を鵜匠のように、自由自在に扱ってみたい、言葉をもっとらくらくと発してみたい、言葉に攫われてもみたいという強い願望があり、そのためには詩を書くことが先決のように直感されたからであった。
詩の師を探す気特はさらさらなく、仲間もなく、ただ自分一人でこつこつ書いていこうと思っていた。その頃、本屋に毎月きちんと出ていた「詩学」という詩誌があり、詩学研究会という投稿欄もあって、選者は村野四郎氏だった。
一人で書いているのは、いくらか心細くなったとみえ、どこの誰ともわからない者の詩として、村野四郎氏に一度見てもらいたくなったらしい》

詩学研究会を足場に成長していた詩人は茨木の他、川崎洋、谷川俊太郎、山本太郎などがいる。のちに『どくとるマンボウ航海記』などで知られる作家の北杜夫も研究会への投稿者だった。
(『清冽』)

1953(昭28)27歳
3月、川崎洋との出会い。

川崎と茨木の出会いは一九五三(昭和二十八)年三月。「同人誌をやりませんか」という川崎の手紙に応えた茨木が、未知の差し出し人と東京・八重洲口で待ち合わせたのがはじまりである。
・・・茨木二十六歳、川崎二十三歳。「櫂」の名づけ親は川崎である。
(『清冽』)

5月、同人誌「櫂」創刊。創刊号は川崎洋・茨木のり子の二人だけの同人誌だったが、二号からは谷川俊太郎、三号から舟岡遊治郎・吉野弘、四号から水尾比呂志が参加し、その後の第二次戦後派の詩人を多数輩出するようになった(ほかに、友竹辰、大岡信、岸田衿子、中江俊夫らが参加)。

出会いから間もなくして、川崎の「虹」、茨木の「方言辞典」の二編を載せた六ページの創刊号「櫂」が刊行されている。部数百二十部。文字通り、か細い二本の櫂によって漕ぎ出された箱舟だった。
二人で創刊の祝いを新宿の喫茶店でしたものの、「その日、(五月)二十四日は夫の月給日の前日で、川崎さんと割り勘で、ライスカレーと珈琲のんだら、お金がすっからかんとなり、電車賃にぎりぎりで、ほうほうのていで帰った」とも茨木は書いている。
創刊号の反響として、戦後詩の第一人者、鮎川信夫より、茨木のもとに 「いたましい気特であなたたちの詩を読んだ。詩学研究会で知ったぼくの最も好きな詩人であるあなたたちの詩が、これからどのような発展をし、どのような試練に耐えてゆくかに深い関心を抱いています。あなた達がすぐれた素質を持っておられるだけに、ぼくの不安も人ごとでなくなります」と記した葉書が届いたとある。
その後、同人は一人増え、二人増え、やがて九人のメンバーを数えるようになるが、「背骨は川崎さんと茨木さん」(谷川)であり続けた。
創刊からほぼ一年、第六号ころでいえば、発行部数は二百部、費用は一万二千円を要したとある。
国家公務員の初任給の比率で換算すると、現在に置き換えれば三十万円弱になろうか。
費用分担は川崎が半分、茨木が四分の一、残りを同人費で埋めるということになっていた。茨木は費用捻出の手助けとして、毛糸のネクタイ織りの内職をはじめたとも記している。

(「櫂」同人)女性は茨木一人であったが、岸田衿子が加わることによって複数となった。
岸田衿子は一九二九(昭和四)年生まれ。劇作家・岸田国士の長女。次女はのち女優となる岸田今日子である。

一九五三(昭和二十八)年から五五(昭和三十)年にかけて十一冊刊行されている。一旦、休刊されるが、十年後の一九六五(昭和四十)年になって復刊され、第二期「櫂」が始まる。同人たちの付き合いは休刊中も途絶えることなく続き、「仲良しクラブ」と揶揄された。
「櫂」で見られる茨木作品の最後の作品は「笑う能力」(第33号、一九九九年二月)であるが、生涯、茨木は同人であり続けた。

詩誌グループにも活気があった。戦後に復活した「歴程」には新旧の詩人が集まり、鮎川信夫、田村隆一、吉本隆明、黒田三郎らが主導する「荒地」は実存的色彩が色濃く漂い、関根弘、長谷川龍生、黒田喜夫らが集う「列島」は社会派とも呼ばれた。
(『清冽』)

1955(昭30)29歳
11月、第一詩集『対話』を不知火社より刊行。

茨木のり子の第一詩集『対話』(不知火社、一九五五年)に収録された「根府川の海」・・・
茨木の(戦争詩)といえば「わたしが一番きれいだったとき」が有名であるが、「根府川の海」ほそれと並ぶ代表作であろう。
詩句にあるように、詩は戦後八年たった一九五三 (昭和二十八)年、「詩学」に発表されている。
エッセイ「「櫂(かい)」小史」(『現代詩文庫/茨木のり子詩集』)のなかでは、この詩を記した日をこう回想している。

《たまたまその日は、成人の日で休日。夫と一緒に新宿へ映画「真空地帯」を観にゆくことになっていたが、一寸待ってもらって、原稿用紙に向い、十分位で、ちゃらちゃらと書いたのが「根府川の海」である。既に私の心のなかに出来上っていたとも言えるが、今ではもう、あんなふうに気楽には書けなくなってしまっている》

茨木のり子のはじめての詩集『対話』 は、「櫂」のスタートからいえば二年後、一九五五(昭和三十)年、二十九歳の年に刊行されている。
エッセイ「第一詩集を出した頃」(『増補 茨木のり子』)によれば、版元は不知火社、部数四百部、定価二百五十円であった。
不知火社の”社主”は、川崎の従兄弟で福島康人という九州男児。社名は八代海にあらわれる火影にちなんでつけられたという。社にとっての処女出版が『対話』であった。
案の定というべきか、詩集はさっぱり売れず、不知火社はこの一冊をもって消滅している。

『対話』には「根府川の海」「対話」「方言辞典」など十七編が収録されているが、冒頭に据えられている作品は「魂」である。
(『清冽』)

そうして翻って、最初の詩集『対話』に戻ると、「いちど視たもの - 一九五五年八月十五日のために - 」という詩にふと目が留まった。歴史は動いていく。過去、学校で習ったことより、自分の肉眼で視たもの、それをよりどころに生きていこうという詩だ。
・:・・
戦争が終わり、この詩人のなかには自分の目でものを見、生きようという雑草のごとき欲望が沸き上がってきたのだと思う。そう、この「生きよう!」という自らの声は、晩年に空ろまで、茨木のり子の体を貫いていた。そしてそれは、民族の違いを越え、一人の人間と一人の人間としてつながりあいたいという、理想主義的な願いとなって、いくつかの詩のなかに結晶した
(小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)
*
*

(その4)に続く








0 件のコメント: