北の丸公園 2014-05-02
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1780年(安永9)
9月
・この月、モーツァルト父子、ザルツブルクから15km西のバート・ライヒェンハル近傍のザンクト・ツェーノ修道院に行き、製塩所を見学。
翌日、ライヒェンハルでミサを聴き、ザルツブルクに戻る。
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9月2日
・モーツアルト、宮廷で演奏。4日にも。
「姉さんはギロフスキーさんちのゼフェルル〔ヨゼーファ・ギロフスキー・フォン・ウーラゾーヴァ〕と〔ウェルギリウス学院の〕侍童の馬車で出かけました。私たちは二台のクラヴィーアのための協奏曲へ長調と四手のためのニ長調のソナタを演奏し、ぼくはカンピーニのソナタ二曲を初見で弾きました。一日中雨でした。」(モーツアルトの代筆によるナンネルルの日記帳)
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9月3日
・フランス、ベルナドット、国王の軍隊に一兵卒として入隊。
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9月17日
・エマーヌエル・シカネーダー(1751~1812)、モーザー一座を率いてザルツブルクで芝居を打つ。シュミット作「領主の好意」。
シカネーダーは上演期間中、モーツァルト家に全席自由の入場を許す。
その後、モーツアルト一家との交際始る。
この日付けモーツアルトの代筆によるナンネルルの日記帳
「〔九月〕二十四日。大聖堂へ行きました。私が勧進元で優勝者でした。シカネーダーさんも射的をしました。ヒューブナーさんとチェッカレッリさんも来ました。四時に芝居に行き、ラ・モットさんを私たちの家に連れて来て、九時四十分までいました。よいお天気でした。」
この頃、ザルツブルクで流行していたのは、「タロック=カルタ遊び」と射的であった。「射的会」なるものがあり、親しい友人たちを中心に組織されたこのグループは、会員の一人が勧進元となって、その人の家で催される射的会に参加する。射的の的には会員が描かれ、その会員のことを歌った詩がつけられている。賞が勧進元から出され、優勝者に与えられる。
この日の射的会にはエマーヌエル・シカネーダーが招かれていた。
エマーヌエル・シカネーダーは元俳優。1778年、自分が所属していたモーザー一座を引き受け、ウルムを皮切りに、ドイツ各地を巡演し、この年9月17日にザルツブルクで公演。
この日の射的会をきっかけに、シカネーダーはモーツァルト一家と交際し始める。シカネーダーは親しくなったモーツァルト一家に無料パスを提供した。
この日の芝居は『美しい靴屋の娘』、作詞はゴットリープ・シュテファニー(1741~1800)、作曲はイグナーツ・ウムラウフ(1746~1796)。
シカネーダーはウィーン時代のモーツァルトと協作するに至り、シュテファニーもまたやがですぐモーツァルトに対して、芸術上の手助けを提供する。
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9月25日
・米、独立戦争、アメリカ軍のベネディクト・アーノルドの裏切り発覚。
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10月
・モーツァルト、ミュンヘン選帝侯カール・テオドールからオペラ作曲の依頼(1781年謝肉祭のオペラ「クレタ王イドメネオ」)。10月からザルツブルクで作曲開始。現地へ行く為め大司教に6週間の休暇を申し出る。
大司教は、選帝侯依頼による作曲のた認めざるを得ず。
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10月7日
・米、独立戦争、サウスカロライナのキングス・マウンテンの戦い。イギリス軍が大陸軍に敗れる。
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10月31日
・ウィーン、アロイジア・ヴェーバー、ヴィーン宮廷俳優ヨーゼフ・ランゲと結婚。
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11月
・モーツアルト、ザルツブルクで興業中のシカネーダーのために、レチタティーヴォとアリア「おお愛よ、そなたはなぜそんなに恐ろしい冗談を言うのか/おののけ、おろかな心よ、そして苦しめ!」(K.Anh.11a(365a)(散失)作曲。11月22日に父に送る。
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11月5日
・モーツアルト、バイエルン選帝候に依頼されたオペラ「クレタの王イドメネオ」(K.366)の仕上げ稽古のためにミュンヘンに向けて出発(6週間)。
7日午後1時、ミュンヘン着。ブルク・シュトラーセの「ゾンネック館」泊。
『クレータの王イドメネーオ』:
題材はフランスの台本作者アントワーヌ・ダンシェの創作し、アンドレ・カンプラがこれに作曲したフランスの悲歌劇『イドメネ』(1721年)に発する。この題材を纏めたのはザルツブルク宮廷付司祭のジャンバッティスタ・ヴァレスコ(1735~1805)。
7日夜、音楽監督ゼーアウ伯爵を訪ねるが不在のため、翌日再訪しオペラの台本について打ち合わせる。
同日、選帝侯宮廷劇場で英国17世紀の作家ジョン・バンクス作『不幸な寵臣またはエセックス伯爵』の翻案劇を鑑賞。クリスティアン・ハインリヒ・シュミットの独訳によるこの悲劇には、クリスティアン・カンナビヒの音楽がつけられていた。モーツアルトはその序曲に感激した有様を父親に報告。
翌8日、稀代の名歌手とされるゲルトルート・エリーザベト・マーラ(旧姓シュメーリング、1749~1833)が出演した大音楽会に出かける。
8日、父へ手紙。イドメネオの作詞者ヴァレスコ師にアリアを書き換えてもらうよう依頼。
12日、カンナビヒと共にバウムガルテン伯爵夫人のところで食事をする。伯爵夫人の仲介によってオペラ作曲の依頼がある。
この日、ゼーアウ伯爵はモーツァルトを選帝侯カール・テーオドールに引き合わせた。選帝侯は好意的態度で応待した。
翌13日、ゼーアウ伯爵邸で、カンナビヒ、舞台装置監督ローレンツ・クグァーリオ(1730~1804)、メートル・ド・バレーのル・ブランと食事をともにしながら、オペラの打ち合わせ。
モーツァルトは『イドメネーオ』の仕事を続けるが、具体的なテキストの問題などが出てくると、それを父宛の手紙で、作詞者ヴァレスコ師に伝えてもらっている。
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11月20日
・イギリス、合衆国独立を支持し、対イギリス戦争でフランス、スペインと同調するオランダ(ネーデルランド連邦)に宣戦布告。
この年、ロシア、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ナポリ、ポルトガルが、イギリス艦隊による臨検から自国艦船の航行の自由を守る為、「武装中立同盟」を形成。
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11月22日
・スペイン、ゴヤ、サラゴーサ、エル・ピラール大聖堂天井画着手。バイユーとの確執あるも80日間で「殉教者の聖母」完成
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11月22日
・国学者本居宣長、儒者の市川匡麿への反批判書として「葛花」著す。
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11月28日
・加賀、大聖寺藩領民の一揆計画が発覚。藩が鎮圧。
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11月29日
・オーストリア女帝マリア・テレジア(63)、天然痘で没。
ヨーゼフ2世の単独統治開始。
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12月1日
・ミュンヘン、モーツアルト「クレタの王イドメネオ」(K.366)の試演。初演まで計3回の稽古が行われる。
この日付けモーツアルトの父宛の手紙の冒頭。
「練習はまったく素晴らしい出来映えでした。(中略)万事につけなんという喜びと驚きだったかは申し上げることができません。」
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12月2日
・この日付けモーツアルト父レオポルトのモーツアルト宛手紙。
11月29日、オーストリア帝国の女帝マリア・テレジアが没し、これがミュンヘンでのオペラ上演に影響を及ぼすのではないかとの心配を洩らす。
対するモーツァルトの返信(12月5日付)では、劇場は閉館にはならないし、上演は続けられている、服喪期間は6週間でオペラの初演は1月20日以降なのでなんの心配もいらないと述べる。
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12月16日
・モーツアルトの父への手紙。18日(月曜日)に6週間の休暇が終るが、ザルツブルクに帰りたくない、大司教が「お前はもう要らない」と言ってくれたらどんなに嬉しいか、など書く。
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12月19日
・モーツアルトの父への手紙。もうすぐこの苦労の多い大きな仕事が完成すると報告。残りは第三幕の三つのアリア、最後の合唱、序曲とバレー、告別の場面だとつけ加える。
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12月23日
・(露暦月日)キリル・ラクスマン、ロシア科学アカデミー総裁ドマシネフに忌避され、7等文官としてネルチンスク鉱山副長官としてシベリアに赴く。
1783年ネルチンスクの絶望的状況のため、ネルチンスク市警察長官となる。
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12月26日
・この日付けモーツアルト父レオポルトのモーツアルト宛手紙。ザルツブルクのコロレド大司教との破局を窺わせる。
「いわゆる一般受けするものかどうかについては、なにも御心配いりません。というのは、ぼくのオペラにはあらゆる種類の人たちのための曲があるからです。-長い耳に向く曲は別です-ところで大司教とはどうなっていますか?-今度の月曜日でぼくがザルツブルクを発って六週間になります。愛するお父さん、ぼくが・・・・・・・にいるのはただあなたのためだけになのはご存知でしょう。というのは、-神にかけてもしそれがぼく次第だったらーぼくは今度出発する前に、最後の<辞令>でもってお尻を拭いてしまったでしょうに。なぜって、ぼくには、ぼくの名誉にかけて、ザルツブルクがではなく、-大司教にー高慢ちきな貴族が、日増しにいっそう我慢ならなくなってくるのです。-だから、彼がぼくに、もうぼくに用はないって書いてよこすのを楽しみにしているのです。」
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12月27日
・この日付けモーツアルト父レオポルトのモーツアルト宛手紙。「イドメネーオ」の練習たけなわで、この日は選帝侯が立ち会う。
「最後の練習は素晴らしいものでした。-それは宮殿のさる大広間で行なわれましたが、選帝侯も立ち会って下さいました。-今度はオーケストラ全部との練習でした。第一幕のあと、選帝侯はぼくに大きな声でブラヴォーとおっしゃってくれました。そしてぼくが出てゆくとき御手にキスをすると、『このオペラはすてきなものになるだろうな。きっと君の名誉になるだろう』とおっしゃったのです」
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