より続く
慶応3年(1867)5月
・5~6月頃、幕府、従来の老中合議制を否定し、幕閣を、陸軍・海軍・国内事務・会計・外国事務の5局に分け、夫々を各老中で分担して責任を持つ事になり、板倉勝静が慶喜を補佐して首相格となる。
・坂本・後藤、「万国公法」刊行計画。未実現。
・島津久光、磯に初の洋式機械紡績所(鹿児島紡績所)を開設。英人技師6人
・ヘボン「和英語林集成」の印刷、上海で完了。
・龍馬姪春猪の婿養子坂本清次郎(26、後、三吉賜)、脱藩して龍馬を訪ね海援隊に入る。
・長岡謙吉著述「閑愁録」、海援隊蔵版として刊行。
・栗本鋤雲(じょうん)、外国奉行兼箱館奉行に任命(但し江戸でその任にあたる)。
安政5年(1858)年蝦夷地に渡り、各地で薬草を採取、七重村に薬草園を開く。久根別川の浚渫、函館病院の前身箱館医学所の開設に努力。文久3年(1863)江戸に戻る。慶応3(1867)年仏に赴き日仏間の親和を図る。
5月1日
・在京水戸藩士藤田大三郎ら80余人、岡山に赴き、岡山藩主池田茂政による朝幕間の斡旋、兵庫開港阻止を請う。ついで、そのうちの7人、更に鳥取に至り、藩主池田慶徳に謁し、同じく請う。6月、大三郎ら、帰京。
5月5日
・ハノーヴェル、マルクス、「資本論」の最初の校正刷を受け取る。
5月7日
・坂本龍馬(33)、「信友のものといへども自然堂まで不参よふ」伊藤家に数ヶ条の依頼書を発し、万一の場合「愚妻儀本国(土佐)に贈り返」すように三吉に託し、非常な決心で8日下関出港。10日長崎着。13日、海援隊士達、別便で長崎に到着。
5月8日
・オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ夫妻、ハンガリーへ出発。
5月9日
・小笠原只八、山内容堂から武力討幕の動きを危険視され退京を命じられる。13日、京都退去。
5月10日
・児島惟謙、宇和島藩脱藩。/27.大坂着。/28.京都着。
5月11日
・新井忠雄、太宰府に至り真木外記に会し、新選組分離を報ずる。
5月11日
・ロンドン、英仏普墺露蘭伊ベルギー、8ヶ国会議、ルクセンブルクの永世中立承認。
5月14日
・四候会議。松平春嶽・島津久光・伊達宗城・山内容堂、慶喜と会し国事討議。19日、四候、防長処分が先決で兵庫開港を後にすべきと述べる。
・マルクス、ハンブルクでマイスネルと交渉を重ね、19日、ロンドンに帰る。
5月15日
・いろは丸事件、伊呂波丸と紀伊藩汽船の衝突の賠償交渉、再度長崎で始まる。
・イギリス公使パークスの属官アストン指揮のイギリス軍艦サーペント号、日本海側で開港場適地調査。この日、小浜に入津。
小浜の前に丹後宮津・田辺に寄港、小浜の後に三国・能登七尾・越後新潟・出羽酒田を経て、6月15日、横浜に戻る。
・メキシコ、皇帝軍、メキシコシティー北ケレタロで共和派に降伏。皇帝マクシミリアン(オーストリア大公、皇帝フランツ・ヨーゼフ弟)、インディアン系元弁護士・共和主義者ファレス軍捕虜となる。のち銃殺。
5月16日
・中島三郎助(47)、軍艦組出役となる。7月15日、軍艦役並。12月13日、小十人格軍艦役。翌年1月23日、両番上席軍艦役となる。
幕府は、この年3月にオランダから到着した開陽丸の配備をもって艦隊を編制、軍艦組を正式の徳川海軍とする。艦隊司令官は長崎伝習所1期生で艦長候補であった矢田堀鴻(景蔵)。開陽丸海将(艦長)海軍は伝習所2期生(正規伝習生として)榎本武揚。矢田堀は、中島三郎助に軍艦組(海軍)に戻って欲しいと懇請、三郎助はこれを受け軍艦役並というポストで開陽丸の士官乗組員となる。
5月18日
・西郷隆盛と山県狂助、大坂の薩摩藩邸で会談。
・箱館のプロイセン領事ゲルトナー(商人)、横浜のクニフラー商会で働く弟ライツェハルトと共に箱館奉行杉浦誠を訪問、蝦夷地開拓・寒冷地におけるプロイセン式農業経営に関して献策し、機械による開墾の可能性を強調し土地租借を願い出る。杉浦は箱館近郊の亀田村田谷の民有地5反歩余を貸し与える。
5月19日
・越後村松藩、泉仙介ら尊王攘夷派7人を処刑。
5月21日
・薩摩・土佐の間に討幕の密盟が結ばれる。土佐藩乾退助(31)、江戸より上京。中岡慎太郎(30)仲介で薩摩西郷(40)・小松・吉井と会見、討幕挙兵を西郷に約す(夜、京都御花畑の小松帯刀邸で薩側小松・西郷・吉井、土佐側板垣退助・谷守部(千城)・毛利恭助出席、薩土討幕盟約成立。)
5月22日
・土佐藩参政後藤象二郎、紀土両藩問題として紀州藩重役(紀州藩代表茂田一次郎)と長崎聖徳寺で交渉。紀州の依頼を受けた薩摩五代才助、後藤・坂本説得し8万3千両の支払で決着。同日、龍馬、後藤・由井・松井・岩崎らと大浦英商オルトーに行き会飲。
・乾退助、山内容堂に謁見。
・名古屋、上宿柳町の棚橋和十郎宅に津島牛頭天王のお札が振る。
・セルビアとブルガリア革命協会、同盟条約締結。
5月23日
・長州藩の藩是とも云うべき毛利敬親の趣意書、発布。
・将軍慶喜、参内。兵庫開港・長州藩処分寛大の勅許を奏請。朝議、夜を徹し、24日、勅許決定。二条関白は兵庫開港・長州藩の処分寛大を命ずる勅書を出す。25日、兵庫開港、勅許
薩摩藩大久保・西郷は猛烈に工作、慶喜も老中と小御所に詰めきりで圧力。朝彦親王・二条斉敬摂政・鷹司輔熙・九条道孝が慶喜を支持。近衛忠房も薩摩藩にはつかず。動揺する二条摂政に朝彦・鷹司・九条が総辞職の姿勢を示し、兵庫開港が勅許される。慶喜は、「暴威」(大久保)とか「朝廷を軽蔑」(伊達宗城)と評される強引な工作を展開。
大久保は、藩地に「兵力を備え、声援を張り、御決策の色を顕わし」て、「朝廷に尽力」すると伝える。そして、長州に武力決起を促す使者を送り、藩地からは、軍艦で11大隊の兵士を上京させる。口舌による「周旋、尽力の道」をなくした薩摩藩は、幕府と武力で戦う(薩長連合密約の「ついに決戦に及ぶ」)ことも辞さない朝廷の大変革を計画する。
5月24日
・幕府、朝廷に15万俵増貢を奏す。
5月25日
・京都の尊攘派医家曲直瀬道楽、新撰組富山弥兵衛により暗殺。大阪。
5月26日
・セルビアとルーマニア、同盟条約締結。
5月27日
・四候会議難行。島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂。島津の武力討幕論、容堂の公武合体論を圧倒。容堂は憤慨退出、帰国。帰国後、乾退助を仕置役軍備用兼致道館係任命。
5月28日
・龍馬、下関のお龍あて「紀州もたまらんことになり」「やりつけ候」と通信。
5月29日
・薩藩代表五代才助の調停で紀藩より賠償金8万3千両支弁を約し、いろは丸沈没事件解決。10月、1万3千両減額7万両で妥協。
・ハンガリー議会、オーストリアとの「妥協法」承認。二重帝国。
・[清・同治6年4月26日]天津機器局が開業。
つづく
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