北の丸公園 2015-02-27
*康和2年(1100)
この年
・東大寺別当経範、大衆が朝廷に強訴し解任(寺領荘園獲得政策を怠り、源有政・有王丸父子の紀伊木本荘所有を認知。次の別当永観は積極的に荘園政策実施、大衆は支持。
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・久我家の祖・源顕房の子・久我雅実、内大臣となる。
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・ロンドン、バンクサイドに風呂屋。十字軍帰還兵士により入浴の楽しみが復活。
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・1100年の少し前、フランスで「武勲詩」誕生。
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・ロベール・ダルブリセル、トゥール近くにフォントヴロー修道院創設。
二重修道院(男子修道院と女子修道院が同じ場所に同時に創立)。修道院長は女子修道院長(マリア信仰)。
初代:ペトロニール・ド・シュミエ(1114年就任、新任時20才の未亡人)。
2代:マチルダ・ダンジュー(11120年、夫ウィリアム(ヘンリ1世息子)が白舟号の遭難で没。フルク・ダンジュー娘(フルク5世、アンジュー伯・エルサレム王)。ジョフロワ・ル・ベル妹(ジョフロワ、マティルダと結婚、ヘンリ2世の父))。
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・12世紀初頭、フランドルの大規模織物工業発展に必要な2つの要因(土地で吸収できない過剰人口。原料供給源イングランドとフランドルの結びつき)。
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・年初、ドイツの「東方植民」開始。
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・バーゼル、初めて「石造りの市壁」で囲まれる。
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・この頃、ミラノ・サント・アンブロージオ教会建設。
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・12世紀、フィレンツェ、小アルテ成立(馬具職、肉屋、革加工職、指物師、桶屋、組紐職)。
大アルテとの衝突惹起。
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・ヴェネツィア、ヤッファに艦隊200隻を派遣。エルサレムのゴドフロア・ド・ブイヨンより数々の商業特権を獲得。
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・12世紀、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼最盛期(1140年~1150年の間、クリュニー修道僧、「巡礼の案内」作成)。
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・マラゴンの戦い。ムラービト朝軍、カスティーリャ軍アムー伯レーモン(アルフォンソ6世娘の夫)に勝利。
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・年代初め、セームント(アイスランド人)、「エッダ」(韻文エッダ、17世紀に発見、9~11世紀古詩の集成)を書く。
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1月
・バルキヤルク、バグダード入城。
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1月26日
・正六位上藤井兼次、越前国掾を望み少掾に任じられる。
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2月22日
・ [北宋の元符3年1月11日]北宋、哲宗の弟・徽宗(18、位1100〜25)、第8代皇帝に即位。母の皇太后の向氏が政務を代行。
徽宗は政治に熱意なく、学芸に秀で詩文書画をよくし、「風流天子」と呼ばれる。書に優れ、新画風の院体画を開き、文化の保護・奨励に努め、書画や古器物の収集を盛んに行い、豪奢な宮廷生活によって国費を乱費。
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春
・ヴェネツィア、ロードス島でエルサレムよりの帰路のピサ艦隊を襲撃。
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3月26日
・従五位上行主税権助兼算博士三善雅仲、儒労により越前・越中国介の兼任を請う。
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5月
・エルサレムのゴドフロワと右腕タンクレード(アンティオキアのポエモンの甥)、略奪を終えての帰路、ダマスカス軍(ドゥカーク王)に攻撃される。タンクレードは報復し、ダマスクス周辺を略奪。
ドゥカークが講和を持ちかけたため、タンクレードは使節団を送込むが、ドゥカークにより殺害。
ゴドフロワとタンクレードはダマスカス周辺を徹底的に破壊。
ダマスカスの住民はドゥカークに不満を持つようになる。
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6月8日
・園城寺衆徒、同寺長吏隆明の房舎を焼く。
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6月15日
・多賀忠(55)・節方父子、京都の祇園御霊会で山村吉貞・正連父子に殺される。
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7月上旬
・フランク軍の老サンジル、他の武将たちとの対立により、コンスタンティノープルに去る。
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7月6日
・白河法皇、越前坂井郡河口荘を料所(僧侶に対する給付財源として寄進)として春日社で毎日不退一切経転読を始める。
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7月14日
・越前坂井郡河口荘領検校・権大僧都隆禅、没。
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7月17日
・藤原忠実(23)、右大臣に任命。前年、父師通没し、氏長者を継ぐ。
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7月18日
・エルサレム王国ゴドフロア・ドゥ・ブイヨン(下ロレーヌ公)、アッカ攻撃中に没。
12月、弟ボードアン1世(42)、即位(エデッサ伯領主、ブローニュ伯)。
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7月23日
・正五位下越前守藤原家保、造宮の賞により従四位下に叙任。
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8月
・ダニシメンドがアルメニアの都市マラティアを包囲中の報に、アンティオキアのポエモンが進撃。
ダニシメンドの待伏せにあいポエモン等は捕虜となり、アナトリア北部ニクサルに連行。
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8月2日
・イングランド王ウィリアム2世(40)、狩猟中に横死(1060~1100、位1087~1100、ウイリアム1世次男)。
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8月5日
・ヘンリ1世(32)、即位(ウイリアム1世末子、1068~1135、位1100~1135)。
ヘンリ1世兄ノルマンディ公ロベール・クルトゥーズ、第1回十字軍に従軍して留守。
征服王の末子。ノルマン朝の集権的体制を完成。優れた教育を受け、ラテン語の読み書き、法学も修める。
貴族たちの既得権尊重を約し、彼らの支持を得る。
追放中のアンセルムスをカンタベリ大司教に呼び戻し、教会の支持も確保。
サクソン王家の血を引くマティルダを王妃にして、アングロ・サクソン系の人々の信望を得る。
行政・司法組織を改革し、厳格な統治を進め、対外的には、兄ロバートを破ってノルマンディー公領を併せる(1106)。
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8月15日
・ヘンリ1世、「自由憲章」(戴冠憲章)発布。
国王が教会に選挙の自由と教会財産の尊重を約束。家臣の封の相続代償に不当な知行付帯義務の賦課中止。王権が保持してきた諸特権は維持。国王すら守らねばならない「一定の慣習」があることを認め、王権の働きにも一定の限界があることを承認。
「定期金知行」始まる。
11世紀末、イングランド王、フランドルの領主に「年金(定期金)」を「知行」として与え軍事援助を取り付ける。年金(定期金)を知行として与えた最初の例(交換経済、行政機構が進歩し、諸王国で通貨の蓄積が可能となる)。「定期金知行」は、土地の譲渡を伴わず、譲与者に対する従属関係を土地よりも厳しく繋ぎとめる。フランスでは、フィリップ・オーギュストがプランタジネット家君主に倣ってフランドルの領主に対し同一の方法でイングランド王と競う。
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秋
・僧侶が白山参詣の途中、敦賀津で「唐人」黄昭を雇い経巻一帖を書写させ、この秋、参詣から帰り、黄昭から完成した写本を受け取り、その事実を奥書に認める(「金剛頂瑜伽経十八会指帰」奥書)。筆墨に巧みな宋人が敦賀に滞在し、経論の書写など文筆活動を行なっていたと推定される。*
9月8日
・対立教皇クレメンス3世、没(ラヴェンナ大司教ヴィーベルト、位1084~1100)。
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9月19日
・太宰権帥の大江匡房、筑前安楽寺に満願院を建立。
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10月
・バルバストロ、アラゴン・ナバーラ王ペドロ1世に降伏、開城。
陥落後、ペドロ1世、エブロ川流域を下り始める。
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・エルサレムのゴドフロワが戦死したため、弟のエデッサのボードワンは騎士500と共に出発。
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10月20日
・地震あり。
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10月24日
・ダマスカス王ドゥカーク、エルサレムに向うエデッサのボードワンをベイルート近くのナフル・アル・カルプ(犬の川)で待伏せ。
ダマスカスと対立するトリポリのカーディー、ファルク・アル・ムルクに待ち伏せを知らされたボードワン1世は、待ち伏せを回避してエルサレムに到着。(11月)。
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11月
・プアティエ公会議。教皇特使の「国王への破門の更新」宣告に反対してプアティエのギョーム伯と国王支持派司教が退場。
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11月11日
・エディッサ伯領にいたボードゥアン・ドゥ・ブローニュ、エルサレムに到着。
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11月11日
・ヘンリ1世、エディス・マティルダ(20)と結婚(イーディス、1080~1118、エドマンド剛勇王曾孫、スコットランド王マルカム3世娘)。
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12月
・従五位下藤原宗能、越前守に任命。
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・兄弟間の妥協成立。バルキヤルクがバグダードの主となる。バグダードは30ヶ月に所有者を8回変える。
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12月25日
・ボードゥアン・ドゥ・ブローニュ、ベツレヘムのナティヴィテ教会でダンベール総大司教の手でエルサレム王(ボードゥアン1世、42)として祝別される。
ボードアン、総大司教ダンベールの神裁政治による「神の都」建設と対立し、罷免、後任に副大司教を任命。
ボードアンは王国の永続のために必要なヨーロッパの援助を確保するためには港湾が必要と考え、カイザレア・アッコン・ベイルート・シドンの諸港をジェノヴァ・ピサ連合艦隊の接助を得て占領。
住民を増やすため、回教徒支配下にあるギリシア式典礼やシリア式典礼を行っているキリスト教徒の移民を奨励。
このような巧みな政策により、「フランク人の三国」(エデッサ伯領・アンティオキア公領・トリポリ伯領)にエルサレム国王の権威を認めさせ、連邦国家のような体制を作り上げる。
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