2025年5月6日火曜日

大杉栄とその時代年表(486) 1904(明治37)年2月10日~12日 日露戦争は満州と朝鮮をめぐって勃発したが、それは今や東アジアにおけるヘゲモニーをめぐる争いになった。そしてこの戦争は、専制ロシアの世界的地位をめぐる問題にまで拡大し、最後には、全世界の政治的均衡を変えるにいたるだろう。  その最初の結果は、ロシア専制の倒壊であろう。」(パルヴス「資本主義と戦争」)

 

若き日のパルヴス

大杉栄とその時代年表(485) 1904(明治37)年2月8日~9日 「彼の中に同居する異常性と正常性とはたえず綱引きを続けながら、それを文字化するときには異常を感じさせない表現を可能にするのである。菅や狩野ら親友は彼の病む心を感じることがあっても、彼がそれを露わに示すのは、鏡子や筆子ら妻子に対してだけだった。」(十川信介『夏目漱石』) より続く

1904(明治37)年

2月10日

ロシア水雷敷設艦「エニセイ」、旅順湾で味方の浮遊機雷に接触。96人死亡。

13日、巡洋艦「ボヤーリン」も同じく味方の機雷に触雷、沈没。

2月10日

対露開戦詔勅、対露宣戦布告

祝賀色にいろどられる東京。

「市中は戸毎に国旗をかかげ、花瓦斯を点じ、朝より午、午よりも夜に入りて賑ひぬ」

慶応義塾、商船学校、富国生命会社などは総出の提灯行列をおこない、二重橋前、海軍省前を中心にねり歩いた。

「多きは二、三千人、少きも九十人、百人一隊となりて歩く者引きもきらず……何れも帝国万歳を歓呼して東西南北に入違ひ行違ふ其の勇ましさ云はん方なく、至る所に灯火の光、旗の影、人の声、実に二月十日の闇き夜を昼にしたり」(「東京日日新聞」)。

日比谷から桜田門に至る道は市内電車も通行困難になり、「帝国海事大勝利を祝して臨時大売出し美景呈上」のビラをまく商店、あるいは行列市民をあてこんで街頭に「ほおずき提灯」を売る露店も出現した。

2月10日

黒木為禎大将の第1軍編成

2月10日

戦時または事変の際の陸軍軍服の件公布。濃紺絨製、将校以下の夏衣袴は茶褐色。

2月10日

この日、陸軍省は「従軍新聞記者心得」を通達。

従軍を希望する新聞記者は履歴書に社主の身元保証書を添えて出願し、従軍中は軍の命令に従うこととされる。また、従軍記者は1年以上新聞社に勤務した実績のある者に限られた。外国人の場合は、自国の公使もしくは領事を通して外務省に出願することとし、通訳1名の随行を許したが、その費用一切は自己負担とした。

2月10日

布施辰治、小石川初音町に「布施辰治法律事務所」開設。

7月31日、大きな負債を残して解散。

2月10日

岡倉天心(41)、横浜港から日本郵船伊予丸で出航、ボストン美術館の招きに応じ、門弟の横山大観(35)・菱田春草を伴いアメリカに向かう。日露戦争勃発により最後の船便。世論工作のためシアトル経由ロンドンに向かう元内相末松謙澄(伊藤博文女婿)が同乗。見送りの伊藤博文が船客一同を上甲板に集め、この船が無事にシアトルに着けるかどうか分からないが、倒れるまで国の為に尽くそうと演説。38年3月26日帰国。

4月、岡倉天心はボストン美術館の中国日本美術部顧問に就任。この滞米期間中に『日本の覚醒』を執筆し、11月にアメリカで出版。

岡倉天心は明治36年に『東洋の理想』をロンドンで刊行している。「アジアはひとつ」という言葉ではじまるこの本は、東アジアには欧米列強諸国の近代文明に伍して決して引けを取らない豊かな文化、歴史の深みがあるとした上で、その精華がもっとも純粋かつ濃密に現れているのが日本文化だとした。

2月10日

栗野慎一郎駐露公使、公使館員及び留学生を率いて引き上げ。

2月10日


パルヴス「資本主義と戦争」『イスクラ』1904年2月10日号

「日露戦争は、来たるべき大事件の血ぬられた黎明である。望むと望まざるとにかかわらず、戦争は避けられない運命のように着々と確実に迫っていた。それは、資本主義的搾取やロシア専制政治の植民地的掠奪と強盗政策によって準備された。それは、アジアにおけるよりもむしろヨーロッパで準備され、アメリカで準備されたものである。すなわち、絶え間なく自らを貪り食らい、自己の存在原理たる競争によって破壊をもたらし、政治的敵意を燃え立たせる資本主義的生産の要求、前資本主義文化を破壊しつつ進行する地方の社会的ウクラードの破壊、イギリス帝国主義とドイツ軍国主義、プロシアにおける地主の利害とキューバ諸島のプランテーション農場主の利害、アメリカの侵略主義とロシア国庫の債務、日本の発展とトルコの後進性、報復心とフランス・ブルジョアジーとプロレタリアートとの闘争――資本主義的発展の経済的・政治的諸矛盾から発しているこれらすべてと、さらにそれ以外のことどもが戦争を準備し、これらすべてがからみ合い、もつれ合い、結びつきあって、血まみれの終局を求める血まみれの結節点になったのである。……

 日本とロシアとの戦争は、それでなくても辛うじて保っていたにすぎない資本主義諸国間の政治的結びつきを引き裂いた。資本主義世界の政治的均衡は破壊され、さらなる戦争なしには回復しそうにない。最も傷つけられたのはイギリスの利益である。もしロシアが日本に勝てば、中国は完全にロシア政府の支配下に落ちるだろう。東アジアにおけるイギリスの影響力は、完全にマヒするだろう。同様に、北京でその地位を強化したロシアは、中央アジアにおける攻撃的政策を放棄する根拠をまったく持たなくなるだろう。したがって、イギリスとの衝突は、ロシアの力が増大したためにイギリスにとってより不利になる時まで延期されるにすぎない。まさにそれゆえ、イギリスは今や侵略的政策をとり始め、チベットに軍隊を派遣し、日本を戦争に駆り立てているのである。同時に、膠州湾に拠点を築いたドイツは、自己のアジア支配を拡大したいという欲求に駆られている。極東における植民地政策を有しているという点では、アメリカ合衆国も同じである。大艦隊を現地に行き来させているオーストリア、イタリア、ベルギーも、中国が分割される際には、一切れでも掠めとろうと虎視眈眈と狙っている。フランスの植民地政策はこれまで、まったくついていなかった! フランスは、植民地において、工業国にとって利益を目に見えるほどあげることなしに何十億も使い果した。だが、中国で繰り広げられている植民地争奪戦に刺激されて、フランス・ブルジョアジーもまた、清王朝を犠牲にして自己の植民地政策を再び推進する気を起こしている。フランスは、エジプトをめぐって、さらには、ロシアとの同盟、および、それにより生じた変化が原因で、イギリスと衝突していたが、その古い衝突が復讐の念とともにこの中国で再燃している。同時に、ロシアが東方の戦争で身動きがとれなくなることで、バルカン半島における民族紛争に終止符を打つ可能性がより広がり、このことは、バルカンに介入する真剣な準備をオーストリアにさせることになるだろう。こうして、どの国も他の国に遅れをとるまいと必死になり、建物の全体がみしみしと音をたてて倒壊しつつあるのである。

 日露戦争は満州と朝鮮をめぐって勃発したが、それは今や東アジアにおけるヘゲモニーをめぐる争いになった。そしてこの戦争は、専制ロシアの世界的地位をめぐる問題にまで拡大し、最後には、全世界の政治的均衡を変えるにいたるだろう。

 その最初の結果は、ロシア専制の倒壊であろう。」


2月11日

午後10時30分、西津軽沖、日本船舶「奈古浦丸」(米4千俵・乗客4人)、ロシア軍艦(ウラジオストクの太平洋艦隊巡洋艦「ロシア」以下4隻)に撃沈。救命艇に乗り移る際に負傷した船員2名が海に落ちて死亡。乗客37人・乗客4人は収容されウラジオに連行(翌日、ドイツ船に乗せられ、22日長崎帰着)。同じ水域で、「全勝丸」も砲撃をうけるが、撃沈を免れ、11日夜、渡島(おしま)半島西端の白神岬に近い福島港に辿りつく。

2月11日

大本営、宮中に設置。2月12日公布。

2月11日

ローゼン露公使、東京を引き上げ、12日横浜を発つ。

2月11日

ニコライ主教、日露開戦に際しギリシャ正教会全信徒に日本国民として忠義の本分を尽くすことを論示。

2月11日

京都市長ら、京都奉公義会結成。出征兵士遺家族救護、恤兵活動を目的とした団体が各地におこる。

2月11日

志賀直哉(21)、娘義太夫に凝り16日迄の6日間で5回通う。中等科の終り頃から歌舞伎に凝り、毎日曜日は新宿角筈の内村鑑三宅で講話を聞き、終ると木挽町の歌舞伎座へ人力車を走らせる。

2月11日

(漱石)

「二月十一日(木)、晴。紀元節。寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)

2月12日

清国、日露戦争に対し局外中立宣言。

12月12日

第1軍第12師団の一部が仁川に上陸

12月12日

韓国、ロシア公使パブロフ一行、韓国から退去。高宗ら親露派衝撃。

12月12日

陸軍の軍服、従来の紺色からカーキ色に改められる。

12月12日

米公使、清国における交戦地域を局限し清国の中立保全を尊重すべき事を提議。


つづく


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