2015年2月16日月曜日

承徳2年(1098) シトー修道院創設(ブルゴーニュ) 第1回十字軍がアンティオキア公国建国 前陸奥守源義家が院昇殿を許される 「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿を聴さる、世人甘心せざるの気あるか、但し言うなかれ」(「中右記」)

カワヅザクラ 北の丸公園 2015-02-16
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承徳2年(1098)
この年
・アレッツォ、コンスル制成立。
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・エル・シッド、アルメナーラ(バレンシア北)を攻略。
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・バレンシア司教がローマ教皇により正式に叙階。
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・ノルウェー王マグヌス裸足王遠征軍、シェットランド諸島、オークニ諸島、西部島嶼地帯(ヘブリディーズ)、アングルシ島、マン島を支配下におき、スコットランド本土北辺のロス・ケイスネスも影響下におく。スコットランドはジェイムズ4世(位1488~1513)まで制圧できず。 
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・シチリア伯ロジェ1世、教皇ウルバヌス2世より「アポストリカ・レガティオ」の称号を受け、「イタリア全土で最も有能な君主」と認められる。
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・ビンゲンのヒルデガルト、誕生(1098~1179)。1148年(50)、皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)支援によりルペルツベルクに女子修道院建立。
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1月
・アンティオキア領主ヤギ・シャーン、アレッポの王リドゥワーンに救援依頼。リドゥワーンは自衛のために軍をアンティオキアに派遣。
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1月6日
・従三位越前権守藤原季仲、正三位に叙任。
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1月13日
・地震あり。
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1月26日
・源義家、解由を提出。陸奥守在任中の官物を完済し、受領としての任務を全うする。(この年10月、院の昇殿を許される)
未納分を完済できなかった義家は、長いあいだ陸奥前司のままだったが、この月、白河院の特別な配慮によりようやく受領功過定にパスした。
義家が10年間も身動きできなかったことで、武家の棟梁としての勢力は弱まり、彼の死後、源氏は分裂・衰退していくことになる。
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2月
・フランクのボードワン(騎士数百、兵2千超)、アルメニア人の大都市エデッサに到着。後継者にせよと迫るボードワンに対し、エデッサの老将トロスは、彼と養子縁組。
数日後、煽動によるリンチで老トロス夫妻は殺害。ボードワンはエデッサ伯爵を宣言。
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2月9日
・興福寺上棟。関白藤原師通に扈従の殿上人に若狭守藤原敦兼。
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2月9日
・ アレッポのアエルジュク王リドゥワーンの援軍、アンティオキア城に接近。
翌日、フランク軍の攻撃に壊滅。アンティオキア城下では城方が優位にたつが、アレッポ軍壊滅の報に城内に撤兵。
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2月22日
・京都の大火。三条富小路、万里小路などが焼失。
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3月9日
・石清水臨時祭。舞人に左衛門佐兼越前守藤原家康(保)。
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3月9日
・十字軍指揮官ボードゥアン・ドゥ・ブローニュ、エディッサ市奪取、エディッサ伯領を樹立。
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3月21日
・ロベール・ド・モレム(モレーム修道院長、ベネディクト派修道士)、ブルゴーニュ(ディジョン25Km、ソーヌの沼地)にシトー修道院を創設。
1世代後、フランスでシトー派僧院200を数える。
過酷な労働、極端な苦行(雑穀のパンと野菜のみ)、超人的な修道生活、悪疫の流行、のため初期シトー会士で28才を越えて生き延びた者は稀。
第3代院長スティーヴン・ハーディングがイギリスから訪れたとき、この小さな共同体は壊滅寸前。
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3月24日
・六観音御修法。如意輪観音は権律師公円で若狭の御壇供を奉じる。
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4月2日
・源義家、正四位下に叙任。10月、院の昇殿許される。
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4月4日
・地震あり。
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月末
・アンティオキア領主ヤギ・シャーンの救援依頼を受けたモースル総督(アターベク=父候)カルブーカ、軍勢3万をモースル城内に集結。
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5月
・マインツ王国会議。
ハインリヒ4世息子(イタリア王)コンラート(24)の王位剥奪(1193年、父ハインリヒ4世に謀反)。
ハインリヒ4世次男ハインリヒ5世(17)を次期国王に指名(1081~1125、位1106~1125)。
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月初
・モースルのカルブーカ軍、アンティオキア救援の前にエデッサを助けるべく、進路を変える。
5月末、エデッサの包囲奪回をあきらめ、城下で3週間を過ごした後、アンティオキア救援に進路を戻す。
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6月
・東ローマ皇帝アレクシオス・コムネノス、アンティオキアへの援軍を編成。エティエンヌ・ド・ブロワ、皇帝アレクシオス・コムネノスに「籠城軍は全滅したに違いない」と説明、皇帝は引き返す。
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・エル・シド、ムルビエトロでムスリム軍に勝利。
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6月3日
・第1回十字軍のイタリア・ノルマン領主ボヘモント(ボエモン・ド・タラント、ロベール・ギスカール長男)、アンティオキア占領。アンティオキア公国建国(1098~1268)。

鎧師の内応手引きにより、フランク軍、アンティオキア城に侵入、攻略。
領主ヤギ・シャーン、逃亡中に没。
ヤギ・シャーン息子シャムス・アル・ダウラ、山城を築き奮戦。ポエモン負傷。
アンティオキア陥落後3日目にモースルのカブルーカ軍が到着。
フランク軍はアンティオキアに篭城。
カブルーカはシャムスより砦の指揮権を奪う。
フランク軍の突撃にムスリム軍は総崩れ。
カブルーカはモースルに退却。この時点で、シリアにはフランクに対抗できる勢力はいなくなる。
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6月4日
・トルコ軍、アンティオキア包囲開始。十字軍は再び飢餓に陥る。
エティエンヌ(スティーヴン)・ド・ブロワとギョーム・ド・グランメニル、アンティオキアより小アジアに逃亡。
のち、エティエンヌ・ド・ブロワはフランスに帰国するが、人々の憤慨と醜聞をかき立て、妻アデールに説得され、再び十字軍遠征を決意。アキテーヌ公ギョーム9世・ド・ポワティエ(36)と共に出発。
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6月28日
・聖職者ピエール・バルテルミー、アンティオキアのサン・ピエール教会敷石の下から聖槍(キリストを刺した槍)を発見。
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6月29日
・アンティオキアの十字軍、ケルボガ(トルコ軍)を退却させる。前日の聖槍の発見により十字軍の士気と勇気が沸き上がり、アンティオキアを解放、多大の戦利品を収める。

アンティオキア総大司教にベルナール・ド・ヴァランスが就任。
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7月20日
・越前守藤原家康(保)、閑院行幸の賞により従五位上に叙任。
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8月1日
・第1回十字軍の指導者・教皇特使・ル・ピュイ司教アデマル・ドゥ・モンテイユ、アンティオキアでチフスのため没。人望高く意見不一致の諸侯を調停。
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8月26日
・エジプトのファーティマ朝カリフ(宰相アル・アフダル)、40日の包囲後、セルジュク朝からエルサレムを奪う。エルサレムを管理していたトルコ人(ソクマンとイルガジ)や従者には寛大に処し、自由の身とする。
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10月3日
・バーリ公会議。俗人叙任を授けた者や受けた者は破門宣告。
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10月23日
・前陸奥守源義家・若狭守藤原敦兼、院昇殿を許される。
中御門宗忠、義家を「天下第一武勇の士」と評する(「中右記」)。

「前陸奥守義家朝臣、若狭守敦兼、一院の昇殿を聴さる。・・・義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿を聴さる、世人甘心せざるの気あるか、但し言うなかれ」(「中右記」同日条)。義家の人望。
私戦か公戦かを巡り、義家と政府当局側とが対立し、義家は後三年合戦後、約10年間、「前陸奥守」のままだった。

義家の10年におよぶ冷遇には、干渉戦争への失敗にくわえ、中央政界における白河院政の登場、源氏内部の対立がその要因。
義家による後3年合戦鎮圧の時期が白河院政の始まった段階にあたり、院自身の思惑が反映されていたという。とりわけ摂関家への対抗のために、義家の軍事貴族としての独占的台頭への警戒があったこと。後者については、義家の弟義綱を対抗馬として登用しようとしたことだった(安田元久『源義家』)。
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10月29日
・故大納言藤原実季の娘の苡子、入内。12月8日、堀河天皇の女御となる。
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10月30日
・越前守藤原家康(保)に重任の宣旨(「中右記」)。
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月末
・フランク軍、シリアのマアッラの町を包囲。
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11月13日
・左中弁藤原宗忠2子宗能・宗成元服。一条殿で若狭守藤原敦兼ら参加(「中右記」)。
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11月29日
・賀茂臨時祭。神楽の陪従に若狭守藤原敦兼あり(「中右記」)。
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12月11日
・フランク軍の包囲するマアッラの要人とフランクの講和交渉。退去するなら生命を保障するとの条件成立。翌朝、フランク軍、到着。3日間の大虐殺。1099年1月13日、町を完全に破壊。
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