2015年3月1日日曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(12) 「6 堤上からの眺望」 (その2終) : 「荷風は堤上のうらぶれた川島に託して、放蕩無慙(むざん)な自身の来し方をながめているのである。」

カワヅザクラ 2015-02-27 北の丸公園
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(前回)
「・・・・・・『おかめ笹』が、花柳小説としての終着駅となったゆえんである」

女給もの、『つゆのあとさき』の君江の造型
 「それにかわって登場するのがカフェーの女給ということになるのだが、女給もまた荷風の手にかかっては春婦の一形態でしかない。芸者以上に、その点では徹底している。・・・」

 「それでは、どのようにして(*『つゆのあとさき』の)君江の性格は造出されたのであろうか。荷風自身、『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』に先立つ、昭和六年十月二十二日付の谷崎潤一郎宛書簡のなかでのべている。

《五十歳を過ぎたる今日小生の芸術的興味を覚るは世態人心の変化する有様を見ることにて昔の戯作者のなしたる事と大差なく従つて思想上之といふ抱負も無御座候 それ故自分ながら気魄の薄弱なるには慚愧致居候 モデルは別に之と定りたる女もなし実験の上三四人同じやうな性行の女をあれこれと取合せて作り上げしもの之はドーデが屡取りし方法に御座候》

過大な謙遜は割引きして読むほかはないとして、君江のモデルは実際に複数者の合成人物であったのだろうし、誰と誰の合成か、そんなことはかりにつきとめられるとしても知る必要のないことである。

 なぜなら、荷風は『つゆのあとさき』の執筆にのぞんでにわかに君江という人物を造型したのではなくて、君江の原型ともいうべき性格づくりを、恐らくはまだ『つゆのあとさき』などという作品の構想がカケラほども念頭になかったはずの数年前から、すでに着々とこころみていたことが、われわれにはわかっているからなのである。大正十五年の『かし間の女』、昭和五年の「夢』、六年の『あぢさゐ』などがそれであって、そうしたかずかずの試行錯誤のはてに把握した性格を具象化したのか『つゆのあとさき』の君江に相違あるまい。・・・」

『かし間の女』
 「・・・『かし間の女』から触れていけば、二十七歳の小村菊子は・・・」
"「こういう(*『かし間の女』の菊子の)性行が『つゆのあとさき』の君江と符合して一卵性双生児の観すらあるといえば、牽強のそしりをまぬがれないだろうか。菊子がそのまま君江になり変ったのではないにしても、『かし間の女』を書いたことが荷風に『つゆのあとさき』を書かせたことは、まずまちがいない。『かし間の女』の末尾にちかい部分で、作者は作中人物のひとりに語らせている。

《公娼がだんだん廃(すた)って芸者が流行り、芸者が下火になって私娼が流行り出すのは時代の趨勢で仕方がない。徹底的に私娼を一掃しやうと言っても到底一掃し得られるものぢやないぜ。》

こういう見解のもとに、その種の作品が産み出されていく。」

『夢』
 「次に『夢』だが、これは発禁をおそれたらしく、《わたし》なる人物が夢のなかで出逢った、作者の分身とおもわれる老人にきいた談話という、戟前の作品らしい遠慮がちな形で書かれているのにもかかわらず、執筆当時にはついに発表の機会が得られぬまま、戦後の昭和二十七年に至ってはじめて陽の目をみたといういわくつきの作品で、・・・作品としては取り立てていうほどのものではないが、・・・」

 「・・・《好い男ぶつてゐるお客ほど気障なものはない事ヨ。 一番きらひヨ。 それから恋愛だの情熱だのといろいろな事を云ふ人も面倒くさくツていやだわねえ》と語る個所に至って、いちだんと『つゆのあとさき』の君江に接近する。」

『あぢさゐ』
 「また、『あぢさゐ』は下谷の枕芸者におぼれた三味線ひきが多情な女のしうちに殺意をいだくが、それより早く女は他の男に殺されるという筋立ての小篇で、《年は丁度二十、十四五の時から淫奔(いたづら)で、親の家を飛出し房州あたりの達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いてゐる女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしやうといふ考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、唯愚図愚図でれでれと月日を送ってゐる。》という点などが、やはり濃密に君江と共通している。」
"「いったい『つゆのあとさき』は女給ものの集成とよばれて、それが定説化している模様だし、私なども今回あらためてやや系統的に関連作品を読み返してみるまでは、ただうかうかと流説を鵜呑みにしていたのであったが、こうしてつぶさに検討してみた結果、かならずしも女給ものの系譜の上に立っているわけではないことに気づかされた。」

『つゆのあとさき』=女給ものの集成、ではない
 「そこで以上の記述をざっと整理してみると、『雪解』のお照は職業が女給だというだけで『つゆのあとさき』の君江の性格とは無縁である。『カツフヱー一夕話』 のお蔦もまた然りで、君江に直線的なつながりをもつ『かし間の女』の菊子はカフエーに出入りすることのない私娼であり、『夢』の《女》は芸者、『あぢさゐ』の君香もまた芸者なのだから、『つゆのあとさき』が女給ものの集成だという見方はもはや撤回されるべきだろう。そして、芸者という職業女性にはおさめきれなくなって、芸者からはみ出るものを女給のなかに盛りこんだ作品が『つゆのあとさき』であったとみるべきなのである。」

「谷崎潤一郎は『「つゆのあとさき」を読む』のなかでいっている。

《「芸術的感興なんて、もうそんなものは持ち合はせない。心理がどうだの性格がどうだのつて、そんな面倒くさい詮索もイヤだ。己は唯自分の見た女や男を玩具の人形にして暇ツ潰しをするだけだ」と、作者がさう云ってゐるやうな気がする。・・・》

 「(しかし)・・・荷風はやはり君江がどのような性行の女かをえがきたかったのだろうと思う。そして、その一点に、この作品がもつ花柳小説からの文学的飛躍をみとめずにいられない。」

『つゆのあとさき』の君江
 「埼玉県の菓子屋に生まれた二十歳の君江(実名=君子)は、十七歳のとき小学生時代の友人で牛込の芸者から妾になっていた京子をたよって上京すると、その旦那である川島の世話で保険会社の事務員になって課長に身をまかせたのち京子とともに待合や結婚媒介所へ出入りするようになるが、京子が検挙をおそれて富士見町の芸者になったとき上野池ノ端のサロン・ラックへ女給として入ってから、やがて銀座のドンフワンに移る。そして、女給になる以前から交渉をもっていた法学博士でもと某省の高等官であった松崎という六十歳の男と、池ノ端以来の客で三十六歳の作家=清岡進の二人をパトロンにもちながら、自動車輸入商の支配人や西洋舞踊家などとも刹那的悦楽にふけっているような女である。」

肉体の老化を自覚しはじめていた荷風自身の悲愁
 「さらに『腕くらべ』の菊千代と君江とは根本のところで違っていると私はいったが、菊千代は抱え主をもっていて買われる女で、君江はみずからの意志で自発的に売る女である。消極に対する積極で、荷風はここで女の制禦しがたい性慾というものに直面している。そして、そこに性の荒廃と虚無とを感じて、みずからの老いを知ったのであろう。」

 「君江は四番町の外濠に面した土手公園でおちぶれはてた京子のかつての旦那の川島に逢って、自身の部屋へ連れ戻るとおのれのからだをくれてやるが、そのあと川島が遺書をのこして去るところで『つゆのあとさき』は終っている。その結末にも半生を淫事に埋没した男の末路のあわれが感じられるが、私はそうした結末よりも、土手公園の堤上で川島が君江に語りかけるというよりは、自己自身にむかって語りきかせるような言葉のうちに、ただの感傷としてではなく、現実に肉体の老化を自覚しはじめていた荷風自身の悲愁をみる。

《「成程小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じやうに向(むかう)を眺め、「あすこの、明いところが神楽阪(ママ)だな。さうすると、あすこが安藤阪(ママ)で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似をしたもんだな。併し人間一生涯の中に一度でも面白いと思ふ事があればそれで生れたかひがあるんだ。時節が来たら諦めをつけなくつちやいけない。」》

安藤坂は大曲から伝通院前へのぼる坂で、戦中作の『浮沈』の主舞台としても取り扱われている牛天神は、安藤坂の坂下からいえば中途右手にある北野神社で、土手公園の濠をへだてた対岸にはげんざいビルディングが櫛比(しつぴ)して往年の面影をすっかりうしなっているが、戦前は夜になると真暗になってしまう一帯であった。それだからこそ、《あすこの、明いところが神楽阪だな。》という言葉が生きている。・・・」

自分の生誕地を眺める荷風=「放蕩無慙な自身の来し方をながめている」
 「自裁を直前にした川島が末期の眼で見ているのは小石川の高台で、小石川は荷風の生誕地である。荷風は堤上のうらぶれた川島に託して、放蕩無慙(むざん)な自身の来し方をながめているのである。」
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