美の巨人たち2016-10-22
『《関ヶ原合戦図屏風》 “歴史”はいかに描かれたのか』
大阪歴史博物館(大阪城公園前)に展示されている重要文化財《関ヶ原合戦図屏風》
別名《津軽屏風》と呼ばれ、弘前藩主・津軽家に伝わったもの。
樹木が生い茂る山には緑青がふんだんに使われ、土佐派の画家によるものと推測できる。
この屏風は、家康が描かせ江戸城の大広間に飾らせていた可能性が高いという。
豊臣恩顧の大名の手を借りて辛うじて勝利した関ケ原の戦いと徳川家にふさわしいイメージに組み替えるための、いわば”徳川創世神話”を作り上げるためのものであった。
現在は一双しか残っていないが、もともとは二双だった。
慶長18年(1613)頃、家康の養女、満天姫(まてひめ)が弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)に嫁ぐ際に現存する部分の一双を持たせたもの。
現存する右隻は合戦前日9月14日の大垣周辺、
左隻は合戦当日の午後の様子を描いたもの。
《右隻》
西軍の本拠地は大垣城、東軍は赤坂野営地。
着陣した順により、東軍の陣地が西、西軍が東に置かれることになった。
家康は街道を行く隊列の中に白馬にまたがるハチマキ姿の武将として描かれている。
(ほかの武将は判別がつかない)
戦の場面は、西軍が勝利し大いに士気が上がったという杭瀬川の戦い。
《左隻》
敗走する西軍と追走する東軍の姿が描かれている。
左下には松尾山の小早川秀秋軍も描かれている。
関ヶ原合戦図屏風は縦が約2m、横は2隻で12mという巨大なもの。
「力を持った権力者」であることを示すためにはこの大きさと絢爛豪華さが必要だった。
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