北の丸公園 2014-08-05
*承暦4年(1080)
・皇帝ハインリヒ4世、司教会議により教皇グレゴリウス7世を廃位、ラヴェンナ司教ギベルトゥスをクレメンス3世として教皇位につける。
*
・ピサ、コンソレ制度開始。
司教の権威と封建貴族勢力の没落。
コンソレ(統領):
11世紀末、イタリア各地で生まれたコムーネ初期の行政職。次第に司教・封建領主に代って都市国家の最高役職になる。
*
・頃、アマルフィ商人マウロ(1071年没)、エルサレム聖ヨハネ病院創立。
*
・この頃、聖書及びミサ典書の俗語訳を禁止。
民衆が聖書を研究する危険性が高まったため。
聖書研究禁止により、虚栄に耽り蓄財に余念のない教会にとって知られたくないことが聖書に書かれていると思われるようになる。
12世紀後半、ワルド派聖書には秘蹟も煉獄も書かれていないと気づく。
16世紀初頭、ルターなどの宗教改革者にとって重要なことは、聖書に教皇がキリスト教会首位権を有するという主張の決定的根拠がないこと。
中世の教皇権が全キリスト教社会の信仰の統一を保つことに失敗したのは、聖書を読むようになった反教皇主義者が主張する教会の役割をカトリック教会が果たせなかったことによる。
*
・ウイリアム征服王5女アデラ、ブロワ・シャルトル伯エティエンヌと結婚。
*
・フランス、ランス大司教マナセ、教会本来の使命を安直に忘れ、教皇特使により廃位。
*
・この頃、フランス、「ローランの歌」が作られる。
*
・南フランス、「トゥルバデゥール」が活動。
*
・この頃、ノルマンディ、グランモン修道院創設。
*
・カブラの戦い。
エル・シッド、ガルシーア・オルドーニェス伯とグラナーダ王に勝利。
アルフォンソ6世がグラナーダ王の許に派遣したガルシーア・オルドーニェス伯、セビーリャ王国侵入、カブラ占領。
セビリャ王ムータミドの許に派遣されていたエル・シッド、ムータミドに加勢、グラナーダ勢を破る。
エル・シッド、ガルシーア・オルドーニェスを捕虜として3日間拘束、髭をむしり取って侮辱
(エル・シッドは以後「エル・シッド・カンペアドール(闘将、勝利者)」と呼ばれる)。
この時の経緯が1081年エル・シッドがアルフォンソ6世により追放される伏線となる。
*
・小アジア(アナトリア)南東部、小アルメニア王国成立。
*
1月27日
・フラルヒハイムの戦い。
ハインリヒ4世、決定的勝利。ドイツを掌中に収めザクセン軍は当面の争いから除外。
*
2月22日
・東大寺、若狭の封戸米50石分の代物の仮納返抄を出す。
*
3月15日
・源俊房、管絃の人である若狭守源政長らを招く(「水左記」)。
*
4月
・カタルーニャ王アルフォンソ6世(レオン王1065~1072、カスティーリャ王1072~1109)、追放されたカーディルをトレード王に復位させる
(カーディルへの支援条件:アルフォンソ6世がバレンシアを攻略したらバレンシアとトレードを交換)。
バダホース王ムタワッキルをトレードより追放。
アルフォンソ6世、ソリータ、カナーレス、カントゥリアスの諸城を占領、トレード王国を実質支配。
トレードの反アルフォンソ6世派、サラゴーサ王ムクタディルとセビーリャ王ムータミドを説得、トレード奪還。
親アルフォンソ6世派、アルフォンソ6世にトレード包囲を依頼。
アルフォンソ6世、1081~1085年(4年間)トレード包囲後、1085年5月25日トレード入城。
*
5月7日
・公会議。教皇グレゴリウス7世、皇帝ハインリヒ4世を再度廃位・破門。
*
5月28日
・四条宮(故後冷泉天皇の皇后)の園城寺御堂の絵・仏具荘厳などの割当てを決める。
行香具は若狭守源政長(「水左記」)。
*
5月31日
・ハインリヒ4世、マインツにドイツ高位聖職者を召集、教皇グレゴリウス7世廃位。ロンバルディアの司教たちも直ちに応じる。
*
6月10日
・御体御卜で「祟をなす」との占いの出た若狭比古神・常神、越前気比神・劔神・志比前神・足羽神・枚井手神などに使いを派遣、中祓を科すと神祇官が奏上。
*
6月10日
・カープア候ヨルダヌス1世、教皇グレゴリウス7世に忠誠誓約。
*
6月18日
・大雨。19日に洪水。
*
6月25日
・ハインリヒ4世、ブルクセン(ブリクセン、ブレンナー峠南)に司教団・世俗諸侯を召集。
ラヴェンナ大司教グイベルトゥス(ヴィーベルト)を対立教皇クレメンス3世として選出。
教会分裂(パーダーボルン、ミンデン、コンスタンツ、アウクスブルク等の司教座で対立司教が出現)。
*
6月29日
・ロベール・ギスカール、教皇グレゴリウス7世に忠誠誓約。
サレルノ・アマルフィ・フェルモ辺境伯領以外の領地に関して教皇の封臣たることを誓約。
ロベール・ギスカール、1078年以来の反乱を鎮圧、南イタリアで圧倒的な力を有する君主となり、南イタリアに平和と秩序をもたらす。
一方、ドイツの内乱を平定したハインリヒ4世のイタリア遠征も近く、ロベールと教皇との和平が実現。
モンテ・カッシーノ修道院長デシデリウスの仲介。チェプラーノでグレゴリウス7世と会見。
ロベールは教皇領侵犯をしない、教皇に力を貸すと約束。
形の上ではロベールの臣従だが、自ら歩み寄らねばならないグレゴリウス7世の敗北。
*
7月半ば
・ロベール・ギスカール、東ローマ攻撃を計画。
教皇グレゴリウス7世も遠征計画を支持、アプーリア・カラーブリアの司教にロベール・ギスカールへの協力を要請。
南イタリアをほぼ手中に収めたロベール・ギスカールの次の狙いはビザンツ帝国本拠ギリシア。
侵略の口実は・・・。
1074年末、ビザンツ皇帝ミカエル7世はロベールを支援者とすべくロベール娘を嫁に希望し、ロベール娘ヘレナはコンスタンティノープルに向かう。
1078年ミカエル7世失脚、ニケフォロス3世即位。前皇帝とヘレナは修道院に幽閉。
1080年2月ロベールは娘の扱いを改めるようにコンスタンティノープルに使者を派遣。しかし、帝国内乱により、軍司令出身アレクシオス1世が皇帝に即位、ヘレナの丁重な扱いを約束。しかし、ロベールにとって使者派遣は侵攻の口実を得るため。既に遠征準備を整えてたロベールは、留守中のアプーリア統治を息子ロジェール=ボルサ、カラブリア・シチリア統治を弟ロジェールに委ねて、1081年5月艦隊を出発させる。
*
閏8月
・宋人孫忠(史料によリ孫吉・孫吉忠とも)、越前敦賀津に来航。以後40年余、宋人が頻繁に若狭・越前に来航するようになる。
閏8月26日、宋国使の黄逢が牒状を携え大宰府に来航、間もなく敦賀に移り明州牒を越前に進め、その写しが京進され、これに関し陣定(「水左記」)。
黄逢は宋商孫忠の部下で、同じ26日、越前国が孫忠の存問記を京進(「帥記」)しており、孫忠自身も越前に来航とわかる。
牒状には「大宋国明州牒す、日本国大宰府」とあり(「異国牒状記」)、また、5ヶ月余り前に筑紫守・肥後守が派遣され、孫忠が存問を受けている(「帥記」4月21日条)ことから、九州地方に来航し、何らかの理由で黄逢らと共に博多津から敦賀津に向かったと推測できる。
30日、黄逢を大宰府に追遣し、明州牒は越前から都に進めるべき旨の宣旨が下る(「水左記」)。
9月10日越前より明州牒が届き天皇に奏聞(牒の内容は、前使の孫忠の帰国が遅いことについて)。
19日陣定、明州牒および「唐人」孫忠らの「愁状」について定める。
以後、越前に関して孫忠ら宋人の記事がなくなるので、大宰府へ向かうようにとの宣旨に従ったものと思われ、返牒は大宰府より明州に送られる(「異国牒状記」)。
大宰府が外交の窓口との外交方針に沿って、このような措置がとられる。
孫忠の初見は、成尋の弟子が宋の皇帝から贈られた金泥法華経などを携えて、孫忠の船で明州を出航したという記事(「参天台五台山記」延久5年(1073)6月12日条)。
後、「宋史」に、元豊元年(承暦2年)日本僧仲回が答信物と大宰府牒を携え、「海商」孫忠の船で明州に到着と伝える記事がある。
永保2年(1082)「孫忠」の帰国に際して返牒を遣わすあり(「百練抄」永保2年11月21日条)、この頃帰国。
また、応徳2年(1085)10月29日孫忠の来航について議されており(「朝野群載」)、孫忠は少なくとも4回来航となる。
敦賀津の賑わい。
北陸道方面の租税は、古代以来敦賀で陸揚げされ琵琶湖経由で中央に運ばれる。
9世紀後半、北陸道各地で、都から派遣された権門の使者が徒党を組んで、調庸官米を中央に運送する駄馬や運船を路頭・津辺で強制的に雇い上げ政治問題化。国家の必要より自家の利害を優先させた院宮王臣家の動き。このなかで、敦賀津は官港としての伝統、権門勢家の私的運送路の要津として賑わう。
*
・この日、関白師実の子家忠が大納言源俊房宅を訪問した際、これに従った前駈6人の中に平正衡の名が見える。前駈6人は師実より遣わされたものであった(『水左記』)。正衡は師実家の侍であり、彼に扈従する一種の儀杖兵であった。
他の伊勢平氏一族も、正衡同様しかるべき貴人を選び、侍として仕えていたと思われる。
伊勢平氏の平正度の子たちは、公には諸衛官人・検非違使など、私的には顕貴な貴族の侍、世間的には一種の傭兵隊長として京を舞台に多年活動、この間、従五位下に叙位されて、受領に任命される順を待つ期間、受鎖の「五位以上の郎等」として地方に下って国務を担当し、巡年になれば京にまいもどり受領の賞にあずかるような存在であった。
平正度:
『尊卑分脈』には斎宮助・諸陵介・常陸介・出羽守・越前守を歴任し、帯刀長に任ぜられたと見える。越前守が最終官、娘が藤原行成の子甲斐守永親に嫁し興福寺三会講師行賢らを生んだ、治暦3年(1067)には故人となっていた。
長男維盛:
検非違使は長久4年(1043)に停任と還任を経験し、駿河守は康平5年(1062)に終っている。
次男貞季:
『尊卑分脈』は検非違使・駿河守と記す。寛治4年(1090)の記録に「前駿河守貞季」と見える(『伊勢公卿勅使部類記』寛治4年11月13日条)。
三男季衡:
木工助・大夫尉・検非違使・下総守を歴任し、正五位上とある。うち左衛門尉・検非違使・正五位は、『水左記』承保4年(1077)の記事によって裏付けられる。同記によると、彼は承保4年正月7日正五位に叙位されている。また『尊卑分脈』に、永保元年(1081)60歳で没したと記す。諸記録でもその活動は、承暦3年(1079)8月29日が最後であるので(『水左記』)、事実と考えてよい。
四男貞衡:
帯刀長・左衛門尉・掃部助とあるが、存在を裏づける史料がない。
五男正衡:
検非違使・出羽守とある。康和元年(1099)正月23日の除目で使巡により出羽守となっている(『本朝世紀』)。
*
閏8月14日
・この年、高麗から国王文宗の病気を治すために日本に医師の派遣を要請してきた。
高麗は日本に好意的であり、刀伊入寇後、日本人捕虜270人を送り返してきたし、今回は日本に名医がいるときいて派遣を要請してきた。高麗は商人王則貞に託して、高麗国礼賓省牒と綿・綾・麝香(じゃこう)などの信物を日本にもたらした。
2月5日付で大宰府から太政官へ処分を請う解文が出され、4月19日の陣定で議論になった。
閏8月5日の陣定では、派遣に賛成・反対の意見がいり乱れ、派遣するなら第一人者の丹波雅忠は除くべきだなどと定め申された。
つづいて14日の陣定でも、派遣する医師は一人か二人か、王則貞に付して遣わすか別使を副えるか、返牒を発給するか、が議題とされ、遣わさなければ義がないことになるので派遣すべきだが、当然雅忠が候補だが、彼はその道の棟梁なので憚りがある、しかしほかの人を遣わして治療効果がなかったら本朝の恥だというような議論が続いた。
雅忠の意向をきくと、当人は行きたがらず、惟宗(これむね)俊通がよいのではと言う。
そうこうするうちに、関白師実の夢に、父頼通が「差し遣わすべからず」と告げた。派遣はとり止めとなり、大江匡房に返牒を作らせた。
結局面目を重んじて派遣しなかったのであるが、派遣に賛成する開明的公卿も多かった。少なくとも高麗が敵国だという意識はまったくない。丹波雅忠は「日本扁鵲(へんじやく)」と称えられた名医で、その名声は高麗に伝わっていたのかもしれない。その程度の国際交流はあった。
*
秋
・ザクセン、ザール河畔メルセブルクで皇帝軍と諸侯軍が対決、ルードルフは戦死。
教皇は再びハインリヒを破門し、ルドルフを新帝と認めるという書状を持った使者が到着したのはそのあと。ハインリヒはこの勝利に勢いづき、皇帝派司教を集め、逆にグレゴリウス7世の廃位を決議。
翌年、ハインリヒは対立教皇クレメンス3世を擁し、ローマに侵攻。
グレゴリウス7世は聖天使城に4年籠城し頑強に抵抗。
*
9月12日
・左衛門権佐藤原行家、大宋国牒状を書き送る。これは宋使黄逢が越前より官に提出したもの。
*
10月2日
・3月に医師派遣を求めてきた高麗に対して、太宰府に断りの返書を出させる(病気が治せなければ我が国の恥との貴族たちの判断により)。
以後高麗との国交が絶える。
*
10月9日
・東大寺、若狭の封戸米167石分の代物の仮納返抄を出す。
*
10月30日
・越前国司源高実、良満法師が宋客に濫行したことを報告(「水左記」承暦4年10月30日条)。
*
11月16日
・東大寺、若狭の封戸米の4年分の惣返抄を出す。
*
12月
・ロゲリウス1世、シチリア島トロイーナ司教区創設。最初の司教ロベルトゥスを任命。
*
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿