2016年5月20日金曜日

堀田善衛『ゴヤ』(98)「戦争の惨禍」(3終) 「”独立”戦争は”半島”を英国の植民地にしてしまい、スペインの諸植民地は、今度は英国帝国主義の二重植民地に仕立てなおされてしまった。」

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 ところで、注目をしなければならないのは、第一次サラゴーサ包囲戦終了後に入って来たカスターニォス・パラフォックス軍に、英国からの使節団がついて来ていたことである。団長はウィリアム・ドイル将軍で、リチャード・ウォーン卿が政治顧問、それにジョン・オニール及びジョン・バトラーの両将軍がパラフォックス軍のお目付役としてついている。

 ・・・この当時でも英語を話せる人はマドリードにも非常に少かった。にも拘らず英国人スパイは国中にばらまかれていた・・・。ガリシア地方とセピーリァからロンドンへ派遣された使節は、フランス語で英国外務省と交渉をしたものであった。
英国はこれらの使節に要求されるまま、武器弾薬や資金を、貸しつけた。やったのではない、貸したのである。

 貸したものは、回収しなければならぬ。英国は一八〇八年から一八一四年までの六年間に、年平均実に二五〇〇万ポンド・スターリングをスペインにばらまいた。そうしてまずスペイン海軍と商船を静かに接収し、ついで各港の倉庫をカラにし、それでも足りない分は、中南米からの送り荷を英国経由とさせ、かつ中南米からのスペインへの送金をロンドンの英国銀行経由とするという操作をして短期間に完全に回収した。・・・

 すべてはスペインの民衆の目につかないところで行われた。民衆やゲリラには英国はひたすらに寛大広量な、スペイン独立のための援助者と見えた。

 しかし、おかげでスペインは一八一一年から一二年にかけて恐ろしい食糧不足に見舞われ、マドリードさえが三万人もの飢、病死者を出さなければならなかった。・・・各地の倉庫からいつの間にやら食糧がなくなり、英国から買おうにも国庫にも銀行にも金がなくなっていた。それに船もない。今日でもマドリードの町には矢鱈と銀行が目立ち、石を投げれば銀行にあたるとさえ言いたくなる有様であるが、彼らの取引の相当部分は中南米とのそれであり、その取引の大部分をロンドンのシティ経由にされ、しかもそこに長期間とどめられて利息かせぎをされたらスペインは破産する。

 ”独立”戦争は”半島”を英国の植民地にしてしまい、スペインの諸植民地は、今度は英国帝国主義の二重植民地に仕立てなおされてしまった。・・・

サラゴーサへも莫大な資金が投下された。城壁は修理され、新しい砲が据えつけられ、オニール、バトラー両将軍が兵を訓練した。

 ところで、ゴヤもが招かれて参加をしたかもしれない一〇月二〇日の勝利祝賀大宴会について、である。この宴会は、飲めや歌えやどころの騒ぎではない、いわば一大狂宴となったものであったらしい。カスターニォス、パラフォックス両将軍と四人の英国人顧問の御臨席のもとにアラゴンじゅうの葡萄酒がなくなってしまうのではないかと思われるほどに飲んだものであるらしい。


 全聾の彼に、飲んで歌ってはしゃぎまわる酔いどれどもの顔とその表情が如何なるものとして映るか。パラフォックス将軍は三三歳の若造にすぎない。六二歳という年齢は大酒を飲んで暴れたり騒いだりする年ではない。それにスペインの宴会は、ちょっとやそっとでは終りはしない。それは朝までかかる。二日も三日もつづくことさえ珍しくない。
全聾の彼が白けた気特になって行ったとしても不思議はないであろう。・・・

 ゴヤがサラゴーサで何をしたか。「同市の荒廃の様を見て、サラゴーサ人の栄光を描きとめる」ことをした作品などは、一つとして残ってはいないのである。・・・"

 サラゴーサでのゴヤの在り様を解く鍵は、しかし、一つはあると思われる。
それはこの年に描かれたパラフォックス将軍の肖像画である。この若い将軍は、金モールでピカピカの軍服に、これも金ピカの剣をおび、おまけに指までも描いてもらっているのであるけれども、その表情は決して勇武の人のそれなどではなく、・・・これがかの有名なサラゴーサの英雄か、と疑いたくなるような、やわなものである。

 無類の人間観察者であるゴヤに、この人物の内実が見抜けなかった筈はなかろう。サラゴーサ包囲戦中の、再三にわたる彼の奇異な挙動の裏付けをゴヤがしてくれている、とまでは、ここでも言えないにしても、それは何かを語っていることだけはたしかであろう。第二次サラゴーサ包囲戦が開始されると、彼の挙動はますます奇怪なものになる。

 一八一四年にもう一度この影のある将軍の騎馬像を画家は描くのであるが、ゴヤが画料を請求し、パラフォックスが値切ったことに腹を立てて絵を渡さなかった。ゴヤの死後に息子のハビエールが引き取ってほしいと言うと、そこでもまた見苦しいやりとりがあってやっとのことで絵は引き取られた。画家とこの将軍のあいだに何か事があったのであろうと想像をしても不自然ではあるまい。

 ドールス氏の如きは、ゴヤはアラゴン滞在中は、ほとんどの時日を生れの地のフエンデトードスですごした、とさえ言っているのである。"
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