2024年9月8日日曜日

大杉栄とその時代年表(247) 1898(明治31)年8月4日~31日 第6回臨時衆議院議員選挙(憲政党は絶対多数を獲得) フィリピンのスペイン軍降伏(米軍、単独でマニラ占領) 共和演説事件(文相尾崎行雄への攻撃) 「ほとゝぎす發行處を東京へ遷す事」  

 

尾崎行雄

大杉栄とその時代年表(246) 1898(明治31)年7月8日~8月2日 四川省哥老会首領、「須清滅洋」スローガン掲げる 子規、自らの墓誌銘を記し河東可全宛ての手紙に託す 子規、人力車で町巡り 漱石、小天を再訪(?) より続く

1898(明治31)年

8月4日

活版印刷工組合「懇和会」再建。

9月28日、機関紙「誠友」創刊。

翌明治3年11月3日、「懇話会」解散し「活版工組合」結成。

8月10日

第6回臨時衆議院議員選挙。衆議院300議席中、憲政党260、国民協会20、無所属20となる、川上音二郎立候補惨敗。青木正太郎再選、村野常右衛門初当選。ともに憲政党。

憲政党は絶対多数を獲得して与党の地位を不動のものとし,隈板内閣の前途は安定したものであるかに見える。しかし、旧自由党系と旧進歩党(改進党)系には10年代の民権運動の時期から激しく対立してきた歴史に根ざす相互不信があり、ポストの奪い合いも激しく、かつ鉄道国営化、警視庁廃止問題、文官任用令改正問題などの重要政策についても意見の対立を引きずったままで、内紛の種はいたるところにあった。

国民協会品川弥二郎の同志佐々友房に宛てた書簡。


「親勅任の進退も犬声党本部の議決次第と迄申世の中と相成恐惶々々。・・・や二(品川)の手ニテ一粒の兵糧出来ぬとは何とも申訳なし。万事御推恕可被下候。・・・回天ノ時機ハ必らす遠からず来り、同志此の苦辛を笑ツテ談スルノ日ヲ屈指相楽しみ此暑サも忘れ侯也」


8月10日

漱石の村上霽月宛て葉書。


「立秋とは相成候へども炎熱/恐入る許に御座候偏に/老體の保安を祈る/暁や白蓮を剪る/數奇心」

8月11日

文相尾崎行雄、教員の言論集会への制限撤廃

自由民権運動の時期以来長年にわたって教員の言論集会に種々の制限を加えてきた省令・訓令・内訓・達・内達22種類(明治14年~31年)を一括廃止。その中には、伊沢修二の「国家教育社」(明治23年5月結成)が、辻新次が会長を勤める「大日本教育会」とも協力しながら、明治24(1891)年以降、義務教育費の国庫補助実現を求める「国立教育期成同盟会」を組織して、議会の請願活動など活発な運動を展開していた時期に、それを抑圧する目的で出された河野敏鎌文相の内訓(明治25年12月15日)や井上毅文相の籍口訓令(明治26年10月28日)なども含まれていた。

明治29(1896)年12月、国家教育社と大日本教育会が、近衛篤麿を初代会長として帝国教育会が発足し、帝国教育会は引き続き義務教育費の国庫補助の実現などの問題に取り組んでいる最中であったから、籍口訓令などの一括廃止は、帝国教育会に結集する広範な教育関係者には非常に歓迎された。

また尾崎文政は、「各府県の教科書採択審査会を廃止し小学校長若くは教員の採択に任すへき事」という教科書の学校単位での自由採択制度案を高等教育会議に諮問し、同会議での可決にまでこぎつけていた。当時の義務教育の教科書は府県単位の採択であり、今日においても広域採択制度(1府県平均で10採択区域程度)が採られていることを考え合わせると、これは画期的な改革案であった。しかし、尾崎の辞職とその直後における憲政党内閣自体の崩壊のために実現せず、その後の教科書制度は、明治35(1902)年末の教科書事件を契機にして、国定制度へと逆の方向に動いていった。

8月12日

米西戦争。スペインは太平洋艦隊・大西洋艦隊の継戦能力を失う。交戦状態は8月12日に停止され、形式上の平和条約は12月10日にパリで調印された1898年パリ条約で、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。

8月13日

足尾銅山鉱業停止東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌より


8月13日 足利郡役所に出頭、郡長に「自治体ノ破レタル件」につき陳情。

8月19日 久野村役場に出頭し「村治上ノ件」ついて協議。

8月25日 「村税補助請願書」をもって足利郡役所に出頭、郡長に面会して事情を話す。その請願書の内容は概ね次のようなことであり、内務・大蔵大臣への陳情を考えていた。

「免租処分が行われた結果、地租税は負担減租となったが納税額に基づいて与えられていた選挙権を失い、自治の機関がなくなった。また村税として課すことのできるのは戸別割のみとなったが、これすら鉱毒被害のため貧弱となった村民にとって負担に堪え難きものである。一村維持・自治体破滅を免がれるため、従来の地価割・反別割として徴収せられていた歳入額を土地回復するまで国庫補助を仰ぐ」。

この時期の運動は、当初、特別免租が中心に置かれていた。それは地租条例による普通免租を行うと選挙権を失ってしまい、選挙に基づいて行われていた自治行政が破壊されるためだった。それを防ぐために地租額が減じることのない特別免租を請願したのであるが、しかし普通一般の免租となってしまった。それ以降、「地方自治体ノ破レタル件」も請願の課題となったのである。また内務省へは渡良瀬川堤防の増築、河身改良の改修事業の要望も行っている。この他、被害民救済、被害地土地回復、損害賠償を要求しており、鉱業停止は運動の前面には出てきていない。

8月13日

初の国際水泳競技会が開催

8月13日

米西戦争(フィリピン)。スペイン軍降伏。米軍、単独でマニラを占領。

この月、11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカがスペインに代わって国の統治を始めると同時に、アメリカとフィリピンの戦争が始まった(米比戦争)。この戦争では20万人から150万人と言われる犠牲者を生んだ。

8月15日

秋山真之、海軍軍令部に観戦報告書「サンチャーゴ・デ・クーバ之役」を提出。のち、「極秘諜報第百十八号」として海軍要路に回覧され、日露戦争の海軍作戦作成の基礎資料のひとつとなる。

8月17日

与謝野鉄幹(25)父・礼厳(75)、没。長兄・次兄ともに他家に養子縁組のため鉄幹が与謝野家を継ぐ。父は、徳山の照幢のもとに養生していたため、鉄幹は徳山を訪ね病床を見舞い最期を看取る。ここで、かっての教え子浅田信子(さだこ)に再会、やがて信子は上京。

8月21日

共和演説事件尾崎行雄文相の帝国教育会茶話会での演説。拝金主義を排撃して共和政治に言及。これを反対派が揚げ足取りをして攻撃。10月24日、辞表提出。

『東京日日新聞』の攻撃

まっさきに共和演説攻撃を始めたのは『東京日日新聞』。明治5年創刊の同紙は、かつて福地源一郎が主筆を務めた古くからの政府系新聞で、当時は伊東巳代治が持ち主、主筆は朝比奈知泉であり、背後には伊藤博文、井上馨がいたといわれる長州閥系の新聞である。伊東巳代治は山県有朋とも関係がある。

同紙8月23日紙面で石塚剛毅記者が、演説の傍聴記を報道し、その中で「若し我国にして千百年の後共和政体設立するが如きことあるも(勿論なかるべきも)、拝金熱熾なれば到底之を維持すること能はざるべし。是れ不祥の例なるも説明の便宜上斯く論ぜざるを得ず」の部分に傍点を付して強調し、それを承けて翌24日の同紙「近時片々」欄が尾崎の演説を攻撃した。

『京華日報』,『中央新聞』による攻撃

『東京日日新聞』の尾崎演説攻撃に『京華日報』・『中央新聞』が唱和した。

『京華日報』は、山県有朋の支援で二宮熊次郎(孤松)が明治31年5月10日に創刊。雑誌『日本主義』に掲載された同紙の広告には、「日本主義、帝国主義の日刊新聞にして、日本主義の二宮熊次郎、瀧本誠一及び木村鷹太郎等の諸氏を以て主筆となす」とあり、共和演説事件当時は創刊間もない時期でもあって、政党勢力に対してきわめて戦闘的であった。『京華日報』は『東京日日新聞』の報道に直ちに同調し、 8月24日の1面と2面で攻撃を開始して以来、その攻撃は激烈を極め、3週間以上にわたって連日反尾崎、反隈板内閣キャンペーンを展開した。

明治26年創刊の『中央新聞』は政府党の大成会系であったが、当時は大岡育造が社長で国民協会系(薩摩閥系)の新聞であり、政友会成立後、大岡育造の政友会入りに依って政友会系新聞となっていく。『中央新聞』は27日に『帝国通信』に掲載された速記録の問題箇所を紙面で紹介し,一旦は「果して然らば之を以て尾崎文部を攻撃すること太だ非なり」と述べたが、翌28日には速記録は改窺されたとの立場から尾崎攻撃に廻った。

8月26日

3代目市川左団次、誕生。

8月27日

漱石の土屋忠治宛手紙。学生としての心得を記す。


「君平素禪を好むも禪は文句にあらず實地の修行なるべし塵労の裡にあつて常に塵労の為に轉ぜらるゝならば禪なきと一般ならん小生不知禪妄りに相似を説く唯君の成功を冀ふが為のみ」と記し、東京の大学生の不品行に染まらぬようにと警口する。

8月27日

川上音二郎、東京府より海外遊芸修業渡航免状受ける。

8月

虚子、ようやく松山から上京。老母の健康は回復し、柳原極堂との「ホトトギス」引継ぎも済ませたが、上京途中で子供が病気になり京都で入院したりしていた。帰るとすぐ、虚子は神田錦町に家を借りた。

8月31日

柳原極堂・高浜虚子「購讀者諸君に告ぐ」、「ほとゝぎす發行處を東京へ遷す事」(『ほとゝぎす』第20号)を掲載。

8月下旬

露、シベリア流刑地、レーニンとクルプスカヤ夫妻、シドニー・ウェッブ、ベアトリス・ウェッブ夫妻の「労働組合の歴史」翻訳


つづく



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