2013年4月12日金曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(67) 「第6章 戦争に救われた鉄の女-サッチャリズムに役立った敵たち-」(その3)

ハナミズキ 北の丸公園 2013-04-12
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(67) 
「第6章 戦争に救われた鉄の女-サッチャリズムに役立った敵たち-」(その3)

救いの神としての戦争
「二人の禿げ頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」
 サッチャーがハイエクに手紙をしたためてから六週間後、彼女の考えを改めさせ、コーポラティズム改革の命運を変える事件が起きる。
一九八二年四月二日、アルゼンチン軍がイギリス植民地主義の名残で同国が実効支配していたフォークランド諸島に侵攻、フォークランド紛争(アルゼンチンではマルビーナス紛争と呼ばれる)の火蓋が切って落とされた。
これは歴史的に見れば、激しくはあったが小規模な武力紛争にすぎなかった。
当時、フォークランド諸島には戦略的な重要性は何もなく、イギリスにとって自国から何千キロも離れたアルゼンチン沖に浮かぶこれらの島々は、警備や維持に高いコストがかかった。
アルゼンチンにとっても、領海にイギリスの前哨基地があることは国家の自尊心への侮辱ではあるにせよ、この諸島の有用性はほとんどないに等しかった。
伝説的なアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスはこの紛争を、「二人の禿げ頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」と痛烈に揶揄した。

新自由主義導入の大義名分をサッチャーに与えた
 軍事的観点からも、三ヵ月にわたった戦闘にはなんの歴史的意義も認められない。
しかし見過ごされているのは、この紛争が自由市場プロジェクトに与えた影響の甚大さだ。
西側民主主義国に初めて急進的な資本主義改革プログラムを導入するのに必要な大義名分をサッチャーに与えたのが、フォークランド紛争だった。

アルゼンチン:国民の不満を封じる為には反帝国主義感情を煽ることが有効
 両国ともに戦争を望む十分な理由があった。
一九八二年、アルゼンチン経済は負債と腐敗から破綻寸前の状態に追い込まれ、人権擁護運動はますます勢いを増しつつあった。
ビデラ政権の後を継いだレオポルド・ガルティエリ将軍率いる軍事政権もまた民主主義を弾圧する政策を取っており、高まる国民の不満を封じるには反帝国主義感情を煽るしかなかった。
ガルティエリはフォークランド諸島の委譲を拒否したイギリスの対応を巧妙に利用して国民の怒りに火をつけた。
アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸、岩だらけの島にアルゼンチン国旗が翻ると国民は歓喜の声を上げた。

当初はサッチャーの戦争準備に批判もあった
 サッチャーもまた自らの政治生命を守るための最後のチャンス到来とばかりに、チャーチルさながらの戦闘態勢に入る。
この時点まで、サッチャーはフォークランド諸島が政府財政にとってお荷物であるとの見方から同諸島への補助金をカットし、周辺を警備する武装船を含む海軍の予算も大幅に削減していた。
こうした一連の動きを、アルゼンチンはイギリスが同諸島を手放す用意がある明らかな兆しだと見ていた
(あるサッチャーの伝記は、こうした政策は「事実上、アルゼンチンに侵攻してくださいと言っているようなもの」だったと書いている)。

 戦闘の準備段階では、批評家たちは政治的立場のいかんにかかわらず、サッチャーが自らの政治目的のために軍を利用していると非難した。
「日を追って明らかになってきたのは、問題はサッチャー夫人の評判であって、フォークランド諸島ではまったくないということだ」と労働党のトニー・ベン議員が言えば、保守派の『フィナンシャル・タイムズ』紙もこう書いた。「悲しむべきなのは、急速にこの問題が、当面の問題とはまったく関係ないイギリス国内の政争と混同されつつあることだ。ここにはアルゼンチン政府の自尊心のみならず、イギリス保守党政権の評価、あるいはその存亡さえもが関わっているのだ」

「盲目的愛国主義と軍国主義に突き動かされた精神状態」
 こうした健全なシニシズムがあったにもかかわらず、軍の配備が整うとイギリス国内は「盲目的愛国主義と軍国主義に突き動かされた精神状態」(労働党の決議草案)に陥り、フォークランド諸島は色あせたイギリス帝国の最後の輝きだと言わんばかりのムードに包まれた。
サッチャーは国中が「フォークランド精神」に覆われたことを称賛したが、その実態は「あのばか女を見限ろう(デイツチ・ザ・ビッチ)」の大合唱が鎮静化し、「軍事政権くたばれ!(アップ・ユア・フンタ)」の文字の入ったTシャツが飛ぶように売れたということだ。
サッチャーはイラク戦争前夜のブッシュとブレアがそうであったように国連決議を無視し、制裁や交渉などには見向きもしなかった。
両国にとって意味のあるのは、輝かしい勝利という結果以外になかったのだ。

称賛されるサッチャー
 サッチャーは自らの政治生命をかけて戦い、目覚ましい成功を遂げた。
イギリス軍二五五人、アルゼンチン軍六五五人の戦死者を出したフォークランド紛争での勝利後、サッチャーは戦争の英雄に祭り上げられ、”鉄の女”のあだ名は軽蔑から高い称賛へと変わった。
世論調査結果も同様で、サッチャーの支持率は紛争前の二五%から五九%へと急上昇し、翌年の選挙での大勝利に道を開いた。

サッチャーのコーポラティズム革命
 フォークランド侵攻に対するイギリス軍の反撃には、「コーポレート作戦」という、軍事作戦名としてはいささか変わった名前がつけられていた。
だが結果的に、まさに将来を予知する名前となった。
サッチャーは戦争の勝利がもたらした絶大な人気を利用して、戦争前にはハイエクに実行できないと断ったコーポラティズム革命に着手した。
一九八四年、炭鉱労働者がストライキに入ると、サッチャーは炭鉱労組との対立を対アルゼンチン紛争の延長と位置づけ、容赦なく敵と戦うべきだと訴えた。

「内なる敵」(労働者)との戦い 
 サッチャーが次のように述べた。
「フォークランドでわれわれは外からの敵と戦わなければならなかった。そして今、内なる敵と戦わなければならない。こちらの敵のほうがはるかに手ごわく、また自由にとっても同じくらい大きな脅威なのです」。
自国の労働者を「内なる敵」と位置づけたサッチャーは、国家の総力をあげてストライキの鎮圧にかかった。
ある一回の対決だけでも八〇〇〇人の警官隊(騎馬警官も多数含まれていた)が工場にピケを張る労働者に襲いかかり、約七〇〇人もの負傷者が出た。
ストライキは長期にわたったため、負傷者は数十人にも及んだ。
『ガーディァン』紙のシエイマス・ミルン記者による炭鉱ストライキのドキュメント『内なる敵-炭鉱労働者に対するサッチャーの秘密の戦争』によれば、サッチャーはセキュリティーサービスに、炭鉱労働組合とりわけアーサー・スカーギル委員長の監視を強化するよう命じ、その結果「イギリスでは前代未聞の監視活動」が行なわれることになる。
組合には複数のスパイや情報提供者が潜入し、あらゆる電話は盗聴され、組合指導者の自宅や彼らがよく立ち寄るフィッシュ・アンド・チップスの店の電話までが盗聴された。
組合の責任者だった人物はイギリス下院で、「組合を不安定にし破壊する」ために送り込まれたイギリス情報局保安部(MI5)の諜報員だったと申し立てられたが、本人は容疑を否定した。

まるで「内戦」のようだった
 ストライキ当時の大蔵大臣ナイジェル・ローソンによれば、サッチャー政権は炭鉱労組を敵とみなしていたという。
「まるで一九三〇年代にヒトラーの脅威に対抗するために武装したようなものだった。」と、ローソンは一〇年後に述べている。
フォークランド紛争のときと同様、サッチャー政権は交渉にはほとんど関心を示さず、たとえどんなにコストがかかっても(一日三〇〇〇人の警官を配備するコストだけでも膨大だった)、断固として組合を潰す決意だった。
組合との対決の前線に立った巡査部長のコリン・ネイラーは、まるで「内戦」のようだったとふり返る。

 一九八五年、サッチャーはこの戦争にも勝利した。
労働者たちは生活の逼迫から、もはやストを続行できなくなった。
その後、九六六人の労働者が解雇された。
イギリス最強の労働組合にとってこれは壊滅的な敗北であり、他の組合に次のような明白なメッセージを伝えるものだった。

 サッチャーは、イギリスにとって光熱の供給源である炭鉱の労働者組合を全力をあげて潰しにかかるのだから、それほど重要でない製品やサービスを生産するもっと弱い組合が、彼女が推進する新しい経済秩序に対決することなど自殺行為に等しい、言われたことを甘んじて受け入れるほうがよほどましだ、と。

 これは一九八一年、アメリカのロナルド・レーガン大統領が、就任数カ月後に起きた航空管制官のストに対して強硬策に出たときに送ったメッセージとそっくりだ。
仕事場に現れなかったことで、彼らは「仕事をする権利を喪失したのであり、免職処分を受けることになる」とレーガンは言い切り、アメリカにとってきわめて重要な労働者一万一四〇〇人が一撃のうちに解雇された。
アメリカの労働運動は、いまだにこのときのショックから完全には立ち直っていない。

国営企業の民営化
 イギリスでは、サッチャーはフォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利を利用して、急進的な経済改革を大きく前進させた。
一九八四年から八八年までの間に、英政府はブリティッシュ・テレコム、ブリティッシュ・ガス、ブリティッシュ・エアウエイズ、イギリス空港公社、ブリティッシュ・スティールなどの国営企業を民営化し、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)の株を売却した。

大きな政治的危機を利用すれば民主主義国でもショック療法は可能だ
 二〇〇一年九月一一日のテロ攻撃によって、国民に不人気の大統領が大規模な民営化計画をスタートさせるチャンスを得た(プッシュが行なったのは治安、戦争そして復興事業における「民営化」だった)のと同じく、サッチャーもまた自らの戦争を利用して、西側先進国における最初の大規模民営化オークションをスタートさせた。
これぞまさに「コーポレート作戦」であり、それには大きな歴史的意味があった。
サッチャーがフォークランド紛争での勝利を巧みに利用したことは、シカゴ学派の経済プログラムを遂行するのに軍事独裁政権や拷問室は必要ないことを裏づける明白な証拠となった。
大きな政泊的危機を利用することさえできれば、民主主義国家でもそれなりのショック療法は実施できることを、サッチャーは身をもって示したのである。

 サッチャーには国をひとつにまとめるための敵が必要だった。
緊急措置や弾圧を正当化する非常事態、すなわち彼女が残酷で時代錯誤なのではなく、タフで決断力に富んでいると見せるための危機が必要だった。
フォークランド紛争は、その目的を完璧に満たしたが、植民地時代に逆行するようなこの戦争は、八〇年代初めにおいてはあくまで例外的なものにすぎない。
八〇年代が、多くの人が主張するように新しい平和と民主主義の時代の幕開けになるのだとすれば、フォークランド紛争のような衝突はめったに起きるわけはなく、地球規模の政治的プロジェクトを推進するための基盤にはなりえなかった。
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