2025年11月26日水曜日

大杉栄とその時代年表(690) 1906(明治39)年11月6日~11日 「読売新聞」主筆の竹越与三郎(三叉)、漱石に対して漱石門下生で中央公論主筆の滝田樗陰を通じて、読売の専属作家にならないか、と申し出る。読売の文壇を担当して1日に1欄か1欄半書き、月給は60円という条件。漱石は、報酬が少ないことと地位が不安定なことを理由にして、この申し出を断る。

 

竹越与三郎

大杉栄とその時代年表(689) 1906(明治39)年11月1日~5日 「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へとある文句は露佯(いつわ)りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙がしいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辞が這入って居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。〔中略〕気の毒で堪らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。」 (『猫』中篇自序) より続く

1906(明治39)年

11月6日

清国、1905年に外国視察団が派遣された結果として、中央官制改革。

民選による議政府設置の上諭を下し、新官制施行。立憲政府設立の可能性もあったが、省庁は満州族の統制下に置かれる。6部を11部に改変、満漢の区別なく各部に長官任命。全国に36師団の新軍設置。

11月6日

セオドア・ルーズベルト,アルトン・パーカーを破って再選される.

11月7日

名古屋瓦斯株式会社創立。

11月7日

啄木(20)妻石川節子、出産のため盛岡の実家に行く。

19日~22日、小説「葬列」57枚脱稿(『明星』12月号掲載)。

23日~12月3日、内田秋皎依頼の盛岡中学校校友会雑誌に掲載予定の評論「林中書」(学校教育を批判)脱稿(掲載は翌年3月)。   

11月7日

(漱石)

「十一月七日(水)、斎藤阿具宛手紙に、「僕のうちに先日赤痢が出来た故僕奮發して水道をつけたり。代金十八圓此水道は君に寄附仕るから塀を直してくれ玉へ三方とも四方ともあやしいどこからでも這入れる」と書く。

十一月八日(木)、晴。木曜会。松根豊次郎(東洋城)・坂本四方太・野間真綱・皆川正禧・中川芳太郎・森田草平・小宮豊隆ら十三、四人集り賑う。(高浜虚子は散髪屋で皮膚病うつり、顔がほれたので欠席する)

十一月九日(金)、雨。長い手紙を四、五本番く。(発表されているのは、高浜虚子・小宮豊隆・斎藤阿具に宛てたもの三本である)

十一月十日(土)、高浜虚子の許に行く積りになっていたが、失念する。(十一日(日)になって気付く)

十一月十日(土)から十四日(水)の間、松根東洋城から蒲鉾と唐饅頭貰う。」(荒正人、前掲書)

11月8日

11月8日の木曜会には13,4人が集まったが、小宮豊隆は出なかった。彼は夏目と二人でなら話をすることはできたが、外の人々の中で中に入ってはものを言えないし、隅っこに一晩黙っているのもいやなので自分のために別の面会日を作ってくれという嘆願の手紙を書いて出した。それにまた夏目は返事を書き、この内気な青年を勇気づけようとした。

「(略)君は一人でだまってゐる。だまってゐても、しやべつても同じ事だが、心に窮屈な所があってはつまらない。平気にならなければいけない。うちへ来る人は皆恐ろしい人ぢやない。君の方でだまつてるから口を利かないのた。二三度顔を合せればすぐ話が出来る。実は君の様なのが昨日の客中にもあるのだが夫が構はずに話しをしてゐたから面白い。君も話せば面白くなるのである。中川といふ人はやさしい人であるが三重吉君は御仰ぐの通中々猛烈な所がある。あの両人は親友である。色の白い顔は東洋城といふ俳句家である。(略)こんな気儘を吐くのも木曜日に君を話させ様と思ふからさ。(略)」

夏目はそのようにして青年たちの一人一人に気を使い、気特を楽にさせ、親しくつき合ぅように仕向けて、手紙を書いた。そしてこの頃から鈴木三重吉は森田や小宮とも交際するようになった。(日本文壇史より)


11月9日

清国、督辦(ベン)政務処を会議政務処に改める。

11月9日

東亜煙草株式会社設立。

11月9日

セオドア・ルーズベルト大統領、パナマ運河とプエルトリコを視察。現職のアメリカ大統領としては初めての外国訪問。

11月10日

この日発行の「新紀元」終刊号に木下尚江「慚謝の辞」。

「『新紀元』は両頭の蛇なりき。彼は基督教なるものと社会主義なるものを二個対等の異物と理解し、此の画個を一束して強て諧調の音を出ださんと欲したりき。『新紀元』の胃嚢に於て基督教と社会主義とは何れも消化せられざりき。『新紀元』は一個の偽善者なりき。彼は同嚢に二人の主君に奉事せんことを欲したる二心の佞臣なりき。彼は同時に二人の情夫を操縦せんことを企てたる多淫の娼婦なりき。」

赤羽厳穴、逸見斧吉、小野有香等の社員は、これを読んで慣激し、呆れかえり、失望した。石川三四郎は、こういう見境のない爆発が木下の性格だからと言ってなだめた。

11月10日

応援の過熱により早慶戦中止(1925年まで復活せず)。

11月10日

歌舞伎座、文芸協会演芸部第1回大会。「ヴェニスの商人」など。

11月10日

藤井実、東京帝国大学の運動会で、棒高跳びで3メートル90センチを飛ぶ。世界記録として外国に公表。

11月11日

(漱石)

「十一月十一日(日)、晴。早朝から『文學諭』の原稿を校閲する。

服部書店主人服部国太郎、『吾輩ハ猫デアル』(中篇)の見本を持参する。高浜虚子からハム届く。

十一月十二日(月)、晴。生田長江来たので、数日前に『家庭と文學』について書くように依頼され書くことにしていると話をする。(『家庭文芸』(明治四十年二月一日発行)に発表。)

十一月十五日(木)、曇。木曜会。『読売新聞』の竹越与三郎(三叉)、瀧田哲太郎(樗陰)を通じて『読売新聞』の「文壇」という欄を担当し、隔日に一欄または一欄半の原稿を書いて欲しいと云う。野村伝四の原稿を高浜虚子に送る。寺田寅彦・高浜虚子・森田草平・深田康算・鈴木三重吉(推定)・中川芳太郎(推定)・野上豊一郎・篠原温亭ら集り、議論をする。雑誌記者も来たが、直ちに帰る。『読売新聞』からの話を考えているうちに眠る。


(*生田)明治三十九年九月、東京帝国大学に入学し、良い指導者が得られないので、坪内逍遥に適当な指導者を紹介して欲しいと依頼したところ、坪内逍遥は漱石を紹介する。(木村毅) それ以後、出入りしていたのである。」(荒正人、前掲書)

「読売新聞」主筆の竹越与三郎(三叉)、漱石に対して漱石門下生で中央公論主筆の滝田樗陰を通じて、読売の専属作家にならないか、と申し出る。読売の文壇を担当して1日に1欄か1欄半書き、月給は60円という条件。漱石は、報酬が少ないことと地位が不安定なことを理由にして、この申し出を断る。

〈日本文壇史より〉

■新聞各社からのアプローチ

この年7月、新聞「日本」から記者が来て、時々短文を「日本」に発表する気はないかと言った。「日本」は子規が長年席を置いたところであり、漱石とは間接に縁のある新聞であった。

漱石はそれには応じなかったが、それを機会に、新聞から定期的に入る収入をあてにして学校勤務を減らせるのではないかと考えはじめた

またこの頃、「報知新聞」「国民新聞」からも同様の依頼があり、「読売新聞」がそれに続いた。

■読売新聞と竹越与三郎(三叉)

「読売新聞」は明治20年代の主筆中井錦城のあと足立荒人が長い間主筆をしていた。足立は、山口県岩国に生れ、岩国中学~広島師範学校を卒業し上京、苦学した。明治29年、「読売」に入って論説委員となった。足立は社主本野盛亨に認められ、本野の子一郎が外交官をしていた縁によって、ロシアやベルギーに留学し、明治34年に帰国してから、主筆として「読売」の中心人物になった。中井錦城のような創意はなかったが、努力家で、十数年主筆を勤めた。

「読売」は、明治10年代に3万部という日本一の発行部数を持っていたが、その後、「朝日」「国民」「時事」等の諸新聞が発展しつつあった明治中期には、一時その発行部数は1万5千部に減少した。日露戦争後、3万部台に戻ったものの、大新聞の標準部数が10万部となったこの当時、「読売」の経営は楽でなかった。

この年(明治39年)1月、日露戦争の前後4年7ヵ月続いた桂太郎内閣が終り、西園寺公望(58歳)が新内閣を組織した。このとき本野一郎は駐露公使としてぺテルブルグにいた。西園寺と本野一郎は親しい伸であったので、「読売」は西園寺内閣に近づき、政局についての情報を入手する便宜が出来た。政友会代議士の三叉竹越与三郎(42歳)は、長い間西園寺公望の身辺にあった言論人であり、歴史についての学識で知られていたが、この時西園寺内閣の非公式の代弁者のような地位にあった。従って、「読売」主筆の足立北鴎(38歳)は、しばしば竹越に逢って、種々の政治情報を入手することとなった。


つづく

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