東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-05
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(25)
「十九 立ちあがる大東京- 震災後の復興」(その1)
昭和6年12月11日
いつものように中洲病院に行った帰途、新大橋から乗合汽船に乗って吾妻橋に出、浅草の町を歩く。昭和2年12月30日のこと。愛妾関根歌と浅草観音堂に出かけて以来4年ぶりの浅草である。この日の浅草行きは、変りつつある町の姿の確認のためか。
「花川戸の岸に松屋呉服店の建物吃立せり、橋際に地下鉄道の降口あり、市街の光景全く一変したり」
「松屋呉服店」(松屋デパート)が隅田川沿い、吾妻橋のたもとに開店したのがこの年11月1日。地下1階、地上7階、ターミナルビルとしては日本一の東武ビルのテナントという形だった(現在の松屋デパートはこのときの建物)。
吾妻橋が、清洲橋・永代橋などと並んで震災復興橋梁、いわゆる「隅田川十大橋梁」のひとつとして完成したのは昭和5年6月。
吾妻橋のたもとには、震災の教訓から火除け地として、日本最初のリバーサイドパーク、隅田公園が建設された。震災の瓦礫、残土を使って隅田川を埋め立てて作られた。
公園には隅田川に沿って散策路が上流にのび、山谷堀にかかる今戸橋を渡ったところにはプールと陸上競技場が作られた。
昭和6年5月25日には、業平橋が起終点だった東武鉄道が隅田川を渡って、松屋デパートの二階から発着するようになり、濹東と浅草が近くなった。
吾妻橋、隅田公園、東武電車、松屋デパート・・・、昭和5年~6年、浅草の隅田川沿いの一画は震災を機に「再開発」され、新しい都市空間として生まれ変った。
それに先立つ昭和2年12月30日には、日本最初の地下鉄が浅草-上野間に開通している。
川端康成「浅草紅團」(「東京朝日新聞」昭和4年~5年)には、昭和4年に地下鉄浅草駅のところに出来た〝とんがり帽子″の愛称で親しまれた雷門ビル(で地下鉄ビルとも、また6階建てのうち2階から5階までが食堂だったため地下鉄食堂とも呼ばれた)の5階の東の窓、西の窓、北の窓からの東京の眺めが描かれている。
東の窓。
「目の前に神谷酒場(バア)。その左下の東武鉄道浅草駅建設所は、板囲いの空地。大川。吾妻橋-仮橋と銭高組の架橋工事。東武鉄道鉄橋工事。隅田公園-浅草河岸は工事中。その岸に石工場と小船の群、言問橋。向う岸-サッポロ・ビイル会社。錦糸堀駅。大島ガス・タンク。押上駅。隅田公園、小学校、工場地帯。三囲神社。大倉別荘。荒川放水路。筑波山は冬曇りにつつまれている」
北の窓。
仲見世、今半の金の鯱、仁王門、修繕中の観音堂、その先に吉原と千住のガス・タンク。「東京の北は、低い冬曇りだ」
西の窓。
浅草郵便局、浅草区役所、伝法院、活動街、遠くに上野駅と上野松坂屋、帝国大学の安田講堂と大学図書館、ニコライ堂、靖国神社、新築の国会議事堂、「そうして広い町波の上に、晴れた朝夕ならば、富士が美しいのだ」
架橋工事中の吾妻橋と東武鉄道鉄橋、そして新築中の国会議事堂(完成は昭和11年)と東京は、復興に向けて「普譜中」である。
『大東京繁昌記 下町篇』(春秋社、昭和3年)所載の北原白秋「大川風景」は、この東京を・・・、
「復興と創造と、東京は今や第二の陣痛に苦しみつゝある。この大川風景に見る亜鉛、煤煙、塵埃、鉄々々の鬱悶と生気と、また銀灰の輝きと、陽光に乱擾(ランジョウ)する騒音と囂々たる音と、何が駒形、何がまたほととぎすであろうぞ」
と、表現する。
荷風が「再開発」された浅草に興味を覚え、この昭和6年12月11日のあと、地下鉄を利用して足繁く浅草に出かけるようになる。
4日後に再び浅草を訪れ、翌昭和7年4月15日、中洲病院の帰り、新大橋から船に乗って浅草に行き、松屋デパート屋上から隅田川を眺める。
「新大橋より船に乗り吾妻橋に至り、松屋百貨店の楼上を歩む。二階は東武繊道の停車場なり。窓より隅田川を見おろすに鉄道の鉄橋花川戸より源森川の岸に架せられたれば、今はむかしの枕橋も高架線路の下になりて見えず。隅田川の川幅も吾妻橋のあたりは餘程狭くなりたるやうなり」
「デパートの屋上にまであがって周囲の風景を見ようとしている荷風は、決してただの不機嫌な保守主義者ではない。」(川本)
やがて松屋デパートから出ている東武鉄道に乗って玉の井に出かけていくようになるし、小説「浮沈」の冒頭では、東武の浅草駅を描くことになる。
松屋の屋上から隅田川を眺め、「隅田川の川幅も吾妻橋のあたりは餘程狭くなりたるやうなり」と書いているのは、観察が正確である。
前述したように、隅田公園は、震災の残土で隅田川の一部を埋め立てて作ったのだから、当然、吾妻橋のあたりで川幅が狭くなっていた。
大震災のあと、災禍をむしろ契機として東京の町は、大きく変りつつあった。
震災まではかろうじて残っていた江戸の名残りが消え、東京はデパートと地下鉄に象徴される新しいモダン都市に変貌しつつあった。
円本ブームが昭和3年、
大宅壮一『モダン層とモダン相』(大鳳閣書房)出版、菊池寛原作、溝口健二監督の同名映画の主題歌として西燦八十作詞、中山晋平作曲「東京行進曲」がヒットが昭和4年、
川端康成「浅草紅団」が昭和4年から5年、
東京復興祭、東京・大阪間を8時間で結ぶ夢の超特急「つばめ」が昭和5年
初のトーキー映画『マダムと女房』が昭和6年。
昭和4年に東京・巣鴨の小学校に入学した安田武『昭和東京私史』(新潮社、昭和57年)がいう当時の雰囲気。
「戦後になって、大衆化社会とか都市化現象といった言葉でいわれ出した社会事象、世相は、このあたりから、すべて出揃ってくるわけで、関東大震災(大正十二年)により、灰燼の廃墟と化した東京の、その『復興祭』が昭和五年というのは、偶然ではなかった。復興の過程を通じて、農村部からおびただしい若手人口が都市に流入して、これからモダン『層』によるモダン『相』が現出した」
「〝明治の児″としては、古き良き東京の町並みが失なわれていくことへの絶望、哀惜、呪詛がまずあっただろう。しかし、それだけではない筈だ。荷風には、都市の遊歩者というもうひとつの顔がある。荷風は、江戸の名残りが消えていくことには悲しみながら、同時に、新しく出現したデパートや地下鉄にも興味を覚えていく。」(川本)
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(つづく)
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