2013年8月8日木曜日

長元8年(1035) イベリア半島、レオン王国内にナバラ、カスティーリャ、アラゴン3王国成立。

北の丸公園の夏
*
長元8年(1035)
・左右京職(さゆうきようしき)と夫役
官衙町以外の左右京は、律令制下では、戸籍・計帳によって京に本貫(本籍地)をもつ者は「京戸」と把握され、調徭(調と徭役)などは戸を単位として課されていた。

しかし、10世紀後半になると戸は実質的な意味を失い、調徭などの課役体制も変化していった。
律令制下と同様に左右京職が夫役を徴発していたが、戸単位ではなく、官衙町と同じように「在家」(家の存在に注目した課役の賦課単位)が単位になっていたと考えられる。

例えば、造八省所が小安殿の瓦を葺く夫500人を左右京職が徴発している例がみえる(『小右記』長元4年8月27日条)。
また、「又右京の在家巳に少し。仍(より)て人夫も又乏し」(『春記』長暦4年2月8日条)とあって、在家と夫役との関係が示唆されている。

11世紀になると、左右京職以外に検非違使庁からも在家に対して夜行役(やぎようやく)が課されるようになる。
本来律令制下では京内の夜間巡回は衛府の担当であり、10世紀までは衛府が中心となって行われていた。
しかし、11世紀になると、京内の夜間巡回は検非違使によって行われるようになり、それに伴い、在家に実際に夜間巡回を行う夜行役を課すようになった。

早い例としては、「榎本吉武愁状(うれいじよう)」がある。
この文書は、「九条家本延喜式巻四裏文書」の一部で、内舎人(うどねり)清原某の従者榎本吉武が「夜行之役」を勤仕している時に、検非違使庁に捕禁されたので、主人の清原氏がその釈放を求めたものである。
この文書には年紀がないが、「九条家本延喜式巻四裏文書」には他にも検非違使庁宛の文書が収められており、長元8年(1035)の年紀をもつ文書があり、この清原氏の愁状も同年代のものと考えられる。

こうして、京中の住民には、左右京職からと検非違使庁からの両方から夫役が課されることになった。
また、夫役が課される単位となった在家については、建築史的にみると、11世紀に街路に面して立ち並ぶ「町屋」が積極的に造られるようになることと対応している。
庶民の住む「町屋」の登場に基づいて、在家に夫役が課されるようになった。
*
・トルコ系セルジューク族、ガズニ朝からホラーサーンを獲得。
*
・イベリア半島、レオン王国内にナバラ、カスティーリャ、アラゴン3王国成立。
ナヴァラ王(兼アラゴン伯)ヒメーノ朝サンチョ・ガルセス3世、没(サンチョ・ガルシア、サンチョ大王、位1000~1035)。

息子3人が分割相続、ナバル・カスティーリャ、アラゴンの3王国成立(アラゴンとカスティーリャは伯より王国となる)。
①ナバーラ王(パンプローナ王)、長男ガルシーア・サンチェス3世(位1035~1054)。

②カスティーリャ王、フェルナンド1世(位1035~1065、レオン王1037~1065)。
1037年妻の兄レオン王ベルムード3世(位1028~1037)を敗死させ、レオン王即位。
1054年兄ガルーシア没後、ラ・リオーハをナバーラ王国より併合。

③アラゴン王、ラミーロ1世(庶子、位1035~1063)。
南フランスのピゴール伯娘と結婚、娘をトゥールーズ伯とプロヴァンス伯に嫁がせる。ピレネー山脈中部諸渓谷を割り当てられる(強力なイスラム・サラゴーサ王国により山脈に釘付けにされた小国)。
ラミーロ1世、1052年ベナバーレ、1054年ロアーレの両城を奪取。
1063年グラウスの町を攻撃(サラゴーサはイスラムであるが、フェルナンド1世の貢納国(家臣)。ラミーロ1世、フェルナンド1世派遣の息子サンチョと将軍ロドリード・ディーアスにより敗死)。
*
・バルセローナ伯ベレンゲール・ラモン1世、没(位1018~1035)。ラモン・ベレンゲール1世、即位(位1035~1076)。
*
・アフリカ、マウレタニアのサハラ砂漠辺境遊牧民ラムトゥーナ族(ベルベル人)、アブドゥッラー・イブン・ヤーシーンという説教師を迎える。
イスラム宗教集団リバート(構成員はムラビトゥーンと呼ばれる)を作り、大勢力となる。
セネガル海岸~タホ川に至る広大な国家を建設。(ムラービト朝イスラム国家)
*
・フランス、ラン司教アーダルベロ、没。ラン司教アーダルベロ従兄弟がカンブレー司教ジェラール。
*
・イタリア、この頃、オートヴィル家タンクレッド、南イタリアに着く。
アヴェルサ伯ライヌルフスに仕える長男鉄腕ギョーム、次男ドゥロゴ、3男オンフロワが同行(ライヌルフスはカープア候パンドゥルフス4世と同盟関係)。

タンクレッド(タンクレドゥス);
ノルマンディ・クータンス近郊の村オートヴィル・ラ・ギシャールの小領主。
最初の妻ムリエラとの間に息子5人。鉄腕ウィレルムス(アプーリア伯1042~1046)。ドロゴ(アプーリア伯1046~1051)。フンフレドゥス(アプーリア伯1051~1057)。
2番目の妻フレセンダとの間に息子7人。ロベルトゥス・グイスカルドゥス(ロベール・ギスカール、アプーリア伯・公1057~1085)。ロゲリウス1世(ロジェール1世、シチリア大伯1072~1101)。
*
・この頃、カープア候パンドゥルフス4世、再度ベネヴェントに対し軍事力を行使、失敗。
1033年、兄弟のベネヴェント候ランドゥルフス5世没後、候位継承に介入し、失敗
*
・この頃、サレルノ候グアイマリウス世、カープア候パンドゥルフス4世に離反。
サレルノ候中心に反パンドゥルフス4世の同盟結成。
サレルノ候は、アヴェルサ伯ライヌルフスをカープア候より切り離すことに成功(南イタリアの政治の重心、カープア候よりサレルノ候に移動)。

サレルノ候グアイマリウス5世:
カープア候パンドゥルフス4世甥(パンドゥルフス4世の姉妹ガイテルグリマとサレルノ候グアイマリウス4世(1027年没)との息子)、サレルノ候位1027~1052、アマルフィ公・ソレント公位1039~1042。カープア候パンドゥルフス4世位1026~1038、1047~1049。
*
・この頃、東ローマ皇帝ミカエル4世(位1034~1041)、シチリア内紛を利用してシチリア島をイスラム教徒より奪還するため、大規模の軍隊を南イタリアに派遣。
サレルノ候グアイマリウス5世、東ローマ軍支援のノルマン人部隊約300を派遣(鉄腕ウィレルムス、ドロゴ、フンフレドゥスなど)。
ランゴバルド貴族アルドゥイヌスも自軍を率い東ローマ帝国軍に参加。
*
・ペトルス・ダミアニ(29)、フォンテ・アヴェラのカマルドリ会修道院入会(1006~1072)。
*
・ミラノ市民、ミラノ大司教アリベルト(65、970頃~1045、ミラノ大司教1018~1045)に叛乱。
ミラノとその周辺の陪臣、ミラノ大司教に味方した皇帝直臣の軍隊に勝利。
陪臣(諸侯の家臣)がモッタと呼ばれる同盟を結成。
皇帝コンラート2世、陪臣達を支持しイタリア遠征(1037~1038)、王政にとって脅威的存在の大封建諸侯に対し、大諸侯の家臣達と一種の同盟を結ぼうとする。
*
・コンラート2世、ケルンテン大公アーダルベルトを罷免。従兄弟コンラート(若)をケルンテン大公に任命。
国王選挙以来の一門内部の対立を解消。
王国南部に強大な国王支配ブロックを構築。
国王による直接的支配強化。
ザーリア王家の年来の宿敵の力をそぐ。
*
*

0 件のコメント: