カワヅザクラ 2015-02-19 北の丸公園
*明治38年(1905)
3月26日
・第1回4分半利付英貨公債3,000万ポンド発行。
7月8日に第2回、同額募集。
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3月26日
・『直言』第8号発行
「日本紳士閥の解剖」
「過去一切社会の歴史は階級闘争の歴史なり。之を欧洲に見るに、希臘(ギリシヤ)の自由民(フリーマン)と隷奴(スレーブ)、羅馬の貴族(パトリシアン)と平民(プレビアン)、中世の領主(ロード)と農奴(サーフ)、同業組合員(ギルドマスター)と被雇職人(ジャーネーマン)、一言以て之を掩(おほ)へば圧制者と被圧制者、此両者は古来常に相反目して、或は公然、或は隠然、其戦争を継続したりき。
然れども此階級闘争が極めて単純なるに至れるは、現時代即ち紳士閥の時代が有する特徴なりとす。然り、今の社会は全体に於て、刻一刻に割裂して、両個の相敵視する大陣営、直接に相対立する二大階級を現じつゝあるなり。其階級とは何ぞや。曰く紳士(ブールジヨアー)、曰く平民(プロールタリアツト)。
以上はマルクスが共産党宣言の劈頭に設ける所なり。然れども今日の社会に於ては、一方には爵位、勲等、官職、族籍等の複姓なる階級あり、又一方には四民平等の虚名ありて、世人やゝもすれば紳士と平民との単純なる二大階級を看破すること能はず。故に吾人は茲(こゝ)に少しく日本紳士閥の内面を解剖して、以て此二大階級対立の真相を明かにせんと欲す。
吾人の見る所に依れば、日本紳士閥は左の六閥を以て組織せらる。日く藩閥、日く党閥、曰く財閥、日く学閥、日く宗閥、日く門閥、請ふ少しく之を語らん。
▲藩閥 徳川幕府の仆るゝや、之に代って明治新政府の権力を握りたる者は、薩長土肥の四藩士なり、薩州に西郷、大久保あり、長州に木戸、大村あり、土佐には後藤、板垣あり、肥前には副島、大隈あり。彼等は其縁故の者を引上げて、中央政府より地方庁に至るまで、悉く同臭味を配置したり。此に於てか藩閥の形勢先づ成れり。後、土肥二藩の勢力は終に政府部内より排斥せられ、薩長第二流の人物は相聯合して頗る強固なる団結を為せり。薩には西郷、黒田、松方、大山等あり、長には伊藤、井上、山県等あり、陸軍にも海軍にも内閣にも、各省にも地方庁にも警視庁にも、薩長二藩の勢力は網の目の如くに張渡されたり。斯くて日本国家の権力、日本社会の権力は一時全く此薩長藩閥の手に掌捏せられたり。日本平民の眼より之を見れば、徳川幕府仆れて薩長幕府起れるの感なきを得ざりき。
▲党閥 日本の政党は自由党と改進党とを以て始まれり。自由党は仏蘭西流の自由民権主義を奉じ、改進党は英吉利流の国会政治を主張せり。然れども当時に於ける実際政治上の形勢より云へば、此二政党は明治政府より排斥せられたる土肥二藩の勢力を中心として起れる者なり。即ち自由党は板垣氏を中心と為し改進党は大隈氏を中心と為せり。而して此二中心の周囲に群集せる者を検するに凡左の二類あり。(一)各藩の青年士族中、稍学問あり、稍意気ありて而も志を官途に得ざる者、皆其不平を抱いて此二大政党に来り投ぜり。而して彼等は後に政治家と称する一群の浪人と為れり。(二)各地方に於ける豪農の輩実力はありながら久しく武士の圧抑を受けたりし者、其多年の鬱屈を伸さんが為に、糾然として此二大政党の傘下に来り投ぜり。斯くて政党の勢力は勃然として興り、終に薩長藩閥に迫つて、憲法を発布せしめ、議会を開かしむるに至れり。然れども政党の目的は兵に其主義に在りしに非ず。彼等或は自由民権を唱道し、或は国会政治を主張したりと雖も、其実彼等は藩閥の一部と士族と豪農との団結にして、真の平民の代表者に非ざりしが故に、彼等既に自ら議会に入り、多少の権勢利禄を分配せらるゝや、漸くにして其主義を棄て共主張を曲げ、全く平民と離れ去りて別に純然たる政党閥を作り成せり。斯くて党閥の勢力が増進するに従ひ、藩閥も終に之を無視すること能はず。茲に藩閥と党閥との結合を見るに至れり。侯爵伊藤氏を総裁とせる政友会は其結果として起れり。桂内閣に盲従する挙国一致の議会は其結果として生ぜり。
▲財閥 こは明治社会の進歩に連れ、産業制度資本家制度の発達に連れ、藩閥と党閥との間に自然に生じ来れる一大勢力なり。即ち、多年封建制度の下に圧抑せられたる商人が、其蓄積したる財産の実力を以て明治社会に頭角を現はしたる者、例へは三井の如き、鴻池の如き、又、藩閥に縁故深き浪人中の才物が政府保護の下に、或は政府の頭株と共謀して、盗むが如く人民の財を掠めて、頓に暴冨を致したる者、例へは岩崎の如き、大倉の如き。又、経済界乱調の間に、恰も戦国の如き商業界に於て、北条早雲が一剣に仗つて小田原城を取りたるが如く、其冒険的気象と奸才とを以て、赤手にして忽ち巨大の冨を為したる者、例へば某々々々の如き俄豪富、博文館の如きも其一、月島太助の如きも共一。其他華族豪農も亦此中に列すべし。斯くて是等諸富表が其強大を至すや、藩閥も党閥も終に之を無視すること能はず、否無視すること能はざるのみならず、之と結托し之に依頼し自己も亦其一部となって相共に此大財閥を擁護するに至れり。岩崎家の婿たる加藤高明氏が幅を利せたるが如き、岩崎弥之助氏が日本銀行稔裁となりたる如き、進歩党の諸名士が公然の秘密として岩崎家より扶持を貰ひ居るが如き、井上馨氏と三井家との関係の如き、井上、松方等の諸元老が亦自ら大富豪たるが如き。又最近日露戦争に際し、政府が恰も銀行家の承諾を経て戦争を始めたるかの観あるが如き、皆是れ藩閥と党閥と財閥との結合を示すものなり。而して将来の形勢を察すれば、藩閥も党閥も漸々財閥の中に鎔鋳せられ終に富豪階級資本家階級と称する一大紳士閥を作り成すに至るぺし。
▲学閥 こは主として帝国大学を指す。藩閥政府が官吏養成所として大学を作り、穂積八束氏の如きをして、其一種特異なる、頗る御都合よき、国家主義を講ぜしめ居るは、今更細説するにも及ばざるぺし。斯くて大学卒業生は官吏のみならず、あらゆる社会に踏入りて、其御用国家主義を宣伝し、終に堅固なる学閥を作り成せり。而して彼等未だ多く党閥と相結ばずと雖も到る処に藩閥財閥と相席んで、紳士閥全体の爪牙となれり。世人或は学閥が藩閥と相結べるの堅きを知って、そが財閥と相結べるの探きを知らず。然れども穂積八束氏の細君は浅野総一郎氏の娘にして、穂積陳重氏の細君は渋沢栄一氏の娘なり。而して新学士中稍才力あるの輩が求めて財閥の姻戚たらんとするの風あるは、蔽ふぺからざるの事実に非ずや。
▲宗閥 是れ日本に於ては未だ多く言ふに足らずと雖も、真宗の如きは既に明かに世襲華族として門閥の中に在り。之を財閥として見るも亦一個有力者たるを失はず。近時基督教中にも亦国家の権力に阿諛して之に接近せんと力むる者あり。
▲門閥 大名公卿の遺物、是れ殆んど言ふに足らざるが如しと雖も、彼等にして財力と相結ぶ時は、亦多大の勢力と為らざるを得ず。見よ毛利氏は数千万円の富豪に非ずや。見よ徳大寺氏の子は住友家の養子となれるに非ずや。
紳士閥の内面大略斯くの如し。藩閥、党閥、財閥、学閥、宗閥、門閥、苟も是等諸閥の一に因縁なき者、到底今日の社会に其頭を上ぐるを得ず。此に於て立身栄達を求むるの輩、争うて是等諸閥に赴く。政治家、新聞記者、実業家、銀行会社員、乃至は文人、学者、志士、論客の類、謂ゆる当代の才子を以て目せらるゝ小紳士は皆此徒なり。
吾人は此に於て現今社会の二大階級を明示し得たりと信ず。即ち、前記諸閥と之に附随せる小紳士とを合したる一大紳士閥と、他の貧民労働者を合したる一大平民族と、即ち是れなり。
鳴呼紳士閥!、平民の敵は実に此紳士閥の外に在らざるなり。吾人は日本の平民が明瞭に此二大階級を看取せんことを切望す。」
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3月26日
・「新たに組織された社会主義伝道隊は三月二十六日、有志の総勢九人が赤旗を翻し大太鼓をうち鳴らして銀座、新橋、芝新網、芝公園まで示威行進をこころみ、路傍演説をおこない、新聞の旧号、檄文を配布し「平民文庫」を販売して無事平民社に引揚げた」(荒畑寒村『平民社時代』)。
これには寒村(18)も参加。
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3月27日
・フィリピン、ベンゲット道路開通。避暑地・保養地として高原都市バギオが開発。
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3月28日
・(露暦3/15)ロシア、ワルシャワ警察長官ノルケン、爆弾により負傷
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3月29日
・陸軍、脚気増加に対処して米麦7対3の混食奨励を訓令。
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3月29日
・長崎高等商業学校、名古屋高等工業学校設立。
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3月30日
・陸軍、「明治三十八年以降に於ける作戦方針」決定。満州軍総参謀長児玉大将出席。
参謀次長長岡少将の構想を基盤に、①ハルビン、③北韓及びウスリー(ウラジオ)、③樺太を作戦方向とする。
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3月30日
・クレタ島島議会、ギリシャとのとの統合決議。1904年にギリシャとの統合要求が列強に拒否されたことを不満として、反オスマン帝国暴動が発生。
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3月31日
・樺太作戦部隊第13師団動員下命。
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3月31日
・遠洋漁業奨励法公布施行。遠洋漁船検査規則制定。
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3月31日
・石川節子、篠木尋常小学校を退職。
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3月31日
・ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(46)、モロッコのタンジール港上陸。第1次モロッコ事件の発端。1880年のマドリード国際協約に基づくモロッコ独立・領土保全尊重声明。
モロッコに門戸開放政策の維持を求める独の姿勢は、仏・英・伊・スペインには脅威と映り、独はこの件を話し合う会議の開催を主張。英仏協商の真価が問われデルカッセ仏外相は辞任。
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3月31日
・セオドア・ルーズベルト大統領、ドミニカとの暫定協定によりアメリカ人関税管理者を任命。
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月末
・森近運平(岡山いろは倶楽部創始者、岡山県庁免職)、大阪平民社設立。
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