2023年9月17日日曜日

〈100年前の世界066〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑱ 〈1100の証言;世田谷区〉 「2日(夜)夕方、警告が回ってきた。横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約200名のものが襲来しつつあると(もちろんデマ)。〔略〕村の若い衆や亭主たちは朝鮮人のことで神経を極度に尖らせている。これはちょうどわが軍閥の盲動に似ている。もどかしい、いまわしいことどもだ。三軒茶屋では3人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。 〔略。3日〕もうそこの辻、ここの角で、不逞朝鮮人、不逞日本人が発見され、突き殺されているという。〔略〕自動車隊の畑で朝鮮人がかたまって、火を燃やしているという情報が伝わると、ここの男衆金ちゃんも、他の同士といっしょに竹槍をひっさげて立ち向かって行った。おお無知なる者よ。」(高群逸枝「火の国の女の日記」)   

 

燃える帝国劇場(奥)。手前は2階がつぶれた東京会館

〈100年前の世界065〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑰ 〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近、本所被服廠跡辺〉 「殺されたのは朝鮮人ばかりではなく、奄美・琉球・鹿児島の人もいた。自分も捕まった。〔寺島〕警察署の前、寄席の原っぱに切られた死体がゴロゴロしていた〔玉ノ井から日本刀をもった人がきた〕。蓮華寺に葬ったという話を聞いたこともある。軍隊は9月2日あたりから来て、国府台野戦重砲に朝鮮人を連れていった。連れていかれたのはまだいい方だった。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑱

〈1100の証言;世田谷区〉

高群逸枝〔女性史家〕

2日(夜)夕方、警告が回ってきた。横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約200名のものが襲来しつつあると(もちろんデマ)。〔略〕村の若い衆や亭主たちは朝鮮人のことで神経を極度に尖らせている。これはちょうどわが軍閥の盲動に似ている。もどかしい、いまわしいことどもだ。三軒茶屋では3人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。

〔略。3日〕もうそこの辻、ここの角で、不逞朝鮮人、不逞日本人が発見され、突き殺されているという。〔略〕自動車隊の畑で朝鮮人がかたまって、火を燃やしているという情報が伝わると、ここの男衆金ちゃんも、他の同士といっしょに竹槍をひっさげて立ち向かって行った。おお無知なる者よ。

(「火の国の女の日記」高群逸枝『高群逸枝全集第10巻』理論社、1965年)


中島健蔵〔フランス文学者〕

〔2日、駒沢で〕まだ「不逞鮮人」さわざは、家の近所でははじまっていなかった。しかし、夕方になると、悪夢が追いかけて来たように半鐘が鳴り、「爆弾を持った不逞鮮人が隊を組んで、多摩川の二子の方面から街道つたいに襲撃して来る」という報知が、大声で伝えられた。〔略〕やがて世田谷の方から、1台の軍用トラックがゆっくりと動いてきた。本物の軍隊の出動である。そのトラックをかこむようにして、着剣した兵士が、重々しく走ってくる。これでもう疑う余地がなくなってしまった。

〔略。自警団員に朝鮮軍にいたことのある東京憲兵隊の憲兵下士官がいて〕 いたるところで群衆が朝鮮人を捕らえていじめている。いじめるどころか、なぐり殺そうとする。自分は朝鮮にいてよく知っているが、みなが「不逞鮮人」ではない。あんまりかわいそうだから割りこんで朝鮮語で事情を聞こうとすると、血迷った群衆は、「鮮人だ!」「軍人に化けている」と自分にまで襲いかかってきた。殺気を感じて、「東京憲兵隊の制服を知らんか!」とどなりつけ、人々がひるむすきを見て、命からがら逃げ出したという。

〔略。駒沢で〕 3日のひるまには、三軒茶屋で、歯医者だったと聞いたが、みなの見ている前で、その男が一人の朝鮮人をピストルで射殺した、といううわさもとんでいた。

(「いまわしい序曲 - 関東大震災」中島健藏『昭和時代』岩波書店、1957年)


仲西他七〔実業家〕

〔2日、駒沢で〕続いて忌わしい鮮人騒ぎが起りました。午後5時半頃、抜刀せる鮮人200〜300名、玉川沿岸にて同地住民と戦闘中との状報に始まり、更に大橋にも100名内外の鮮人と住民と戦争が起ったと伝えられ、或は爆弾を投じて帝都を焼き尽すとか、或は井戸に毒薬を投ずるとか言う如き、妖言百出の有様でありました。

〔略〕しかし午後11時過ぎ頃には、玉川にも大橋にも集団的鮮人のなきことを確かめられ、その後は次第に恐怖的動揺も薄らぎ、むしろ内地人が鮮人と間違えられて引かるるやら、たちの悪い邦人が民衆の襲撃を受くるなどの滑稽が所々に演ぜらるることになりました。

(高橋太七編『大正癸亥大震火災の思ひ出』私家版、1925年)


世田谷警察署

9月2日午後4時30分頃、三軒茶屋巡査派出所に急訴するものあり曰く「不逞鮮人約200〜300名神奈川県溝の口方面を焼き払いて既に玉川村二子の渡を越えたり」と、松本署長はこれを聞くと共に秋本・五十嵐両警部補をして巡査十数名を率いて自動車を駆りて同方面に赴かしめしが、その途上の光景たる異様の壮士が兇器棍棒を携帯して三々五々玉川方面に向いて走るあり、又警鐘を乱打する等殺気天地に充満し、既にして玉川原に到れば住民の混乱甚しといえども、遂に鮮人の隻影を見ず、これを高津分署に質すもまた要領を得ず、署長即ち部下に命じて各方面の内偵に従事せしめ、ようやくその流言蜚語に過ぎざるを知りたりしが、而も一般民衆は容易にこれを信ぜず、婦女子の如きは難を兵営に避くるに至れり。

而して自警団の武装せる警戒はかくの如くにして起り、鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時に於て既に120名に及べり。翌3日警視庁の命令に基きて戎・兇器の携帯を禁止し、かつ鮮人の保護に従いしが、4日に至りて鮮人三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直にこれを調査すれば犯人は鮮人にあらずして家僕が主家の物置に放火せるなり。

疑心暗鬼を生じ、衆庶その堵に安んぜざりし事それかくの如し、これに於て本署は鮮人の保護、流言の防止、自警団の取締に関して爾来最カを注ぎ、鮮人に対しては目黒競馬場を収容所としてここに保護すると共に、注意人物は軍隊に托して習志野に移し、引取人あるものはこれを放還せるのみならず当時多数鮮人の居住せる奥澤・等々力・瀬田・碑文谷・上野等には巡査を派遣して警戒の任に当らしめ、尋て又警視庁の命令に基きその就職をも斡旋せり。

始め目黒競馬場を鮮人の収容所と為すや、町民のこれに反対して極力その移転を迫りしが、署員の懇篤なる説諭に依りて漸次其誤解を一掃せり。〔略〕而して流言は叙上の外「横浜の大火は其放火に原因せり、不逞鮮人数100名東京に襲来せり、鮮人等井水に毒薬を投ずるものあり」と言えるが如き又は東京に於ける震火災を誇張せる説話等種々行われたりし。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


『国民新聞』(1923年10月21日)

9月2日午後5時40分府下世田谷太子堂付近にて鮮人朴某(28)を銃殺した犯人太子堂25写真業小林隆三(27)に令状執行収監す。

『東京日日新聞』(1923年10月21日)

「鳥山の惨行」

9月2日午後8時頃北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向って疾走する1台の貨物自動車があった。折柄同村へ世田谷方面から暴徒来襲すと伝えたので同村青年団在郷軍人団消防隊は手に手に竹槍、棍棒、鳶口、刀などをかつぎ出して村の要所々々を厳重に警戒した。

この自動車も忽ち警戒団の取調べを受けたが車内には米俵、土工用具等と共に内地人1名に伴われた鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原土工親分二階堂友次郎方に止宿して労働に従事していた鮮人で、この日京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼がありそれに赴く途中であった。

鮮人と見るや警戒団の約20名ばかりは自動車を取巻き2、3押問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩れるように手にする兇器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ怯むと見るや手足を縛して路傍の空地へ投げ出してかえりみるものもなかった。

時経てこれを知った駐在巡査は府中署へ急報し、本署から係官急行して被害者に手当を加えると共に一方加害者の取調べに着手したが、被害者の1名は3日朝遂に絶命した。なお2日夜警戒団の刃を遁れて一時姿をくらました2名の鮮人中、1名は3日再びその付近に現われ軽傷を受けて捕われ、他の1名は調布町の警戒団のために同日これまた捕えられた。被害者は3日府中署に収容されたが、同署の行為に対し当時村民等には激昂するものさえあり「敵に味方する警察官はやっつけろ」などの声さえ聞いた。 


『国民新聞』(1923年11月10〜12日)

「鮮人18名刺殺犯人12名起訴さる府下千歳村の青年団員」

9月3日夜、府下豊多摩郡千歳村に起こった鮮人18名刺殺事件の嫌疑者として〔略〕取調を受けていた同村、青年団員並木総三(51)・福原和太郎(43)・並木波次郎・下山惣五郎(29)・宮崎龍助(50)・下山武市(24)・小泉春三郎(24)・駒沢金次郎(23)・下田久治(23)・下山馬次郎(00)・下山友吉(24)・志村幸三郎(50)の12名は8日いずれも殺人罪で起訴され〔略〕。


つづく


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