2014年11月8日土曜日

昭和18年(1943)4月12日~19日 カチンの森事件発覚 山本五十六大将(59)戦死 アッツ島守備隊(2,576、山崎保代大佐)上陸 ワルシャワ・ゲットー蜂起

江戸城(皇居)東御苑 2014-11-08
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昭和18年(1943)
4月12日
・3月25日の「南東方面作戦陸海軍中央協定」に応じ、この日、第8方面軍命令。
当面の任務を補給用道路と飛行場の建設に置き、航空部隊の作戦も輸送援護を第一とする。
唯一の攻勢的要素は、山本連合艦隊司令長官の強い意向で、海軍が単独で行なうソロモン方面の航空撃滅戦が、計画に入る。
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4月13日
・ラバウルに出張中の山本五十六、日程の最後にショートランド島方面の基地を日帰りで激励巡視する計画を立てる。第2艦隊長官小沢治三郎は反対。
ショートランドにいた第11航空戦隊司令官城島高次少将は、この1日の電報を見て、出発前日17日、ラバウルに戻り、山本に直接巡視中止を求めるが、山本はこの忠告も聞かず。

夕刻、同方面の根拠地隊、各航空戦隊、守備隊に宛て、「GF長官四月十八日左記二依り『パラレ』『ショートランド』『プイン』ヲ実視セラル。〇六〇〇中攻(戦闘機六機ヲ附ス)ニテ『ラバウル』発、〇八〇〇『パラレ』着、直チニ駆潜艇ニテ〇八四〇『ショートランド』着・・・、一四〇〇中攻ニテ『プイン』発、一五四〇『ラバウル』者。・・・天候不良ノ際ハ一日延期」と電報が出される。

第8方面軍司令官今村均は2月10日、海軍中攻にてブインに赴いた際、着陸直前にアメリカの戦闘機30機編隊と遭遇したことがある。
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4月13日
・カチン事件発覚
ベルリン放送、ドイツ国防軍が占領しているソ連領スモレンスク近郊カチンの森で1939年9月ソ連軍の捕虜となり、1940年初夏に秘密警察に殺害されたと見られる数千のポーランド将校の遺体発見と報道。
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4月15日
・日本基督教団、聖旨奉戴基督教大会を開催
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4月15日
・バー・モウ・ビルマ行政府長官ら帰国。
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4月16日
・海軍戦備考査部会議、兵学校73、74期の教育年限短縮議論。海軍省教育局長矢野志加三少将・兵学校長井上成美中将の反対により延期、11月実施される。

開戦後、海軍省内に大本営海軍戦備考査部が置かれ、次官沢本頼雄中将・軍令部次長伊藤整一以下、省部の各局長部長クラスで構成、海軍省先任副官柳沢蔵之助大佐が幹事を勤める。
昭和18年1月末迄に8回会議、戦備の現状、今後の見通し、その対策を検討。
会議を開く度に状況は深刻化し、特に先行き初級将校の絶対数不足が大きな問題。
軍令部の要望に従えば、75期以降兵学校生徒を毎期3千、予備学生6千程度採用し、その7割を飛行科へ廻して士官搭乗責として急速養成する一方、江田島在校中の73、74期は2年半乃至2年で卒業させて前線へ送り出さないと、昭和19年度から先の対米戦術が間に合わないことになる。

教育局長矢野志加三少将は、戦備考査部会議が強硬派に押されて、こういう性急な結論を容認するのを警戒。量の不足を補うため質を犠牲にし、粗製濫造の兵科将校を養成すれば、将来に必ず禍根を残すという意見であるが、これを支持する人は少ない。
15日、矢野は江田島へ直通電話をかけ、井上に苦衷を訴え、井上からも沢本次官宛に反対意見を述べて貰う。
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4月16日
・政府、「緊急物価対策要綱」決定、価格調整補助金制度・価格報奨制度採用を意図
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4月16日
・渋沢栄一「世渡りの道」、後醍醐天皇誹謗により発禁
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4月17日
・ハルゼー大将、ニミッツ太平洋方面総司令官通じフランク・ノックス海軍長官より山本長官爆殺命令受ける
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4月17日
・ドイツ軍、クバニ橋頭堡でノヴォロシースクに対する地上および航空攻勢
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4月18日
・午前7時34分、山本五十六大将(59)戦死。ブイン上空で連合艦隊指令長官山本五十六大将戦死・宇垣参謀長負傷。他に2番機の主操縦員林2等兵曹は軽傷、林少将は重傷。生存はこの3人のみ。
20日、連合艦隊参謀渡辺安次中佐らの捜索隊、遺体をブインに収容。
22日、宇垣参謀長が遺骨を護ってラバウル発、23日、トラック帰着。

「い号作戦」終了後、山本長官は前線兵士の激励・視察の為、ブーゲンビル島ブイン基地およびショートランド島へ向かう途中、ブインの直前に、P38戦闘機16機の待ち伏せにあう。
705航空隊所属の一式陸攻の1番機に山本、高田軍医長、航空甲参謀樋端久利雄、副官福崎昇4人が、2番機に参謀長宇垣、北村主計長(少将)、友野気象長、通信参謀今中薫、航空乙参謀室井捨治5人。
零戦6機が3機づつの編隊で護衛。1番機はジャングルへ、2番機はモイラー岬沖合の海中に落ちる。

山本長官機の墜落現場は、モイラ岬西約10マイル、約5度の角度でジャングルに突込む。
付近のアコ村に駐屯の第6師団歩兵第23連隊道路設営隊長浜砂盈栄少尉は、火を吹いて落ちる友軍機に驚き、現地人を案内に、18日夕、現場に駆けつける。
突入時の滑空でジヤングルは長さ400m・幅30m抉り取られ、2つに折れた飛行機の横に死体が散乱。
浜砂少尉の報告。
「軍刀ヲ左手ニテ握リ、右手ヲソレニ副エ、機体卜略々並行ニ頭部ヲ北ニ向ケ、左側ヲ下ニシタ姿勢デ居ラレマシタ。御遺骸ノ下ニハ座席〝クッションヲ敷キ、少シモ焼ケテハ居ラレマセソデシタガ、左胸部ニ敵弾ガ当ッタモノノ様デ血ガ流レテ居リマシタ。他ノ方ノ遺骸ハ全部腐敗シテ、殆ド全身ニ蛆ガ湧イテ居リマシタガ、御遺骸ノミハ僅ニ口ト鼻ノ附近ニ蛆ガ湧イテイル程度デアリマシタ」

(山本五十六年譜)
明治17年4月4日新潟県長岡市、高野貞吉6男に生まれる。父56歳なるをもって五十六と命名。
明治29年、長岡市坂ノ上尋常高等小学校高等科卒、長岡中学入学。2年生の時、自己の才能・体格を考え、勉学第一から運動第一に転進、小学校以来の首席を譲る。
明治34年、岡中きってのスポーツマンと注目。海軍兵学校に2番で合格。2番塩沢幸一、2番高野五十六、3番堀悌吉、4番福島貫三。この級から4人の大将を輩出。体格検査の結果、体重12貫300、身長5尺2寸5分。
明治37年、兵学校卒業、海軍少尉候補生。
明治38年5月27日、日本海海戦で左手指2本を失い、右下腿後部に負傷。
明治42年、大尉、練習船「宗谷」分隊長心得。この時の「宗谷」艦長鈴木貫太郎大佐、分隊長付古賀峯一中尉、練習生(候補生)井上成美(のち大将)、小沢治三郎、草鹿任一(のち中将)ら。この間、海軍大学校、砲術学校学生経て、大正4年、少佐。
大正5年、山本に改姓。
大正7年、三橋礼子と結婚。
大正8年、米国駐在武官、中佐、ハーバード大学に学び、勉強ぶりと勝負好きで有名。
大正10年、海車大学校で軍政学を担当、この頃から航空軍備の将来性に着眼。
大正12年、大佐。
大正13年、霞ヶ浦航空隊副長兼教顔として、初めて「航空」に関係。
大正14年、大使館付武官として3度目の滞米。
昭和3年、空母「赤城」艦長としてパイロット養成に当たる。
昭和4年、少将、ロンドン軍縮会議全権随員次席。
昭和5年、海軍航空本部技術部長。
昭和6年、第1航空戦隊司令官。航空機工業指導育成。
昭和9年、第2次ロンドン軍縮会議予備交渉日本代表。中将。
昭和10年、海軍航空本部長。
昭和11年、永野海相、米内海相の下で次官。三国同盟反対を強硬に唱え、身辺を脅かされる。
昭和14年、連合艦隊司令長官。
昭和15年、大将。
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4月18日
・北海守備隊第2地区隊、アッツ島上陸。守備隊(2,576)長山崎保代大佐、着任。
アッツ、キスカの戦略的価値には疑問があり、北辺守備の重要性はあるものの、作戦には不便。
キスカの地質は飛行場建設が不可能で、アッツには適地があるものの、資材輸送が思うにまかせず、参謀本部も、アッツ占領後3ヶ月で引き揚げ、キスカだけの保持に決める。
しかし、42年3月、北千島要塞歩兵2個中隊をアッツに送って、アッツ、キスカの両島保持に方針変更し、アッツ北のセミチ島も占領。
43年2月、アッツ、キスカの確保と「今後情勢の推移に応ずる為、カムチャツカ及び樺太方面に於ける対ソ作戦準備」を基本とする北太平洋方面作戦指導要綱を決定、札幌に樋口季一郎中将の北方軍司令部を置く。アッツ、キスカ防衛は峯木十一郎少将の北海守備隊の担当となり、キスカを北海守備第1地区隊、アッツを同第2地区隊とした。
アッツ守備隊は、北海道第7師団から分派された歩兵・砲兵・高射砲各1個大隊基幹の2576人(うち海軍基地隊129)。隊長山崎保代大佐は、島の北部ホルツ湾とチチャゴフ湾地区に防備の重点を置き、南部マサッカル湾後方の山地に陣地を求め、海岸は警備にとどめる。弾薬は十分だが、食塩は間もなく欠乏始め、1日4合に減食。
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4月19日
・大本営第1(作戦)部長綾部橘樹少将、ビルマに出向き、第15軍牟田口司令官にインパール作戦不同意伝える。
この月下旬、第15軍兵団長会同。第18師団長田中新一中将、小畑参謀総長依頼によりインド侵攻の無理を進言、拒否。
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4月19日
・ワルシャワ・ゲットー蜂起開始
ワルシャワ・ゲットーの全ユダヤ人の移送開始。対抗してユダヤ人の反ナチ武装蜂起始まる(~5月19日)。
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