2015年3月27日金曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(124) 「第19章 一掃された海辺-アジアを襲った「第二の津波」-」(その2) : 「津波が「再生計画」を再生させる 「スリランカ再生計画」が潰れたことを嘆いていた人たちは、津波という大災害の持つ意味をすぐさま理解した」

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民族の壁を越えた助け合いと史上最大の義援金
 (最初は)、救助活動も、ケガの手当も、遺体を埋める穴を掘るのも、すべて住民たち自らがやっていた。そうした事態のなか、この地域を分断していた民族の壁〔スリランカにはシンハラ人(仏教徒)、タミル人(ヒンドゥー教徒)、スラム教従、キリスト教徒など多民族が暮らす〕が突然消えてなくなった。・・・「イスラム教徒は遺体を埋葬するのにタミル人に助けを求め、タミル人はイスラム教徒に食料や水を分けてもらい、内陸に住む人たちは家ごとに毎日二個、弁当の包みを届けてくれた。・・・」

こうした民族の壁を越えた助け合いは、国中至るところで見られた。タミル人の一〇代の少年は農村部からトラクターで駆けつけ、遺体の収容を手伝った。イスラム教徒の埋葬用にキリスト教徒の子どもたちは白い制服を寄付し、ヒンドゥー教徒の女性たちは白いサリーを提供した。津波は家々を押し潰し、道路を破壊した一方で人々を謙虚にし、民族間の長年にわたる憎しみや流血の抗争、復讐の念をも洗い流す力を持っていたかのようだった。・・・

復興に関しても、国際支援が期待できると見られていた。当初は各国政府の対応は遅く、初めに援助の手を差し伸べたのは被害の様子をテレビで観た世界中の人々だった。・・・やがて市民らは自国政府に対し、災害支援金を供出するよう働きかけた。こうして半年後には、二三〇億ドルという史上最大規模の義援金が集まった。

そのうちにストップした復興作業
初めの何ヵ月間かは、こうした復興資金のほとんどはその目的どおり被災者救済のために使われた。NGOや支援団体は緊急用食料や水、テントや仮設小屋を運び込み、先進国は医療チームや医薬品を送ってきた。住宅を建て直すまでの間、被災者が一時的に生活するための場所として避難所が造られた。住宅再建のための資金が十分にあったことはたしかである。

ところが津波から半年後に私(ナオミ・クライン)が訪れたときには、復興作業はすべてストップしていた。再建された住居はほとんどなく、避難所はもはや緊急のシェルターではなく恒久的なスラムと化していた。

支援活動家たちは、スリランカ政府がことごとく復興の邪魔をすると言って不満をぶつけた。海岸をバッファーゾーンに指定したかと思えば、住宅建設用の土地を提供することを拒み、海外の専門家に再建のための調査やら計画書やらを次々と依頼するばかりだ、と。・・・こうした復興の遅れは「お役所仕事」や管理能力欠如のせいにされることが多いが、背後にははるかに深刻な問題が潜んでいた。

津波以前 - 頓挫した計画
津波前の国際金融機関によるスリランカ大改造計画
スリランカの大改造計画が最初に持ち上がったのは、津波発生の二年前だった。
始まりは内戦終結後のスリランカに米国際開発庁(USAID)、世界銀行、世銀から枝分かれしたアジア開発銀行といったいつもの面々が乗り込み、この国を世界経済に組み込むための策を練ったことだった。

長い内戦のせいでグローバリゼーションの波が最後まで及ばなかったことこそ、スリランカの最大のセールスポイントだという点で、これら国際融資機関の認識は一致した。ごく狭い国土にもかかわらず、スリランカには、ヒョウ、サル、何千頭ものゾウなど豊富な野生生物が生息している。ビーチには高層ホテルは一軒もなく、山間部にはヒンドゥー教、仏教、イスラム教の寺院やモスク、聖地などが点在している。何より素晴らしいのは「ウェストヴァージニア州ぐらいの面積にその全部が収まっている」ことだとUSAIDは絶賛した。

計画によると、内戦中はゲリラたちが潜んでいたジャングルもエコツアー客に開放し、中米コスタリカのように観光客はゾウに乗ったり、ターザンの真似事をしたりして冒険を楽しむ。血なまぐさい抗争の大きな要因だった宗教も、欧米人観光客のスピリチュアルなニーズを満たすために様変わりする - 仏教僧は瞑想センターを運営し、ヒンドゥー教徒の女性は観光ホテルでエキゾチックなダンスを披露し、インド伝統医学に基づくクリニックが観光客の心身の不調を癒すというわけだ。

ひとことで言えば、アジア各地に多国籍企業が設けた「搾取工場」やコールセンター、それに狂乱に沸く市場はそのまま存続させる一方、スリランカをそうした業界の大物たちが疲れを癒す場にしようというのである。アジアに広がる規制なき資本主義の拠点から生み落とされる莫大な富があればこそ、極上のリゾートライフと野生の自然、こまやかなサービスと冒険を絶妙に組み合わせた休日を楽しむのに費やす金はあり余るほどある。

先の国際機関の代表たちは、スリランカの将来はアマンリゾーツ〔インドネシアの富豪が創設した超高級リゾートホテルチェーン〕のような大手ホテルチェーンの出方にかかっていると見ていた。ちなみにそのアマンリゾーツは最近、スリランカの南海岸に全室プール付きで一泊八〇〇ドルというホテルを二カ所オープンしている。

アメリカ政府は高級リゾート地としてのスリランカに、ホテルチェーンや旅行業者が参入できる可能性を見込んで大いに乗り気だった。
USAIDはスリランカの観光業界をワシントン流の強力なロビー団体に仕立て上げる計画をスタートさせ、スリランカの観光振興予算を「年間五〇万ドル足らずから」一〇〇〇万ドル規模へと」引き上げることに成功する。

一方でアメリカ大使館も、スリランカにおけるアメリカの経済的利益を促進する拠点として「競争力強化プログラム」を立ち上げた。このプログラムの責任者でエコノミストのジョン・ヴァーレイによれば、二〇一〇年までに年間一〇〇万人の観光客を誘致するというスリランカ観光局の目標は控えめすぎるという。「個人的にはその倍は誘致できると思う」と彼は言う。
世銀の現地担当責任者でイギリス人のピーター・ハロルドは私に、「スリランカはバリに匹敵する観光地になるとずっと思ってきた」と話した。

プルトノミー(富裕経済)
富裕層向けの観光業が確実な利益をもたらす成長マーケットであることは疑いない。二〇〇二年から二〇〇五年の間に、一泊の料金が平均四〇五ドルという高級ホテル業界の総収益は七〇%も上昇している。9・11後の落ち込み、イラク戦争、原油価格の高騰といったマイナス要因を考えると、驚くべき数字だ。この驚異的な成長は多くの点で、シカゴ学派経済学の全般的勝利が世界にもたらした極端なまでの経済格差の副産物だと言えよう。

今日の世界には、経済の全体状況とは無縁に数千万から数十億ドルの資産を持つ新興エリート集団が存在し、その規模はウォールストリートが「スーパー消費者」 - 彼らだけで消費者需要を丸ごと担う財力を有する - とみなすまでになっている。

ニューヨークのシティ・グループ傘下の投資銀行スミス・バーニーの元国際株式戦略グループ主任アジェイ・カブールは、ごく少数の富裕層が経済成長を牽引し、その成長を消費する体制を「プルトノミー(富裕経済)」と呼び、ブルガリ、ポルシェ、フォーシーズンズ、サザビーズなど富裕層をターゲットにした企業の株を「プルトノミー・バスケット」として顧客に売り込んでいる。「今後もわれわれの予想どおりプルトノミーが続き、収入格差がこのまま拡大していけば、プルトノミー・バスケット企業は順調に業績を伸ばしていくことが予測される」と彼は書く。

スリランカに与えられた課題克服のためのお決まりのコース
・・・まず第一に、一流リゾート企業を誘致するには土地所有に関する規制を廃止することだ(スリランカの国土のおよそ八割は国有地)。
次には、リゾート業者が従業員を雇用しやすくするために、「柔軟な」労働法を制定する必安があり、さらには幹線道路や空港の整備、水道や電気システムの改良など、インフラを近代化する必要もあった。
ところがスリランカはこれまで武器購入のために多大の負債を抱えており、これらの急を要する事業をすべて自国でまかなうことは不可能だった。こうして世銀やIMFから融資を受ける条件として、民営化の促進と「官民パートナーシップ」の導入に合意する、というお決まりの取引が行なわれたのである。

国民に多大な犠牲を強いるショック療法プログラム「スリランカ再生計画
世銀が承認し、二〇〇三年初めに最終決定に至ったショック療法プログラム「スリランカ再生計画」には、こうした改革案や条件のすべてが手際よく組み込まれていた。この計画を推進するにあたってスリランカ側で中心となったのが、政治家で起業家でもあるマノ・ティッタウェラ(容姿も考えんも、九〇年代アメリカの大物共和党議員ニュート・ギングリッチと驚くほどよく似ている)という人物だ。

ショック療法プログラムの常として、「スリランカ再生計画」も迅速な経済成長を促すという大義のもと、国民に多大な犠牲を強いるものだった。海岸を観光客に、土地をリゾート施設や幹線道路に明け渡すために、何百万人もの人々が住み慣れた土地を離れることを余儀なくされる。漁業は大きな港から沖合へと出て行く大型トロール船が中心となり、浜から漕ぎ出す木造船はもはや用なしだった。そしてブエノスアイレスからバグダッドまで、過去に同様の状況下で幾度となくくり返されてきたように、国営企業は大量解雇を断行し、各種の公共サービスは値上げされることになる

国民的抗議と「計画」廃棄を主張する政党の勝利
計画への反対はまず戦闘的なストライキや街頭デモによって表明され、続く二〇〇四年四月の選挙では断固とした国民の声が示された。
スリランカ国民は、外国人専門家や彼らと手を組む人々にノーを突きつけ、「スリランカ再生計画」の全面廃棄を掲げた中道左派とマルクス主義を掲げる極左政党との連合を支持した。
その時点では水道や電気など主要事業の民営化計画の多くはまだ中途で、道路の建設計画も裁判沙汰になっていた。こうして富裕層対象のリゾート建設の夢はあえなく崩れ去る。二〇〇四年は投資家が優過されるスリランカの民営化元年となるはずだったが、今やすべてが白紙に戻ったのだ。

津波が「再生計画」を再生させる
津波がスリランカを襲ったのは、運命を決したこの選挙から八カ月後のことだった。
「スリランカ再生計画」が潰れたことを嘆いていた人たちは、津波という大災害の持つ意味をすぐさま理解した。崩壊した家や道路や学校や鉄道を再建するために、新政府は外国から何十億ドルという融資を受けなければならない。一方の融資する側も、国家の壊滅的危機に直面すればどんな経済的ナショナリストでも態度を軟化させることを十分知っている。そして前回は開発計画を阻止するために道路を封鎖し、大規模な反対集会を開いた戦闘的な農民や漁民はと言えば・・・最大の被災者である彼らは目下それどころではない、というわけだった。
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