2016年5月26日木曜日

詩人茨木のり子の年譜(2) 1946(昭和21)20歳 童話作家時代 ~ 1949(昭和24)23歳 結婚

横浜 山下公園 2016-05-21
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(その1)より

1946(昭21)20歳
4月、帝国女子医学薬学部再開。
東京での滞在時(~1947)、茨木は世田谷区世田谷二丁目(現・世田谷区梅丘)にある民家の二階八畳の間に下宿住まいをした。
家主は土佐林豊夫という画家。

夏、帝劇でシェークスピア「真夏の夜の夢」を観て以来、新劇に熱中。

 ・・・昭和二十一年の夏、帝劇で「真夏の夜の夢」を観たとき、劇場前に大きな看板が立てられて、それは読売新聞主催の第一回 「戯曲」募集の広告だった。私はこれに応募してみようと思った。それというのも私に文学の才能があるかどうか、父に実証してみせる必要があったのである 
(「はたちが敗戦」)

茨木 ・・・わたしは戦後すぐの新劇の第一回公演から見てるんです。
・・・
茨木 銀座の焼跡をね、下駄でガラガラ歩いてたんです。下駄しかなくて。それで一番最初は前進座の「ツーロン港」、戦争中のレジスタンス劇だったですね。
大岡 そうそう、作者はフランスの小説家でしたね。
茨木 それが最初。原泉さんが若くてきれいだった。それからあと、イプセンの「人形の家」。あとはダァーツと新劇ばかり見て歩いたんですけど・・・
 だから、一つには時代的な風潮があります。もう一つには、若い時って自分の中にさまざまの矛盾葛藤があるじゃありませんか。どれが自分なのかわからない。その葛藤に形を与えるのに戯曲は一番ふさおしい形式に思えたわけね。そういう自分の内的な欲求と二つの契機があったんでしょう。」
(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

9月、繰り上げ卒業して薬剤師の資格を得るが、その職につくことはなかった。
「年譜」には、「かなりの劣等生、そのうえ、空襲下、逃げまどうばかりの学生生活だったため、みずからを恥じ、以後薬剤師の資格は使用せず」と記している。

9月21日、戯曲「とほつみおやたち」が読売新聞戯曲第1回募集に佳作当選。

三河地方の木綿発祥の民話をもとにした戯曲が「選外佳作」に選ばれる。「暗夜に灯をみつけたような嬉しさだった」と茨木は記している。
いまだ卵とはいえ若い女性の戯曲の書き手は珍しい。山本安英が励ましの手紙をくれた。それがきっかけで、茨木は山本の家を訪ねるようになる。戦後、山本は劇団には属さず、「ぶどうの会」さらに「山本安英の会」を足場に演劇活動を続けていく。
茨木二十一歳、山本四十代はじめの日である。
(『清冽』)

女優・山本安英と出会い、これ以後生涯にわたる親交のなかで「女の生きかた」の一番大切なところを学び吸収していった。
のち、『汲む - Y・Yに -』(第二詩集『鎮魂歌』所収)で、茨木が山本安英の何を見て何を学んだかについて書いている。

大岡 結局女性の場合には後続部隊というか、男の連中が出で立ってゆくのを見送って、口もとまで出てくる悲しみや喜びを全部押しかくして、外には出さない、という形だったでしょう。そこからくる抑圧された思いというのが、戦後になって爆発するわけですけれど、女の人の多くは、風俗、つまりファッション的なもので戦争中の抑圧を解放する。また、恋愛もね。さまざまだと思うんですが、茨木さんの場合は、むしろ稀なケースですね。つまり、言葉というものに初めからぶつかった、という人は、あの当時まだ少なかった。
茨木 ええ、何よりもまず自分のしっかりした言葉がほしいと思った。変わってたかもしれませんね。
大岡 あのころ他の同世代の人で、戯曲を書く女性の仲間みたいな人はなかったんでし
茨木 ええ。一人もいませんでした。
大岡 だから、そのあたりがちょっと、独特だと思うんです。
(大岡信対談)

1948(昭23)22歳
7月30日、童話『貝の子プチキュー』がNHKラジオ第一放送の夏のラジオ学校(低学年の時間)で放送。朗読は山本安英。
また、童話『雁のくる頃』が、NHK名古屋でラジオ放送。

この年、名古屋出身の岩川三子が看護婦見習いとして宮崎医院に住み込む。
岩川は八年間、宮崎医院で看護婦をつとめている。その後名古屋の病院に移り、結婚後に東京に移り住む。後年、茨木との再会があり、一人暮らしの茨木のお手伝いをした婦人ともなっていく。

1949(昭24)23歳
岡田幸子が宮崎医院のお手伝いさんとして住み込む・・・。岩川の姉と岡田の姉が女学校の同級生で、そんな縁からやってきた家であった。

この年の秋、のり子は三浦安信と結婚し、埼玉・所沢に転居していく。岡田にとってのり子と生活をともにしたのは半年余りであったが、忘れ難い人となった。
(『清冽』)

11月、鶴岡出身の医師、三浦安信と結婚。所沢市大字所沢仲町577に住む。夫は新しい医学の在りかたを求める意欲的な勤務医で、物書きの道を進む妻を温かく見守ってくれる「上等の男性」だった。

夫、三浦安信。
1818年8月28日生れ。山形県鶴岡市出身。旧制山形高等学校理科乙類から、1945年に大阪帝国大学医学部を卒業。46年に新潟医大助手。

二十三歳の日、茨木(宮崎)のり子は三浦のり子となる。そして、夫の病死によって二人暮らしが断ち切られるのは四十八歳の日である。
(『清冽』)


(その3)に続く




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