2023年7月8日土曜日

〈藤原定家の時代415〉元久2(1205)年閏7月3日~29日 後鳥羽院の宇治新御所、放火で焼失 牧の方事件(時政・後妻牧の方による娘婿平賀朝雅の将軍擁立陰謀) 時政失脚(落飾・修善寺追放) 平賀朝雅の乱で京中騒動   

 


〈藤原定家の時代414〉元久2(1205)年7月1日~30日 定家、後鳥羽院への出仕という宿願により長女因子(11)を百日間日吉社に参籠させる 政子、畠山重忠の所領を勲功のあった武士に与える より続く

元久2(1205)年

閏7月3日

・前年7月に完成したばかりの後鳥羽院の宇治新御所、放火で焼失

閏7月4日

「去ル夜、宇治ノ新御所焼失ス(放火ト云々)。若シクハ是レ、天ノ然(シカ)ラシムルカ。旁々怖ルベシ。」(『明月記』)

閏7月7日

・定家、有馬温泉にて湯治。~16日。

未明に京を出づる。日の出の後、赤江に於て船に乗る。日没後、神崎に着く。(『明月記』)

閏7月8日

・天曙に神崎を出で、午の時揚山の宿に着く。(『明月記』)

閏7月14日

・湯、すでに七日に満つ。堪えざるにより、毎日一度浴す。(『明月記』)

閏7月15日

・未明に山を出て、午の時、神崎に於て船に乗り、江口に着く。食事終り、出でて船に乗り、夜半ばかりに、今津の宿に着く。(『明月記』)

閏7月16日

・天明、船に乗り、巳の時、大渡に着く。騎馬し、鳥羽に於て車に乗り、午始、冷泉に帰る。(『明月記』)

閏7月19日

・牧の方事件(時政らによる新将軍擁立の陰謀)起り、実朝、義時邸に入り、御家人参集。時政と後妻枚方、娘婿平賀朝雅の将軍擁立を図り失敗。時政(出家)落飾、翌20日伊豆国北条に下向。

〔顛末〕

牧の方が平賀朝雅を将軍に立て、時政が実朝抹殺を考えているとの噂が流れる。

政子は、長沼宗政・結城朝光、三浦義村・胤義らを派遣して実朝を奪い取り、義時邸に迎え入れる。時政邸に詰めた御家人も義時有利と判断、義時邸に入って、実朝警固の任に就く。

同日午前2時ごろ、時政が落飾。多くの御家人が離反。時政は、権力基盤喪失を座視するよりほかなかった。

『鎌倉年代記裏書』は、「時政の結構露顕の間、実朝、義時の館に逃げ籠もる。よって義時ならびに二位家(政子)の計らいとして、時政を伊豆国修禅寺に押し籠む」とあり、頼家同様の処置がとられたことを記している。

「牧の御方奸謀を廻らす。朝雅を以て関東の将軍と為し、当将軍家(時に遠州亭に御座す)を謀り奉るべきの由その聞こえ有り。仍って尼御台所、長沼の五郎宗政・結城の七郎朝光・三浦兵衛の尉義村・同九郎胤義・天野の六郎政景等を遣わし、羽林を迎え奉らる。即ち相州亭に入御するの間、遠州召し聚めらるる所の勇士、悉く以て彼の所に参入し、将軍家を守護し奉る。同日丑の刻、遠州俄に以て落餝せしめ給う(年六十八)。同時に出家するの輩勝計うべからず。」(「吾妻鏡」19日条)。

閏7月20日

・定家、嵯峨に滞在。~22日。

閏7月20日

・時政、実子の北条政子・義時姉弟により、伊豆国北条に追放。義時が第2代執権となる。(北条氏内部での時政対政子・義時の対立。時政後妻・牧氏の陰謀で畠山重忠を討ち、更に、実朝殺害を画策するが失敗。時政、失脚。)

「執権」就任;執権=政所別当とすると疑義がある。義時の政所別当就任は承元3年7月~1月の間と推測される。

承元3(1209)年4月10日、実朝は従三位に叙せられ、それまでの略式政所下文は、正式な政所下文に変わったが、7月28日に発給された下文には別当義時の名は見えない。しかし、同年12月、豊前国の宇佐宮に下された関東御教書は義時単独の名で発給され、12月11日に発給された政所下文には、別当の最上位に義時の名が記載されている。したがって、承元3年7月から12月のあいだに、義時は政所別当に就任したことになる。以後、建保3年まで、この状態が継続する。

先に比企氏、今回平賀・畠山氏など武蔵の主だった者が滅び、義時の弟・時房が武蔵守に就任。北条氏の武蔵完全支配。

「辰の刻、遠州禅室伊豆北條郡に下向し給う。今日相州執権の事を奉らしめ給うと。今日前の大膳大夫屬入道・籐九郎右衛門の尉等、相州の御亭に参会し評議を経られ、使者を京都に発せらる。これ右衛門権の佐朝雅を誅すべきの由、在京御家人等に仰せらるるに依ってなり。」(「吾妻鏡」20日条)。

「時政わかき妻をもうけ、この妻は大舎人允宗親と云ける者のむすめなり。せうととて大岡判官時親とて五位の尉になりてありき。その宗親、頼盛入道がもとに多年つかいて、駿河の国の大岡の牧と云所をしらせけり。むすめの嫡女には朝雅とて源氏にて有けるは惟義が弟にや。頼朝が猶子ときこゆる。この朝雅をば、京へのぼせて院に参らせて御笠懸の折も参りなんどしてつかはせけり。さて関東にて又実朝をうちころして、この朝雅を大将軍にせんと云ことをしたくする由を聞て、母の尼君(政子)さはぎて、三浦の義村と云をよびて、かかる事聞に一定なり。これたすけよ。いかがせんずるとありければ、義村よき謀の者にて具して義時が家にをきて、何ともなくてわざと郎等をもよをしあつめさせて、いくさ立て将軍の仰なりとて、この祖父の時政が鎌倉にあるをよび出して、もとの伊豆国へやりてけり。」(「愚管抄」)。

「時政の結構露顕するの間、実朝義時が館に逃れ籠もる。仍って義時並びに二位家の計らいとして、時政を伊豆の国修善寺に押し籠む。」(「北條九代記」)。

閏7月23日

・参院。ついで慈円の許に参ず。見参の後に、良経の許に参じて退下。(『明月記』)

閏7月24日

・院より召しあり、馳せ参ず。通具いう、新古今、俊恵以下の作者の歌を書き出すべしと。これより先、神泉苑に御幸あり。よって又これを抜きて、たちまちに出す。夜深く帰りおわしますの後、進覧して退出す。(『明月記』)

閏7月25日

・良経の許に参ず。仰せにいう、新古今今になお出さるべき歌多しと。よって書き出す。午の時許りに御供して中御門の造作所に参ず。小時ありて院に参ず。神泉苑に御幸終りて、退下す。(『明月記』)

閏7月26日

・幕府、在京武士に平賀朝雅の討伐を命じる。8月2日、京都で殺害。

閏7月26日

・平賀朝雅の乱で京中騒動。良経若君を宜秋門院に避難させる。

「時政嫡男相模守義時、時政ニ背ク、将軍実朝卜母子同心シ、継母ノ党ヲ滅スト云々。」(『明月記』同日条)。

この日の記述は詳細を極める。

「京における武士の動き、朝雅謀反の聞え、鎌倉の情勢、京中畏怖、若君土御門天皇の在り様、朝雅の家宅への放火、七条の辺りで障子翠簾、家の雑具などをもって逃げ惑う人々の見聞、それに良経が、武士が戦場に行ってしまうと御所には人ツ子一人いなくなり、諸門に錠をおろさなければならなくなり、これは困る、という談話までを記している。そうして奇怪なのは、金持(カナモチ)という武士が朝雅の首を持って来ると、後鳥羽院がじかにこれを見物したり、「持チ向ヒテ松ノ枝ニ之ヲ懸ク」ーいったい後鳥羽院は何のためにそんなものを見物したりするのかーという疑問を起させるほどまで記事は精細である」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

閏7月29日

「河野の四郎通信勲功他に異なるに依って、伊豫の国の御家人三十二人守護の沙汰を止め、通信が沙汰と為す。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく



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