北の丸公園 2013-01-28
*昭和18年(1943)
2月1日
二月初一。晴。
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2月2日
二月初二。陰。風邪。大嶋隆一氏來書。
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2月3日
二月初三。雨ふる。電話局よりわが家の電話三月卅一日かぎり取上げべき由通知書來る。また町會より本年中隔月に百五六十圓債券押賣の事を申來れり。倭寇の災害いよいよ身邊に迫り來れり。
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2月4日
二月初四。大雨。午後に歇む。魯軍大捷を博すと云。欣ぶ可し。
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2月5日
・二月初五。立春とは名ばかりにて風甚塞けれど空よく晴渡りたれば午後丸ノ内より箕輪行の電車にのり淺草に至る。合羽橋のほとりにて二三年前オペラ館に雇はれゐたりし踊子に逢ふ。満洲興行の一座に加りさすらひの旅より歸り來りしばかりなりと言へり。唯(と)ある漬物屋に惣菜の筍賣るを見たれば購ふに百〆一圓なりと云ふ。余淺草邊を歩む時には必風呂敷に包みたる重箱を携へよさゝうな物あれば購ひかへるなり。漬物惣菜のたぐひは我家の近くよりも浅草邊の陋巷に却て味好きもの多し。玉の井中島湯の向側なる煮〆屋にも時々味よきものあり。オペラ館楽屋に行きて見るに二階の踊子部屋には皆々洗湯に行きし後らしく片隅に三人ばかり骨牌をなし片隅には歌唄の男なにがし其情婦なる踊子と火鉢にて何やら乾魚を焼きつゝ楽し気に弁當を食ひゐたり。日の暮れかゝるころ出でゝ地下鐡に乗る。
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2月6日
二月六日。夜金兵衛に飰す。相磯凌霜子鷲津毅堂の書を恵與せらる。左の七絶なり。
(略)
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2月7日
二月七日 日曜日 風雨午に至って歇む。午後林菅原の二氏相携へて來り話す。埃及製巻煙草ウヱスミンスタア(ママ)百本入一箱を林君より林檎を菅原君より貰ふ。夜讀書の傍火鉢にて林檎を煮ジャムをつくる。砂糖は過日歌舞伎座の人より貰ひたるなり。
白猿狂句集
(略)
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2月8日
二月八日。晴。午後麻布十番を歩み食料品をあさり電車にて土州橋に至る。
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2月9日
二月九日。晴。午後オペラ館楽屋を訪ふ。わが家に配給せらるゝ石鹸、粗悪にて使用せざるもの数個に及びたれば持行きて踊子に贈る。去月より座附の踊子激増して二十餘人となれり。
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2月10日
・二月十日。晴。午後大島隆一氏來話。成島柳北に関する著述の序を需めらる。
流言録
去年暮の事なりと云。或日甲州街道にて一輛の貨物自動車馬車と衝突して積みたる荷物を路上に落せしところ其中に白米の俵四俵あり。一俵の俵破れて精白米散乱したるを通行の巡査見咎め、運轉手を捕へ尋問せしに運轉手頗豪慢なる態度にて、この荷物は山梨縣警察部長が東京へ轉任せらるゝに付き運搬する由申しければ、巡査は直に警視庁へ通知したり。この事より山梨縣庁の役人は知事より以下の者供國禁を犯し多年精米を食しゐたりしこと露見するに至れり。役人等は同縣下の國民一般には馬に與ふる麦を配給し白米を盗取りてゐたるなりと云。縣知事以下縣庁の役人は南洋の占領地または満州の偏境に左遷せられたるのみにて、殊に公然罰せらるゝことはなく、事件は一切秘密に葬り去られしと云。
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2月11日
二月十一日。晴。祭日にて市中雑沓甚しきをおそれ終日家に留る。
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国債の「押し売り」を「倭寇」と呼び、
ロシア軍の大勝利を「欣ぶ可し」と言う、
荷風はどこまでも非国民であった。
また、2月11日は天長節。
国威発揚の催しがあった筈だが、何らの記述も無い。
「祭日にて市中雑沓甚しきをおそれ終日家に留る。」
とだけ。
断固たる抵抗精神である。
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