2013年2月12日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(60) 「第4章 徹底的な浄化 - 効果を上げる国家テロ - 」(その9完)

ガレリアス・パシフィコ ブエノスアイレス
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(60) 
「第4章 徹底的な浄化 - 効果を上げる国家テロ - 」(その9完)

子どもたちのたどった運命
 とりわけ背筋が寒くなるのは、アルゼンチン軍事政権下の強制収容所内で子どもたちが受けた処遇だ。
国連ジェノサイド条約には、「集団内の出生を妨げることを意図した措置を課すこと」や「集団の子どもを他の集団に強制的に移転すること」がジェノサイドの定義として挙げられている。

アルゼンチンの強制収容所内では五〇〇人ほどの子どもが誕生したと推定されるが、これらの乳児は誕生してまもなく、社会を再編成し新しいタイプの模範市民を創造する計画に参加させられた。
短い授乳期間ののち何百人という赤ん坊が、大部分は独裁政権と直接関わりのある夫婦に売られたり里子に出されたりしたのだ。
人権擁護団体「五月広場の祖母たち」によれば、子どもたちは、軍事政権が「正常」で健全だとみなす資本主義的・キリスト教的価値観に沿って育てられ、その出自は絶対に本人には知らされなかった。
子どもの実の親は救いがたいほど病んでいるとみなされ、ほとんど例外なく収容所で殺害された。
こうした子どもの扱いはけっして個人の行き過ぎた行為ではなく、組織的な国家戦略の一部だった。
ある訴訟で証拠として提出された一九七七年の内務省の公式書類には、「親が拘束されたり行方不明になった場合の政治および組合指導者の未成年の子どもに対する処置に閲する指示書」という題名がつけられていた。

 アルゼンチンの歴史のこの部分は、アメリカ、カナダ、オーストラリアの先住民の子どもたちが集団で親から引き離され、寄宿学校に入れられて自分たちの言葉を話すことも禁じられ、無粋やり「白人」に同化させられたことと驚くほど似ている。
七〇年代のアルゼンチンでも、これとよく似た優越主義的論理(ただし人種ではなく、政治的信念、文化、階層に基づく)が働いていたのは明らかである。

ガレリアス・パシフィコの地下にあった強制収用所
 アルゼンチンの軍政終結から四年後、政治的殺害と自由市場革命との結びつきを明白に物語る出来事が起きた。
一九八七年、ブエノスアイレスの繁華街にある高級ショッピングセンター、ガレリアス・パシフィコの地下で映画の撮影をしていたクルーが、かつての強制収容所の跡を発見したのだ。
その後、独裁政権時代に陸軍第一部隊が政治犯として強制連行した人々の一部をこの地下牢に閉じ込めていたことが判明。
壁には命を絶たれて久しい人々の名前や日付、助けを請う言葉などが年々しく残っていた。

 今日、ガレリアス・パシフィコはグローバルな消費の都へと変貌したブエノスアイレスの象徴として、ショッピング街に重要な位置を占めている。
アーチ形の天井と贅沢なフレスコ画を施した建物の中にはクリスチャン・ディオールからラルフ・ローレンやナイキに至る有名ブランドショップが軒を連ね、大部分のアルゼンチン国民にとってはとうてい手の届かない高価な品物を、ペソ安のおかげで有利な買い物ができる外国人旅行者が買いあさっている。

 かつての資本主義による征服が先住民の集団墓地の上に築かれたのと同様、ラテンアメリカにおけるシカゴ学派のプロジェクトはまさに文字どおり、異なる政治理念を持つ何万人もの人々がその中へと姿を消した秘密収容所の上に築かれた。
祖国の歴史を知るアルゼンチン人にとって、ガレリアス・パシフィコは、この身も凍るような事実を思い出させるよすがなのである。

(第4章 おわり)
ガレリアス・パシフィコ ブエノスアイレス
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GALERIAS PACIFICO(ガレリアス・パシフィコ) ← 各国いまどき報告
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