2026年2月28日土曜日

〈高市首相「男系男子限定が適切」と皇位継承で強調〉 → 世論調査では、女性天皇を認めることに賛成69%、反対7%。 / 高市総理の発言が波紋 「男系天皇」って何? 専門家「勇み足では」「“私の信念”と押し切ってしまうと…」「鷹派の小林政調会長と示し合わせたかもしれない」(ABEMA TIMES) / 皇位継承問題で高市首相が誤認か「有識者報告も男系男子限定が適切」(毎日) ← 「間違っていた」と認めさせるべきだ! / 高市首相、皇位継承「男系男子限定が適切」 木原官房長官、養子縁組念頭と釈明(時事) ← 高市のホンネだが、有識者会議報告書への理解は高市のハヤトチリ、ミス、我田引水! 官房長官は火消しにタイヘン! / 皇位継承めぐり高市総理 “男系男子が適切”との認識示す(TBS) / 皇位継承に関しては「有識者会議の報告書でも男系男子に限ることが適切とされている。私としてもこの報告を尊重している」と表明。「皇位が女系で継承されたことは一度もない」と強調した。一方で「過去の女天皇を否定してしまうことは不敬に当たる」とも語った。(時事) ← 「不敬」! / 

 

27日の衆議院予算委員会で、高市首相は政府有識者会議の報告書を基に「皇統に属する男系の男子に限るのが適切」との認識を示しました。
一方、読売新聞の2025年調査では女性天皇容認が69%に上り、Xでは保守派の「女性天皇と女系は別」との声や愛子内親王即位を望む意見が交錯しています。
現在、継承者は秋篠宮文仁親王と悠仁親王の2人のみで、安定策として旧宮家復帰などが議論されていますが、与野党の合意はなく、国民の総意反映が焦点です。

 




 

〈高市首相「私に恥をかかせるな」発言で日米投資合意に批判集中〉 〈パワハラの見本〉 〈高石内閣では閣僚は高市の下僕なのか?〉 →  関税交渉担う赤沢経産相に(テレ朝) / え〜、私がトランプ大統領と堂々と渡り合えるように働いてくるのが、赤澤大臣の仕事だと考えております 「私に恥をかかせるな」と言ったよね というふうに申し渡しましたので、彼は一生懸命この間からラトニックさんと交渉をしています

 

高市首相とトランプ米大統領の合意で、日本は83兆円規模の投資を約束し関税回避を図ったが、米最高裁の関税違法判断で状況が変わった。
政府はAIやエネルギー分野の5.5兆円プロジェクトを進め、JBIC保証限度を8倍に拡大する予算案を提出。
一方、国会発言が「パワハラ」「国民負担増」との批判を呼び、石破前政権の粘り強い交渉を称賛する声も上がっている。
政府は日米双方の利益を強調し、3月の首脳会談を前に履行を継続する方針だ。

 

〈金権自民党;高市早苗、3万円のギフト券を315人に配布、高市「何が悪いの」〉 → 高市首相のカタログギフトは「保身」「税金の私物化」 上脇博之氏(毎日) / 高市首相「何が悪いの」取材応じず カタログギフト配布、自民ベテラン「目をつむってやれよ」 「人気にびびってる」野党尻込み(西日本新聞) / 3万円のギフト「一般的ではない」 高市首相の金銭感覚、専門家は(朝日) / 高市首相事務所が数万円相当のカタログギフト配布 自民衆院議員に当選祝い名目で(産経) / のし袋に「お祝い 高市早苗」と記載しているが、贈ったのは「奈良県第二選挙区支部」だと / 違法高額献金追及の時は、それは高市個人にではなく「支部」にだと ← 下手なマネロンに見えてくる / しかも、支部は、政党交付金(税金)が入った自民党本部から寄付を受けている(税金と無関係とは言いきれない) / なぜ「奈良県第二選挙区支部」が自民党当選議員全員に贈るのか? / 共産・山添拓議員、高市首相カタログギフト問題で批判 政党支部への献金は個人のもの?「弁明したのはお忘れか」 / 前政権反省生かされず 配布趣旨、首相の説明焦点(共同);「事務所に勝手に届けられていた。これは爆弾になる」 「石破前首相の際にあれだけ問題になりながら、同じようなことを繰り返す神経が理解できない」 / 奈良県第二選挙区支部(高市早苗支部長)には自民党本部から毎年交付金が入っており収入(原資)の一部になっている / 石破はポケットマネー / 「古い金権体質そのまま」 / 石破を批判した人たち、今回は高市擁護に!    

 

 

先の衆院選で当選した自民党衆院議員315人に、奈良2区支部から総額約945万円相当のカタログギフトを送付。
首相は支部長として名前を表示したが、発注は支部名で法的に問題ないと説明し、政治資金収支報告書への記載を約束した。
政治資金規正法では支部から議員個人への寄付が認められており、専門家も厳密な違法性はないとする見方が多いが、国民感情を逆なでし、立憲民主党や市民団体から強い批判が上がっている。
一方、維新の吉村代表は合法と擁護し、橋下徹氏は永田町の慣習を指摘しつつ国民負担増の中で適切かを問うた。

 



 

大杉栄とその時代年表(767) 1908(明治41)年1月22日~29日 〈釧路;歓迎される啄木〉 29日付「釧路新聞」投書欄 「以前其新体詩にあこがれつつありし予此度啄木氏の入社を聞き懐しさに堪へず希くは近く結ばれむとする和歌会の為にも尽力の程を」

 

釧路新聞社

大杉栄とその時代年表(766) 1908(明治41)年1月17日~21日 金曜会屋上演説会事件。 堺利彦・大杉栄・坂本清馬・山川均・竹内善作・森岡栄治ら6人検束。 堺は『日本平民新聞』に、「僕等は只だ寧ろ軽率に一時の小憤を漏したるに過ぎぬ。実は窃に沈着なる同志の笑を恥ぢて居るのである」と書く。 より続く

1908(明治41)年

1月22日

東京実業組合連合会、臨時大会。増税反対決議

24日、連合会と同一歩調をとる、政府に同調する代議士は次期選挙で再選せぬこと、2月5日に全国実業組合連合大会開催、決定。

1月22日

(漱石)

「一月二十二日(水)、純一(推定)も口内炎、鏡も病気なので、看護婦二人雇う。二十一日(火)菅虎雄宛手紙に「時に僕例の胃病で一寸醫者に見てもらったら小便を試験して是は糖分があるといふコイツには参ったね。」と述べる。糖、二プロツェント出る。

一月二十三日(木)、木曜会。夜、木曜会に集った人達に、糖少し出ているので検査して貰おおうと話す。小宮豊隆も来る。市川文丸、雉千一羽と十和田湖の写真を持参する。豊年祭りに誘われたが辞退する。雉子を料理して食べる。坑夫のモデル荒井某は来月から四谷の大木戸でおでん屋をやるという。(「森巻吉日記」)

一月二十四日(金)、夜、室生新来る。森巻吉は、稲を習いに来る。」(荒正人、前掲書)

1月23日

衆議院、増税案に対する内閣不信任決議案を賛成168、反対177で否決

1月22日

外務省政務局長山座円次郎、桑港総領事小池張造(領事館が格上げされ初代総領事)に、不敬事件に関わる高橋作衛東大教授の行動について照会。高橋~山縣情報と外務省情報のソースが同一であることが判明(松原領事代理時代の領事館スパイ川崎巳三郎・巽鉄男からの情報)。

1月24日

商業会議所連合会会頭中野武営、農商務次官久米金弥に呼出され、連合会は商業会議所法に趣旨を逸脱し政治に介入している、運動は個人の資格でやれと連合会解散を仄めかす。中野はあくまで初志貫徹と回答。

1月25日

津田梅子、帰国。

1月25日

外務省、ハワイ移民の停止を移民会社に通告。

1月25日

高平小五郎駐米日本大使、前年12月31日の我覚書に対し補追提案(紳士協定第5、第6号)

1月26日

(漱石)

「一月二十六日 (日)森巻吉の父が設立した岐阜訓盲院の生徒たちが資金集めに演芸会(二月六日(木)・二月七日(金))を開催することになり、その切符四枚の売り捌きを頼んで来る。

一月二十八日(火)、渡辺和太郎に、訓育院の切符を依頼するo

一月二十九日(水)、『坑夫』脱稿する。森巻吉と青陽桜で夕食し、演芸館で落語をきく。家庭の不快をもらす。(「森巻吉日記」)

一月三十日(木)、午後、渋川柳次郎(玄耳)・寺田寅彦来る。市川文丸も文学に関する質問で来る。渋川柳次郎と市川文丸は先に帰る。夕食に雉飯を出す。夜、高浜虚子・坂本四方太・森田草平・小宮豊隆ら来る。最近の俳句について語り合う。荒井某も現れる。」(荒正人、前掲書)

1月26日

啄木、町内第一小学校で開かれた愛国婦人会釧路幹事部の新年互礼会に招待され、請われるままに、出席者40余名を前に「現代の婦人に就て」と題し、得意の婦人解放論をしゃべる。

この演説は好評を博しので、気をよくした彼は、これを「新時代の婦人」と改題し28日付の紙上に掲載。彼の名は町の婦人層にまで知られるようになる。

1月27日

京都商業会議所、帰洛した西村会頭の連合会活動報告を承認、

翌日、議員・実業組合員200を集め会頭の運動報告実施。

月末~2月初、各同業組合が商業会議所連合会支援・増税反対・政府支持代議士非再選を決議

1月27日

一木喜徳郎ら、東京都制案を貴族院に提出。不成立。

1月27日

墺エーレンタール外相、バルカンのサンジャク・ノヴィバザールを貫く鉄道敷設(ギリシャのサロニカまで)計画発表。モンテネグロと反墺のセルビア分断狙い。

1月28日

『東瀛珠光』(6巻、~1909年12月25日、審美書院)。

1月28日

大審院第一号法廷で電車賃値上げ反対運動の上告審公判。

1月28日

仏英関税条約、ワシントンにて調印。

1月29日

閣議、内相原敬、農相松岡康毅に商業会議所連合会の活動に対して、「相当の処置をなすべき事」を促す。

1月29日

この日付「釧路新聞」紙上投書欄「はがき集」

「以前其新体詩にあこがれつつありし予此度啄木氏の入社を聞き懐しさに堪へず希くは近く結ばれむとする和歌会の為にも尽力の程を」

1月29日

ブルガリア、マリノフ内閣成立。


つづく

2026年2月26日木曜日

正気か?高市早苗! → 高市総理「必要のない奨学金を借りるといったモラルハザードなどが起こる可能性」に「起こるわけないでしょ!」と痛烈ヤジ 奨学金返済減税めぐり(TBS) ← 生活保護受給者=「さもしいヤツら」の感じが抜けてないのがよく分かる / 高市、余りにも無知! 「実際に起こっているのは、「奨学金の返済苦」が原因の自殺者が2024年に23人。2023年は6人だったので3.8倍増(警察庁統計)。「奨学金ローン地獄」が命を奪っています。」     

 

ビル・ゲイツ氏、ロシア人女性2人との不倫認める エプスタイン元被告による犯罪への関与は否定(AFPBB) / ビル・ゲイツ氏、財団に謝罪「評判傷つけた」 エプスタイン問題巡り(日経)

大杉栄とその時代年表(766) 1908(明治41)年1月17日~21日 金曜会屋上演説会事件。 堺利彦・大杉栄・坂本清馬・山川均・竹内善作・森岡栄治ら6人検束。 堺は『日本平民新聞』に、「僕等は只だ寧ろ軽率に一時の小憤を漏したるに過ぎぬ。実は窃に沈着なる同志の笑を恥ぢて居るのである」と書く。

 

堺利彦

大杉栄とその時代年表(765) 1908(明治41)年1月4日~16日 「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

1月17日

金曜会屋上演説会事件。

堺利彦・山川均らの第20回金曜講演会例会、本所弓町平民書房で開催。解散命令、堺利彦・大杉栄・坂本清馬・山川均・竹内善作・森岡栄治ら6人検束

守田有秋は、「大杉君は(本郷)警察署に突進し、数名の巡査に捕へられつつ石階上に立ち、『諸君、政府は斯くの如く社会主義者を迫害し!』と怒号せし」(金曜講演会迫害記)と記す。

中国人留学生張継(中国革命同盟会「民報」主筆)、拘引されかかるが奪還され行方不明、まもなくフランスに現れる。

18日、6人1組の拘留室に入れられ、大杉の発案で「電信」という遊びをやる。

19日、6人とも警視庁に送られる。

20日、6人とも治安警察法違反で起訴され、警視庁から東京監獄に送られる。

2月10日、東京地裁判決。堺・山川・大杉が軽禁固1ヶ月15日(再犯加重)、竹内・森岡・坂本に同1ヶ月

堺は二度目の入獄となったこの屋上演説事件について、『大阪平民新聞』から改題した『日本平民新聞』に、「僕等は只だ寧ろ軽率に一時の小憤を漏したるに過ぎぬ。実は窃に沈着なる同志の笑を恥ぢて居るのである」と書いている。そして、この事件で尽力し、奔走してくれた守田有秋に対して、感謝と同時に詫びていた。

1月17日

新夕張炭鉱でガス爆発、死者91人。

1月18日

金子筑水(馬治)ら、早稲田哲学会を設立。

1月18日

片山潜、東海遊説途上、亀崎町で演説会。亀崎鉄工所職工の友愛義団有志主催(宮下太吉はリーダの1人)。友愛義団100余・一般350余参加。片山潜「労働者の責任」、宮下太吉「予は何故に社会主義者となりしや」など。

翌日、半田町で「衣浦新聞」主催演説会。片山・宮下演説。この片山遊説の際、宮下太吉は日頃疑問の日本の天皇制とその変革について質問

「片山さん、皇室を無くすことはできないのでしょうか」

「それは、議会で社会主義者が多数を取れば、憲法改正もできる。そのためには、何よりまず普通選挙の実現が第一だ」

宮下は、片山の合法主義的回答に不満。

2月1日、宮下は大阪の森近運平を訪問(2回目)、天皇制・忠君愛国思想の迷妄で共感。

1月19日

(漱石)

「一月十九日(日)、宮崎諶義宛薬薯に、手紙で申し越してきたことを承知したと伝え、宇和島名産の鯛の白浪の礼を書く。午後三時頃、留守中、寺田寅彦、印材一つと払子(ほつす)一つを土産品として持参する。五時頃、寺田寅彦再び釆たが、会えない。

一月二十日(月)、三女児病気になり、看護婦を雇う。」(荒正人、前掲書)


1月19日

啄木(23)、「釧路新聞社」入社のため小樽より単身釧路に向う。途中岩見沢に下車して、駅長官舎に山本千三郎姉夫妻を訪ね一泊する。

20日、岩見沢出発、途中旭川に下車して北海旭新聞社を訪問。駅前の宮越屋に投宿して白石社長と落ち合う。

1月19日

日本天文学会発足。4月、『天文月報』創刊。

1月20日

吉沢商店、目黒行人坂上に撮影所を建設。日本初の撮影所。

1月20日

(株)富国銀行開業。1907年11月21日設立、本店東京、資本金1千万円、頭取浜口吉右衛門、昭和銀行の前身の1つ。

1月20日

日本・カナダ間、日本人移民制限協定成立。

1月20日

大杉栄「非軍備主義運動」(『熊本評論』)

大杉栄「自由合意ー現社会の無政府的現象(二)欧州の鉄道」(クロポトキン)」(『日本平民新聞』)

1月21日

政府、増税諸法案(酒造税、砂糖消費税増徴、石油消費税新設)、議会(第24議会)提出。

1月21日

臨時商業会議所連合会、召集。~2月14日。増税反対・3悪税廃止を主張、「国防軍備の一面に資力の大部分を偏注して却て国本の培養国力の充実を計るの策を忽にする」財政方針を批判、5千万以上の歳計節減を要求。商業会議所は初めて財政の軍国主義を批判。全国的運動盛上げのため27日~2月7日まで休会とし、地方委員は帰郷。

商業会議所は増税・軍拡に賛成する財閥特権資本家の指導を離れて、一般商工業者を代表する立場に立つ。

第24議会では、島田三郎・大石正巳・大津淳一郎らが軍事費優先財政を批判

1月21日

啄木(23)、旭川を出発。夜9時30分、釧路に到着、釧路新聞社理事の佐藤国司の家に入る。


さいはての駅に下り立ち

雪あかり

さびしき町にあゆみ入りにき


22日、出社。月給25円。3両主任の約束であったが実際は編集長格。入社後まもなく1面に「釧路詞壇」を設け、詩歌の投稿を募集。自らも匿名で短歌を掲載。また政治評論「雲間寸観」を連載。その他婦人問題を論じた。

23日、釧路町洲崎町1丁目23番地の下宿屋閑サツ方の二階8畳間に居を定める。

小樽の妻節子、1月24、25日ごろ市内花園町畑14星川丑七方に移る。送金は不充分。

26日、愛国婦人会釧路幹部会で「現代の婦人に就て」講演。


釧路は、明治23年、特別輸出港の指定を受け、木材、硫黄、昆布等の輸出をするようになり、その後、明治32年8月4日、開港場として普通の貿易港に指定されると、木材積取の外国船が入港し、十勝原野の雑穀が積出された。また安田の春採炭鉱の竪抗が開かれ、富士製紙の工場が開設され、マッチの軸木工場が創業される等、町は活発な発展ぶりを示した。明治40年には、33年5月着工以来、建設工事中であった、釧路~函館間の鉄道が開通、難工事といわれた狩勝トンネルも竣工し、現在の浜釧路駅までの路線が開かれて、所謂「さいはての駅」となった。

啄木をこの土地に連れて来た小樽日報社長白石義郎は、当時48歳、もと福島県選出の代議士で、

かつては国事犯として河野広中等と共に獄につながれたこともあり、また『真理実行論』という自由主義の世界統一論を著したこともある人物。元北海道釧路支庁長で明治33年7月1日北海道に町村制が実施された際、初代釧路町長に就任、35年からほ釧路新聞社を経営、その後、釧路を地盤として道会議負に当選、明治37年町長を辞したが、北海道有数の政治家であった。

「釧路新聞」は、始め半紙2枚程のものを不定期に、或は日曜日毎に出していたが、町の発展や人口の増加につれて拡張した。啄木が着任した1週間ばかり前には赤煉瓦造りの新社屋4落成、新聞も四貢建の普通新聞になっていた。

白石社長は北海道における在野党の主領として道議会に重きをなしており、この年(明治41年)5月の衆議院総選挙には釧路十勝2国を地盤として出馬しょうとしていた。その選挙対策の一つとして「釧路新聞」の大拡張を計画し、新聞を6頁建編集にするため、啄木を特に赴任させた。

啄木は、出発当時の日記に「予は何となく小樽を去りたくない様な心地になった。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。」と認めていたが、釧路へ着いた翌日には、いかにも新開地らしい活気に満ちた町の様子や、澄み切った冬の空に、新しい瓦の色もくっきりと、正しい輪廓を描いて建つ新築の社屋に、憂鬱な心も次第にほぐれ、新生活に対する新たな期待と勇気とを抱かざるを得なかった。

2日後、彼は社の人々の世話で、新聞社に近い洲崎町1丁目22番地の関サツ方に移り、西洋窓のついた2階8畳敦の日本間に落着いた。下宿料は夜具料共月14円50銭で、釧路としては高い方であった。翌24日には社長の招宴で、啄木の歓迎会を兼ねた社務打合せが料亭喜望楼に開かれ、編集関係4名の他に理事の佐藤国司(南畝)が出席した。佐藤は当時33歳の少壮政客で千葉県人、かつては韓国の亡命者と結び、日韓の間を往来した志士型の人物で、よく光る眼と濃い口髭を持ち、政治演説を得意とした。啄木は彼を評して、日記に「一見して自分の好きな男だ」と書いている。


1月21日

ニューヨーク市、公共施設での女性喫煙違法とする市条例制定

1月21日

ポルトガル、共和主義者、軍事蜂起。28日 蜂起、失敗。戒厳令施行。


つづく

円安進み1ドル156円台後半に 背景には日銀の審議委員人事 金融緩和に積極的な「リフレ派」の2人を政府が提示で利上げ観測後退(TBS) / 日銀審議委員に浅田氏・佐藤氏 政府案、首相の緩和志向映す / 「完全に高市首相が決めた。日銀も財務省もリスト作成の段階から関与していない」 / 佐藤綾野氏による『責任ある積極財政を推進する議員連盟』 勉強会のスライド 「円安はメリット」「埋蔵金を使え」「国債発行はまだ可能」。 → 高市「円安ほくほく」に繋がるのか / 日本経済は好調持続、これ以上財政・金融吹かせばインフレ高進=黒田前日銀総裁(ロイター)    

2026年2月25日水曜日

〈金で世論誘導〉 〈防衛省のインフルエンサー接触計画、Xで再び批判集まる〉 → 防衛省、芸能人らインフルエンサー100人に接触計画 予算増狙い(朝日) / 防衛省「我々が選んだインフルエンサー100人に防衛費増額をアピールして貰って世論形成をする」(ツイ速) ← 〈憲法改正もこの手口で! 資金は潤沢ですから〉

 

2021年、防衛省は約100人のインフルエンサーらに安全保障の厳しさを説明し、防衛予算増額の理解を促す計画を立てていました。
当時の岸信夫防衛相は国民理解の必要性を認めましたが、省内では「予算増ありき」の懸念も。辻さんの投稿が4万いいね超えで話題を再燃させ、「ステマ規制違反」「洗脳計画」との批判が相次ぎつつ、5年前の話との指摘もあります。
防衛省は通常の説明活動と位置づけていますが、透明性の課題が浮き彫りになりました。

 

大杉栄とその時代年表(765) 1908(明治41)年1月4日~16日 「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。」(啄木日記)

 

1904年(明治37年)婚約時代の啄󠄁木と妻の節子

大杉栄とその時代年表(764) 1908(明治41)年1月1日~3日 「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(啄木日記)

1908(明治41)年

1月4日

啄木、誘われて西川光次郎等の社会主義演説会に行き、西川と名のり合う。帰りに、「社会主義は自分の思想の一部分だ」と桜庭保に話している。

そして日記に、

要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。・・・・・

1月4日

ムーレイ・ハフィド、フェズでモロッコのスルタンを宣言。

1月6日

(漱石)

「一月六日(月)、『読売新聞』に、「現代文人文章評論(二)」として、石黒鉄牛「露伴と漱石」(一)掲載始る。(七日(火)・八日(水)・十日(金)・十六日(木)・二十一日(火)・二十二日(水)の七回)

一月七日(火)、小宮豊隆に来て貰い、『坑夫』の原稿を野田九甫に届ける。

一月九日(木)、小宮豊隆、『抗夫』の原稿を野田九甫に届ける。高浜虚子・森田草平・野上豊一郎・鈴木三重吉・森巻吉来る。夜、高浜虚子と謡曲を謡う。(『班女』らしい)小宮豊隆、台所で家族と歌留多する。

一月十日(金)、荒井某来る。

一月十一日(土)、荒井某、『坑夫』について間違いを指摘する。小宮豊隆殖手紙で、『坑夫』の原稿を野田九甫から戻して貰うように依頼する。小宮豊隆来て泊る。

一月十二日(日)、昼頃、小宮豊隆帰る。」(荒正人、前掲書)


1月9日

京都府教育会、低能児教育の調査委員会を設置。

1月9日

仏、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、誕生。

1月10日

午後7時、平民書房(本郷区弓町2丁目1番地、熊谷千代三郎方)に場所を移して開かれた金曜講演会で、大杉栄(23)、「欧州におけるエルヴェの非軍備主義」を40分間講演。参加者30根。他の登壇者に堺利彦。参加者には山路弥吉、佐藤覚、森岡永治ら。10時散会。

1月10日

伴淳三郎、誕生。

1月10日

ベルリン、普選要求暴動。

1月11日

駐米日本大使、高平小五郎任命。

1月11日

熊本市の縫工同盟会、洋服同業組合に賃上げを要求。縫工ら集合し争議。

1月11日

グランド・キャニオンが国定公園に指定

1月12日

大日本紡績連合会、第5次操業短縮を開始(~1910年4月30日)。向う3ヶ月間月5昼夜休業または休錘。ただし自己織布原糸用錘、操業短縮免除。4月30日まで延長実施。以後、操業短縮率変更。

1月13日

清国、津浦(旧津鎮)鉄道のため英独と借款(500万ポンド)調印。清国側、敷設権と管理権を保留(1912年1月開通)。

1月13日

吉井勇・北原白秋・木下杢太郎・長田秀雄・長田幹彦・深井天川・秋庭俊彦ら7人、鉄幹を訪ね新詩社を脱退。前年暮、「明星」社告で鉄幹「新詩社同人一同」の名でが「反自然主義宣言」。弟子たちは「同人一同」に反撥。

かつての鉄幹は、人間をありのままに写し、心情を率直に表現することで御歌御所に対して短歌革新(叛乱)したが、同じ主張の自然主義が文壇主流になるや、これに抵抗し決別宣言を出す。鉄幹の凋落始まる

1月13日

啄木(23)、「小樽日報」沢田編集長の斡旋で退職後初めて白石社長と会い、釧路新聞社入社の件決定する。

この間の事情についての沢田の説明


一月十日であった。私が只一人編輯局で茶を呑んでると、突然社長が入って来て、石川君はどうしたとの質問である。私は時こそ到れりと言下に彼の窮状を詳細に報告すると、大きく肯いて紙人から拾円紙幣を一枚抜き、是で何か石川君に原稿を書かして、釧路新聞に送らせて呉れまいかと云ふ。私は更に突き込んで是非啄木を釧路の幹部に加へて欲しいものだがと、予ての懸案を一挙に解決しょうとすると、社長は笑って、どうも彼の意見を見ると、いろいろ六ケしい条件があるので考へてるのだと云ふ、それでは無条件ならいゞですかと云ふと、之には何とも答へずサツサと室を出て行った。そこで私は早速石川家を訪問すると、啄木は例の桜庭女史を訪問に出かけて不在、母堂と夫人の前に封筒に入れた拾円紙幣を出して、白石社長の好意を伝えると、二人共眼に一ばい涙を湛へて心からの感謝を表してゐた。(中略)

白石社長から預った拾円金を届けに行った時は、まさに飢餓の状態に陥らんとしてゐた彼及び彼の一家であった。そこで私は極力啄木に説いて、兎にも角にも一度「釧路新闘」に入社して、家庭を現在の窮地から救ひ出す為めに、意見書に書いてある一切の条件らしいものを撤廃させる事を承諾させて了つた。そして一月十三日に日報社の社長室で、啄木と白石社長とを会見させ、私も同席して両者の間を斡旋し、結局内談の程度で物別れとなったが、翌十四日には社長と私と、二人だけの会談で、「釧路新聞」に啄木を三面主任として入社させ、待遇は日報社時代よりは少しでも良くすること、三面の主任と云つても実際は総編韓をさせる事などを決定して、最後に二十円でも、三十円でも此際啄木に赴任手当を呉れる事を承認させてから、私から此の決定事項を詳細に彼に伝達してやつた。是でヤツト長い間の懸案を解決し、生活の方針も立ち、彼としては新らしい陣地を得て、再び才筆を揮ふ事になったので、之を聞いた時は流石に喜色満面の様子を見せてゐた。


こうして釧路新聞社に入社の決定した啄木は、18日、白石社長より10円の仕度金を受取り、その金で質受けなどして簡単な旅装を整え、家族はひとまず小樽に残して単身赴任することに決まった。

1月13日

日本画の橋本雅邦(74)、没。日本美術院の創設者

1月14

予算編成不統一(鉄道建設改良費予算問題)の為、西園寺公望首相、阪谷芳郎蔵相、山県伊三郎逓相(山縣有朋養子)、辞表。他閣僚もならうが天皇、阪谷・山県のみ認め他は留任命ず。

閣議で審議談せず首相と2閣僚のみで天皇に辞表提出する西園寺のやり方を、原は思慮不十分で無責任な行動とみる(「原敬日記」1月13日~14日)。閣議に出せば、原の反対の可能性があり、かつこの時、西園寺は、天皇が西園寺の辞表を受け取らないことを予想。

1月14

この日付、西園寺首相の山縣元老宛手紙「社会主義者云々、内相へおつかわしの写し、たしかに落手仕り候。内相へも、申し聞かせやり候。十分に取締方策構うべきは、もちろんのことと存じ候」。前年11月サンフランシスコでの天長節不敬事件資料を山縣が関係者に配布した件(1月10日頃)

西園寺は山縣へは通りいっぺんの返事をするが、内相原敬指揮下の内務省警保局(大浦局長)は既に機密文書「米国ニオケル日本革命党ノ現状」作成着手

宮内相田中光顕は13日付け山縣宛手紙で、警保局長大浦兼武・警視総監安楽兼道を呼びつけ圧力を加えたと報告。

1月14

西園寺、この日、「実は非常疲労かつ疼痛を感じ候」と、桂に弱音を漏らす(桂太郎宛西園寺公望書状、1月14日、寺内正毅宛西園寺公望書状、1月8日、「原敬日記」1月5日)。

1月14

(漱石)

「一月十四日(火)、『坑夫』は予定の倍を越えて、七十回以上になるかもしれめと予想する。(実際は、九十一回四月六日(月)で終る)

一月十六日(木)、小宮豊隆来る。荒井某来る。

一月十七日(金)、森巻吉来る。『耕夫』の原稿六十余回書いて主人公が潮やく抗へ入ったところまで進む。(「森巻吉日記」)」(荒正人、前掲書)


1月16

田原淳、心臓刺激伝導系の田原結節を発見。


つづく

2026年2月24日火曜日

〈「竹島の日」式典に閣僚不参加、高市首相過去発言とのギャップで批判〉 → 「竹島の日」閣僚派遣せず 日韓関係考慮か、首相の持論封印(朝日); 高市氏は首相就任前の自民総裁選で、式典について「本来なら堂々と大臣が出ていったらいい。顔色を窺う必要はない」と主張した。約400人が集まった式典会場からは「堂々と大臣が出てったらいいじゃないですかって言ったのは、どこのどいつだ」といったヤジも飛んだ。

 

島根県松江市で22日、「竹島の日」式典が開かれ、政府からは内閣府政務官が出席しましたが、閣僚は不参加でした。高市早苗首相は昨年、自民党総裁選で「堂々と大臣が出て行ったらいい」と述べていただけに、言行不一致を指摘する声が相次ぎ、Xでは皮肉や批判が目立ちます。一方、自民党三役の参加を「閣僚2人分」と擁護する意見もあり、日韓関係への配慮が背景にあるとの見方も出ています。保守層の不満と外交のジレンマが浮き彫りになりました。

〈高市首相、旧姓単記使用の検討を指示 保守層から強い反発〉 → 高市首相、旧姓「単記」を指示 法相と男女共同参画相に(時事)

 

2月18日の第2次内閣発足時に、高市首相は法相と男女共同参画担当相に対し、住民票やパスポートなどで旧姓の単記を可能にする基盤整備を指示した。
政府は特別国会への関連法案提出を検討中で、黄川田担当相は法制化を含めた整備を進める方針を示した。
一方、保守層の宇山卓栄氏や山口敬之氏らが「事実上の夫婦別姓」と批判し、従来の通称使用拡大を望む声が広がっている。
選択的夫婦別姓派は通称では不十分と不満を漏らす中、改姓者の不便解消と家族観のバランスが焦点だ。

 

大杉栄とその時代年表(764) 1908(明治41)年1月1日~3日 「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(啄木日記)

 

石川啄󠄁木(1908年10月4日撮影)

大杉栄とその時代年表(763) 1908(明治41)年1月 2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。 松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。 より続く

1908(明治41)年

1月1日

『西方』誌発刊。

1月1日

「日本平民新聞」、群馬の築比地伸助「革命の歌」など3篇の社会主義の歌応募作発表。

1月1日

幸徳秋水「病間放語」(「高知新聞」)。倒幕運動・自由民権運動の伝統を述べ、「革命は過去のものなり、歴史のものなりと思はば、これは大なるあやまりなり。文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮を保護するの日本、三井と岩崎の日本においても、革命はたしかに活ける問題なり。」と提起。続いて、中国革命の成功を語る。

また、「文芸上における陶庵公と早稲田伯」(「中央公論」新年号)掲載。明治39年2月17日の文芸協会発会式(坪内・島村が大隈を会頭にいだく)、明治40年6月17日西園寺(号「陶庵」)が文士30名を招待して会を開くことを批判(二葉亭・漱石は欠席)。

1月1日

(漱石)

「一月一日(水)、元日。朝から小宮豊隆を連れて散歩する予定だったが、松根東洋域・森田草平・鈴木三重吉・小宮豊隆・森巻吉・野間真綱・皆川正禧ら年賀に来る。森田草平、フロック・コートを着て、一同にそれぞれ「やあ」と挨拶する。高浜虚子、訪れる。近頃、鼓を習っていると知り、ぜひ聞かせて欲しいと懇願する。高浜虚子は人力車を走らせ、鼓を取り寄せる。『東北』を謡い、『羽衣』を一緒に謡ったが、うまくいかず一同に冷やかされる。来客のため『坑夫』の原稿進まぬので、焦燥感を抱く。小宮豊隆泊る。(明治四十二年一月一日(金)に、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に「元日」としで発表された文章は、この日のことを念頭に浮べながら書いたものと思う)

(一月、寺田寅彦へ『ホトゝギス』(第十一巻第四号 明治四十一年一月一日発行)に「障子の落書き」を薮柑子の筆名で発表する。以後、この種の文章にはこの署名を使用する。)

一月二日(木)、森巻吉来る。鈴木三重吉『二日』の感想を話す。

一月三日(金)、小宮豊隆が漱石宅で歌留多会をやるからと森巻吉を呼びに行って、夜十二時過までやる。(「森巻吉日記」)

一月四日(土)、小宮豊隆、鏡から立派な財布貰い、昼食をして帰る。鈴木三重吉が来たので『二日』について、森巻吉がほめていたことを伝える。」(荒正人、前掲書)

1月1日

漱石(41)、「坑夫」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』1月1日~4月6日全91回) 挿画は名取春仙(東京)、野田九甫(大阪)

続けて、「夢十夜」(7月25日~8月)、「三四郎」(9月1日~12月29日)、「それから」(明治42年6月27日~10月14日)、「門」(明治43年3月1日~6月12日)のいわゆる「前期三部作」を連載。

1月1日

漱石『虞美人艸』(春陽堂)橋口五葉装幀。1円50銭

1月1日

蒲原有明『有明集』。

1月1日

高浜虚子『鶏頭』(漱石の序を付し、『風流懺法』『斑鳩物語』などを含む)。

1月1日

大杉栄(23)、石川三四郎に手紙を出す

1月1日

大杉栄「自由合意ー現社会の無政府的現象(一)序(クロポトキン」(『日本平民新聞』)

1月1日

この年、啄木は母や妻子を貧窮のどん底において小棒で元旦を迎えた。

「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(日記)


大晦日の夜「妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之を少しつつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ」という北海道での生活。

1月2日

漢冶萍煤鉄公司設立。

1月2日

ポルトガル、国王カルロス1世・皇太子ルイス暗殺。

1月3日

夜、第18回社会主義金曜講演会。神田三崎町の吉田屋、出席80余。新年の勅題「社頭の松」にちなんだ活人劇が注目を引く(山川均が首つり男に扮する)。

狂句「元旦や社頭の松に首くくり」(1月1日「日本平民新聞」掲載)からの着想。天皇の勅題を戯画化することで、呪詛的に天皇制批判。

1月3日

この日付け啄木の日記。

新詩社の同人には詩人ブル、詩人ガル、ブル・ガル臭味がある、鉄幹の詩は外来の刺撃がなければ進歩しなく、それは思想が貧しいからである

などと批判。

1月28日にも、

「此詩人は老いて居る」と書く。

1月3日

夜、有島武郎、東京を発って札幌に向う。農科大学の英語講師に招聘された。


「一月二十一日。(略)去年四月十四日、伊予丸の甲板を下り、小舟に揺られて神戸なる埠頭に立ち、父と直良君とに面を合はぜたる時より、我は再び日本の地を踏む可き人となりぬ。九月一日には兵営に入りで、その夏北海道の旅路に得たる諸種の回想を、飾りなき木床の夢に結ぶ身となりぬ。(略)兵営にある間に起りし結婚の問題は、我が身に癒す可からざる深き疵を与へぬ。森本君(森本厚吉)の山角静子氏との結婚も、亦深さ印象を残しぬ。(略)志賀の悲劇其他思ひ設けざる事共は、我が兵営生活の間に起りぬ。十一月末日に兵営を出でたり、十二月に至りては我が札幌農科大学に職を奉ずべき事定りぬ。""Father and Sons""(ツルゲーネフの小説)の訳は此間に大半稿を成せり。十二月の下旬に河野信子は小柳津氏に嫁ぐべき約整ひぬ。我が東京を去りて、入繁からぬ所に住むべき必要は愈ゞ迫り来ぬ。一月三日の夜、我は東京を去れり。胸を射られし鳩は、その美しき翼もてその疵を裹(つつ)みかくすと云ふに、我もこれに劣らじと思ひ定めぬ。夜汽車の淋しき味は、独逸を旅せる時、壬生馬と共にしみじみ味ひ知りぬ。青森に着せし時、日は暮れて、雪は街上に堆(うづたか)かりき。翌日船は揺ぎ少く、雪の海原を横切りて、六日の暁明三時半、半ば凍れる室蘭の港に入りぬ。(略)其の夕には札幌なり。森本君は我を迎へんがために、五度停車場に到れりと聞きて、凡ての顧慮かいやり捨てゝ北六条西一丁日なるその家に入りしは、やがて夕の六時なりしなるぺし。稍(やや)面やせて見ゆる彼の妻は美しう余を逆へぬ。

『我は英語の講師として学長主事を兼ぬる身となりぬ。偖て今日までは唯面白く暮し来りしか。

『森本君の若き妻は病みて十六日流産せり。彼の実母は十九日茅ヶ崎に永眠せり。

『何をなす可きやと云へる謎は、一瞬毎に我が骨髄に迫る。我が齢を数へ見んも愚かなる業なり。何をなす可きや。(略)」


農学校在学中に有島武郎をキリスト教に導き入れる役をし、また彼と一緒に、明治36年、伊予丸で横浜からシアトルに渡航した森本厚吉は、アメリカ留学から帰って母校の教授になっていた。彼は有島をこの母校に迎えるに努力をしたばかりでなく、その新婚の家庭に彼を当分同宿させることにした。

1月3日

大杉栄(23)、東京府豊多摩郡淀橋町318番地に堀保子と転居。

昼、森近運平、山川均とともに横浜曙回の新年会(大和田宅)に参加。

午後6時、神田三崎町の吉田屋で開かれた金曜講演会の新年会に参加。参加者80名。福引係兼煎餅・みかんなど食べ物の世話係を勤める。


つづく


ペンタゴンは、トランプ大統領に対し、イランに対する長期的な軍事作戦について懸念を表明しており、検討中の戦争計画には、米国および同盟国の死傷者、空防衛の枯渇、過度に負担のかかる軍隊といったリスクが伴うと助言しています。(WSJ) / ペンタゴンの最高位将軍が、トランプ大統領に対し、イランへの攻撃を控えるよう警告し、重要弾薬の不足と同盟国からの支援不足が、作戦および米軍関係者に重大なリスクをもたらすと述べました。(ワシントンポスト)   

 

 

????? ↓

 

2026年2月23日月曜日

出稼ぎポーランド人、イギリスから40万人帰国 高成長でG20入りに照準(日経);  かつて「ポーランド人の配管工」は低賃金で働く移民労働者の代名詞でした。しかしEU加盟から20年超で立場は逆転。イギリスの成長鈍化に見切りをつける動きが広がります。

 

大杉栄とその時代年表(763) 1908(明治41)年1月 2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。 松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。

 

松居松葉

大杉栄とその時代年表(762) 1907(明治40)年12月5日~30日 日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。 より続く

1908(明治41)年

この年

韓国、反日義兵闘争の高揚

朝鮮駐在日本軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」。

明治40年中の戦闘回数323・暴徒兵4万4,116(内死者3,627)。

41年は戦闘回数1,451・暴徒兵6万9,832(内死者1万1,562)。

この年

1908年(明治41年)の長谷川利行(17歳)

耐久中学3年のとき、同学年生薗悌次郎、紀南新聞記者井上豊太郎、浜田峯太郎とで同人雑誌を発行。小説、詩、短歌など多作する。

「当時、長谷川君は繁児と云ふ奇妙な雅号で、その因縁を問ひただしても答えず、ただ恋人に因めるものを云つたやうに思ふ」(薗悌次郎「思ひの記」)。


 雑誌を機縁に上級生金沢種美と交友。

「「人として彼(註・長谷川利行)を知ったのは、私達の中学時代、即ち明治四十年前後であり、彼は私より三つ程も若く、私が五年、彼が三年の頃である。絵を習つてゐるといふことであつたが、私達が知り合つたのは共に文学少年としてであつた。彼が紀州の耐久中学生でゐながら小さな雑誌を出してゐたのに、友人の紹介で歌や評論を寄せたのが、私と彼との繁りである。彼は時に歌も詠んだが、最もその才能をみせたのは創作であつた。これが田舎の中学生の作品かと思はれるほどコクのある作品を書いたが、文章には可成り飛躍性があつて晦渋に陥つてゐるとおもへるものもなくはなかつたが、彼が順調に素養を積めば恐るべき作家にならうと思つたのだが、何時の間にやら雑誌も廃刊して爾後消息を不通にしてしまつた」(金沢種美(高崎正男『長谷川利行画集』明治美術研究所刊))。

夏休みには帰郷せず、同人雑誌仲間と浜田峯太郎の実家、日高郡和田村和田に遊ぶ。

この年

米国ピアソン財団、(メキシコの)タンピコ南方で大油田発見。権利をロイアル・ダッチ・シェルに譲渡

スタンダード石油も進出。石油開発ラッシュ。米国資本は,鉱山62%、石油40%、鉄道幹線の殆どを支配下に。


1月

韓国、裁判所構成法施行

1月

安東電気株式会社創立。

1月

都府をはじめとした近畿地方、東京に天然痘患者が拡大。1月の間で患者数1万8,000人、死者6,000人

1月

新村忠雄が中心となり信濃社会主義研究会、結成。

1月

小林多喜二(5)一家、小樽区若竹町に住居をさだめ、両親は伯父の経営していた三塁パン店の支店を開く。

5月、若竹町を起点に小樽港第2期築港工事が数年の予定で始まる。

若竹町18番地で伯父の三星パン店の支店(駄菓子屋に近く、パンと自家製の餅の類を売る店)を開く。父は朝暗いうちから、小樽の中央寄りにある新富町の伯父の製パン工場に、パンの仕入れに行き、早朝までに帰って来て、出がけの労働者や学生に自分の店でそれを売り、昼には土工たちに浜までパンを売りに行く。彼らの家は、小樽南端にあり、周りは貧民が多く、大きな商いにはならず、小林家は秋田から小樽に出てきたが、豊かにはならず

1月

満鉄東京支社に満州・朝鮮歴史地理調査部設置

1月

輿謝野晶子(30)「婦人と思想」(「太陽」)。

1月

田山花袋「一兵卒」、正宗白鳥「何処へ」(~4月、10月刊行)、島村抱月「文芸上の自然主義」(「早稲田文学」)。この号には白松南山・相馬御風・中村星湖・片上天弦らも執筆。

1月

広津柳浪「是か非か」(「文藝倶楽部」)。自然主義、とりわけ「蒲団」の花袋を攻撃。

3月、花袋は「新潮」で反論。

「新潮」4月号では鏡花が自然主義批判。

1月

水野蝶郎「再会」(「新思潮」)。小山内薫の「新思潮」には、蒲原有明、薄田泣菫、北原白秋、岩野泡鳴、小栗風葉などが執筆。既に、泣菫は「新思潮」に自然派風に詩を発表。有明・泣菫らも鉄幹により世に出る。

1月

国木田独歩「竹の木戸」(「中央公論」)

1月

長谷川天渓『現実暴露の悲哀』(『太陽』)。

7月、『自然主義』刊行。

1月

二葉亭四迷、亡命ロシア人ポドパフが創刊した雑誌「東洋」に、森鴎外「舞姫」ロシア語訳を掲載。ついで独歩「牛肉と馬鈴薯」を翻訳・掲載。

1月

「(一月、森田草平、「閨秀文学会」の最初の雑誌に、平塚明子が初めて発表した「愛の末日」について、長い批評を発表する。煤煙事件の発端になる。)」(荒正人、前掲書)

1月

『冒険世界』、『音楽会』創刊。

1月

『婦人の友』創刊(『家庭の友』改)。

1月

2世市川左団次・松居松葉、欧州演劇視察より帰国、明治座で革新興行。

松葉「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」など。市川翠扇・旭梅ら女優参加。

1月

佐藤紅緑「東風物語」初演。東京座、新派大合同。

1月

大工原銀太郎、酸性土壌論。『農事試験場報告』37号。土壌酸性の原因、性質、酸性土壌の分布に関する研究。

1月

長崎三菱造船罷業。

1月

長野県、女教員妊娠規定を定める。初めて産前産後2ヵ月を有給休養とする。

1月

グスタフ・マーラー、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場デビュー。

1月

メキシコ、ディアス、米ジャーナリストのクルールマンと記者会見。次期大統領選への不出馬と反対党設立の自由を声明(クリールマン宣言)。コラルへの政権禅譲と院政継続を狙ったディアスの声明は与党内からも反発を招く。

1月

ハンス・プルマンら支持者たち、セーヴル通り56番地に美術教室(アカデミー・マチス)を開校、アンリ・マチス(39)が教える。


つづく

2026年2月22日日曜日

〈国民民主・元フジ社員候補とキラキラSNSコンサル女子を逮捕〉「よく高級外車に乗って日枝さんとの仲を自慢してた」玉木代表の“肝いり”も買収で御用(集英社) / 「日当を支払っていることは他の人に言わないで」SNS運用担当の女(25) 違法性認識か…国民民主党から立候補の入江伸子容疑者(63)ら女3人逮捕 警視庁(TBS) / 玉木代表がマイク収めに選んだ候補   

大杉栄とその時代年表(762) 1907(明治40)年12月5日~30日 日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。

 

高野岩三郎

大杉栄とその時代年表(761) 1907(明治40)年12月1日~5日 李垠(11、高宗の七男)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。 より続く

1907(明治40)年

12月5日

直接行動派「日本平民新聞」、増税反対運動を茶番狂言と冷眼視する。

15日、議会政策派「社会新聞」は田添鉄二が、増税は帝国主義財政の帰結と指摘、反対運動参加呼掛け。

12月5日

有島武郎、母校・札幌農学校から教師に招聘される。

札幌農学校は、この年、専門学校から昇格して農科大学になったが、同時に仙台に設けられた東北帝国大学の一部分としての農科大学となった。武郎はこの予科の英語科講師に任命された。

明治27年以来、札幌農学校の第1回卒業生の佐藤昌介はこの学校の校長であったが、この時も佐藤昌介はこの農科大学の学長であった。

また明治29年、有島が札幌農学校へ入学した当時、そこの教授をしていた河野信子の叔父に当る新渡戸稲造は、明治30年にその職を離れ、台湾総督府の技師となり、その間に農学博士と法学博士の学位を得、二度の欧洲旅行を経て、明治36年に京都大学教授となり、明治39年からは第一高等学校長と東大の農科大学教授を兼任していた。

札幌の農科大学へ就職することは、有島にとっては直面している煩悶から逃れる機会であり、同時に父の世話にならずにすむ自活の道を見出したことであった。また、父武にとっては、長男が官立大学の教員になるという目出度いことであったので、それは父にとっても歓迎すべきことであった。

翌明治41年(1908年)1月3日夜、有島は東京を発って札幌に向った。"

12月6日

政界革新運動を進める新聞人、増税閣議決定に先立ち反対運動を起こすべく会合。

23日、政界・実業界100人を招き非増税懇親会開催。開会の辞は猶興会島田三郎(「毎日新聞」社社長)。大隈重信(前年、藩閥妥協派により憲政本党総裁の地位を奪われた)・中野武営(東商会頭)が演説。院外では商工会議所が、院内では猶興会・憲政本党反藩閥派(犬養毅ら)が、新聞が世論を喚起する、悪税反対運動の原型が示される。

12月6日

金曜後援会(第14回))。大杉栄、「現代社会の二大傾向」と題し、クロボトキン「パンの略取」第1章「強三斗無政府」を紹介。

12月8日

片山潜、幸徳が街鉄に買収されていると報じる(「社会新聞」第28号)。幸徳が電車賃値上げ反対運動に不熱心なため。

12月10日

(漱石)

「十二月十日(火)、暖かい雨降る。鏡、風邪で床に就く。『大阪朝日新聞』から、年が明けたら三十枚位の小説を書いて欲しいと依頼される。この日の前後、『文學評論』の訂正終る。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)


12月10日

九段に品川弥二郎銅像除幕式

12月12日

啄木(21)、社の内紛に関して「小樽日邦」事務長小林寅吉から暴力をふるわれこれを契機に退社(21日退社広告)。給料未払いで生活困窮。

22日、沢田信太郎「石川啄2木兄と別る」(『小樽日報』に掲載)。  

12月13日

愛知県の機械職工宮下太吉、大阪出張の際、大阪平民社に森近運平訪問(1回目)。日本歴史のなかの皇室に関して質問。森近は久米邦武「日本古代史」の知識で、神武起源の不確実性について述べる。

12月15日

東京市の電車市有協定成立する

12月15日

ペルシア国王、国会廃止を企て、首相を投獄。

12月16日

(漱石)

「十二月十六日(月)、『坑夫』の発端書き始める。小宮豊隆宛葉書に、「文債に籠る冬の日短かゝり」と書く。

(浅井忠死去する。)

十二月十八日(水)、『坑夫』執筆で忙しい。


『坑夫』を起稿したのは十二月十日(火)過ぎであろう。(不確かな推定)推定の根拠は次のとおりである。

(1)十二月十日(火)鈴木三重吉宛葉書(消印午後十一時-十二時)に、「小生も三十日つゞきのものを只今たのまれた許りに候。小説と行かなくても三十日はつゞげろ義務が出来候。可相成は二十九日位で御勘辨を願はんかと存候。」とある。この葉書を書いた日に、大阪朝日新聞社から電報または手紙で、三十日続きのものを依頼されたと推定される。必ずしも小説ではない。

(2)荒井某から『坑夫』の材料を提供されたのは、十二月十日(火)から数日の間だと推定される。

(3)十二月十六日(月)小宮豊隆宛葉書に、「小生矢張り執華中。毎日ニ三回かく豫定/文再に籠る冬の日短かゝり」と書く。」(荒正人、前掲書)

12月16日

浅井忠(52)、没

12月17日

韓国、金秀敏、処刑。

12月19日

ペンシルベニア州ジェーコブス・クリークの炭鉱中の爆発、死者239人。

12月20日

東京電灯株式会社、山梨県駒橋水力発電所一部完成により、東京への送電開始。麻布・麹町配電所区域で電灯点火。

12月20日

(漱石)

「十二月二十日(金)前後(推定)、鈴木三重吉からの手紙で午前十時、鈴木三重吉に会い、昼食と夕食を共にし、午後九時頃帰る。縁談である。(『文鳥』)翌日も同じ用件で出掛け、午後三時頃帰宅する。その間に、文鳥の餌なくなり死んでいる。十六歳になる女中を呼びつけ、文鳥の死骸を抛り出す。鈴木三重吉宛葉書で文鳥の死を知らせる。女中に、この葉書の投函と、文鳥を持ち去るように命令する。暫くすると裏庭で子供たちは文鳥を埋めると云って騒ぐ。植木屋も手伝う。翌日午前十時に起き、前日植木屋の声のしたあたりを眺めると木賊(とくさ)より低い小さな木札が立ててある。筆の筆跡で、この土手登るべからず、と書いてある。午後、鈴木三重吉から返事あり、文鳥はかわいそうなことをしたとだけ記してある。」(荒正人、前掲書)

12月21日

啄木、「小樽日報」退社。

「小樽日報」に退社広告を掲げる。

「小生本日を以て退社候也 二十一日.石川啄木 猶小生に御用の方は区内花園町畑十四番地(月見小路)に御申越被下度候」。

「小樽日報」退社後、一家のの生活困窮を極める。

22日 沢田信太郎、「小梅日報」紙上に「石川啄木兄と別る」と題する告別の辞を掲げる。


啄木は潔く退社したものの、アテにしていた札幌の新聞は容易に誕生しなかった。日報社よりの収入が絶えると、蓄もない彼は、正月を目前にひかえて暮しに困るようになった。

老母と妻子を抱えて門松も立てられず、まともな正月の準備もできず、流石に暢気な啄木もあせらずにはいられなかった。彼は「小樽新聞」の上田社長を訪問したり、札幌の「北海タイムス」に就職運動をしたりしたが、何れも失敗に終った。

雪吹きすさぶ小樽花園町の一角に、一家は再び生活の危機に直面した。


12月22日

清国、鉄路総局設置。

12月22日

日本社会政策学会第1回大会。金井延・桑田熊蔵(貴族院の多額納税議員、東大講師)ら、経済学関係の唯一の全国的学会として設立。階級闘争激化未然防止の必要性を感じている資本家(三井の早川千吉郎)・官僚(添田寿一・岡実ら)も参加。第1回大会では渋沢栄一らが工場法に関し講演。以後、大正13年12月の第18回大会まで。大内兵衛・森戸辰男・櫛田民蔵ら、大正デモクラシー期に活躍の若手学者を輩出。鈴木文治も会員。

①右派(日本興業銀行総裁添田寿一):国家的保護政策と主従関係利用策。工場法施行・労働保険の強制的施行を主張するが、労使関係調整は主従関係利用。

②左派(高野岩三郎):社会問題解決の鍵は労働組合・消費組合等の活動の発展。

③中間派(桑田熊蔵):社会改良主義実行には3種の方針。

ⅰ、国家的方針:国家原則は平等、「国家は弱者を助け強者を制する」べき、「国家の権力に訴え立法行政の手段に依って、社会改良の目的を達すること」を主眼とする。

ⅱ、慈恵的方針:「富豪及び資本化がその私財を抛(なげう)ち、以て貧者労働者を救助」し、労使間に家族関係を保つとこが目標。

ⅲ、個人的方針:職工組合・消費組合・共済組合等を組織し労働者の利益を保護、地位を改良する。

評価:

①「官僚的・資本家国家のために階級闘争の抹殺者として出現」(住谷悦治)。

②「労働争議・労働組合運動・社会主義を否定し、その上で天皇制支配の立場に立って「上から」の社会政策を主張」する「絶対主義的改良主義」(岸本英太郎)。

③「全体としてその立場は国家主義的基調に立っての社会改良・労使協調を基軸とするものであって、労働階級の自主的な組織や闘争については、必ずしも積極的な好意を示すものではなかった」(大河内一男)。

④「勃興期の日本資本主義に対する社会政策的良心」(大内兵衛)。


12月22日

大杉栄(22)、午後1時、牛込区牛込赤城元町の貸席・清風亭で張継らが開いた社会主義講演会(第8回)で「バクーニンの連邦主義(3回目)」を講演。5時~6時に散会。参加者60~70名。

12月22日

金曜講演の通信に見る、この日の金曜講演会の様子。神田三崎町の貸席。

「・・・我党の演説会になくてならぬ臨監警部の顔も揃ったので、会場の配合がズツト引立った。尚御念入りにも下座敷の四畳半には三、四名の正服巡査まで詰めて居た。先ず山川君は『資本家が智慧のない横暴な振舞をして到る処に社会主義の種を蒔いていても、日本政府では見ぬ振をして社会主義勃興の勢を助けて下さるが、此頃は亦、何者か壮士を差向けて金曜講演の発起人等を撲るという噂があるので、定めし今夜は吾々を保護して主義の伝道を助ける御趣意で臨監を添うせしことならん。吾々は大いに発奮努力してお思召に報いねはならぬ』と前置きして『米国恐慌談』に移り・・・」。

山川の発言によって「弁士中止」となり、続いて解散を命ぜられ全員総立ちとなり、警官を取巻いて「社会主義万歳!」を三唱。

12月23日

片山潜・鈴木楯夫ら、「憲法治下において、社会主義の実行につとむ」綱領で平民協会の結社届出。25日、内務省は結社禁止とする。

12月25日

第24議会召集。

12月25日

(漱石)

十二月二十五日(水)、小宮豊隆に東京朝日新聞社へ月給を取りに行って貰う。

(鈴木三重吉、加計正文宛手紙に、「木曜木曜に先生の所へ行くだけだ。先生の内へは缺が(ママ)きないでいく。そして近頃は先生と〇〇〇〇談をやる」と伝える。)

(『時事新報』の『文芸週報』(第八十五号)に、「漱石と獨歩」(上・下)掲載される。署名鞍疾苦。)

十二月二十六日(木)、木曜会。

十二月二十七日(金)、本多直次郎(囁月)来る。(小宮豊隆)

(十二月二十八日(土)、口付煙草「敷島」は十銭に、「大和」は九銭に、「朝日」は八銭に、「カメリヤ」は七銭に、「不二」は十二銭に値上げされる。漱石は、十銭で釣銭なしに買えるので「敷島」を喫む。「敷島」は、大正六年十二月一日まで値上げしない。何時頃から煙草を喫い始めたか、分らぬ。また、イギリス留学時代にどんな煙草を喫っていたか分らない。)

十二月三十日(月)、小官豊隆に、第一銀行(日本橋区兜町)へ行って貰う。(推定)

十二月三十一日(火)、大晦日。

十二月下旬、松本文三郎(京都帝国大学)が上京し、「随意講義」を依頼され承諾する。


伏字は、『鈴木三重吉全集』(岩波書店) の編集者によるものである。


夏目漱石は、『二百十日』・『趣味の遺伝』・『草枕』・『野分』などから評判が悪くなったが、国木田独歩は駄作を発表しているにも拘らず評判がよいことを具体的にあげ、「作家と作物を混同する勿れ」と繰り返している。漱石の微妙な文壇的地位を伝える。漱石は、この文章を読まなかったかもしれない。」(荒正人、前掲書)

12月27日

大杉栄(22)、神田区三崎町の吉田屋で開かれた金曜講演会(第17回)で「バクーニン伝」を講演。吉田屋から会場を貸すのは今回限りと言われる。翌年の新年会は吉田屋で開かれたが、それ以降は平民書房に場所を写す)

12月28日

煙草の値上げ実施。

12月29日

警視庁令にて最初の自動車取締規則出る(速力が規定される)

12月30日

森近運平、大杉栄を訪問

12月下旬

大杉栄、石川三四郎著、幸徳秋水補「日本社会主義史」(隆文館)に掲載予定の「日本社会主義史補遺」を書き上げる。


つづく

2026年2月21日土曜日

高市首相ブログ全削除事件を単なる事務処理の話で片付けられないのは、非核三原則見直しや皇室典範改正、国旗損壊罪、靖国神社参拝と教育勅語への「熱い想い」が赤裸々に語られているから。一見温和なペテンスマイルの仮面の下にある、高市早苗の本当の「顔」がそこにある。

トランプ氏、6人の判事を罵倒 違法判決「国の恥」「飼い犬」(共同) / 最高裁判所長官ジョン・ロバーツとエイミー・コーニー・バレット判事およびニール・ゴーサッチ判事は、裁判所の3人のリベラル派判事と共に、関税に反対する判決に加わった。 ロバーツは、トランプが輸入税を正当化するために引用した1977年の法律は「不十分」であり、必要とされる議会承認を満たしていないと書いた。

〈高市首相の「成長スイッチ」政策に賛否の声、日経記事が注目を集める〉 → 「首相が押しまくる「スイッチ」が、円安だの、武器輸出だの、働かせ方改革だのと、本当に絶望的なんですが。人間を、労働者として低賃金で長時間こき使えば、消費者としてのまともな生活などとてもできないことが、まだ学習できてないのか。それで内需をどうやって増やすのか。」(平野啓一郎) / 「弱い円でも強い日本」の世界線 高市首相が警戒する超円安のリスク(日経) ← いまだに「円安ホクホク」なんだろうな

 

〈高市首相の「弱い円でも強い日本」論に異論相次ぐ〉 → 高市首相は聞くはずがないが、「明確な目標がない高市政権」は一刻もはやく「異常な円安」を止め、「積極財政」もやめるべきだ(東洋経済);「「責任ある積極財政」という言葉は、「気合いだ、気合いだ、気合いだ!」と叫んでいるのとほぼ同義…太平洋戦争に負けた理由とまったく同じ…高市政権の問題は、右傾化ではなく、歴史に名前を残すこと、承認欲求、自己実現だけが目的と、非常にはっきりしている点だ、と」(Shoko Egawa)  

 

高市首相は衆院選勝利後、円安を輸出産業の機会と述べましたが、釈明し内需主導の成長を目指すと強調。
一方、日経新聞や東洋経済オンラインが超円安のリスクを指摘し、小幡績氏は日銀の利上げと積極財政の見直しを提言しています。
Xでは「大企業優遇」との批判が目立ち、擁護派も政策の具体性を主張。
1ドル155円前後の相場が実質賃金をマイナスに追い込み、国民生活とのバランスが注目されています。

 

大杉栄とその時代年表(761) 1907(明治40)年12月1日~5日 李垠(11、高宗の七男)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。

 

伊藤博文と李垠(1907年頃)

大杉栄とその時代年表(760) 1907(明治40)年 〈谷崎潤一郎と精養軒〉 明治36年6月、谷崎潤一郎は精養軒当主北村重昌家の家庭教師兼書生として住み込む。彼は、その身分のまま府立一中から一高に進学する。 より続く

1907(明治40)年

12月

-韓国、江原道義兵大将儒者李麟栄、各義兵団結して漢城へ進撃を呼掛け。京幾道楊州に旧兵3千含む1万人の各道義兵集結。漢城上京途上、許鳶率いる先発隊300余、東大門3里の地点で敗退。1年半後逮捕、処刑。

進撃前、工作員を漢城に侵入させ、各領事館に対し、義兵部隊は愛国血団であり各国は国際法上の交戦団体と認めるよう訴え。また、アメリカ在住朝鮮人団体(サンフランシスコの共立教会、ハワイの合成協会)に、日本の侵略行為を全世界に訴えるよう檄文を送る。

12月

満鉄、「時報」創刊(不定期)。調査部、一般経済調査・旧慣調査を開始。

12月

幸徳秋水、ローレル「経済組織の未来」訳出。秘密出版(金曜社)。

12月

片上天弦「人生観上の自然主義」(「早稲田文学」)

12月

岩野泡鳴「新体詩史」(「新思潮」)12月~41年3月 

岩野泡鳴「新体詩の作法」(「修文館」) 

12月

今村均(21)、少尉任官。

12月

東洋教会(会長桂太郎)、内閣に韓国の「拓地殖民」のための会社設立案提出。

12月

「(十二月、白仁三郎(坂元雪鳥)・西村真次、六か月の見習い期間を終了し、東京朝日新聞社に正社員として採用される。高須賀洋平・生方敏郎は退社する。)」(荒正人、前掲書)

12月上旬

(漱石)

「十二月上旬(推定)、夜、鈴木三重吉は小宮豊隆と共に、文鳥と籠持って来る。(『文鳥』)」(荒正人、前掲書)

12月上旬

「(十二月上旬または中旬(推定)、野田九甫、大阪朝日新聞社に入社する。)

第一回文展で「辻説法」が二等に選ばれる。瀧精一(節庵)の推薦で、大阪朝日新聞社に入社することになる。村山龍平・上野精一両社主、上京していた際に会い、入社が決定し、『坑夫』の挿画を響くことになる。漱石に意見を求めると〝万事委せる。とのことである。岡田版木屋で木版を彫らせる。挿画は、掲載される四日前に版木屋に届けられる。小宮豊隆が原稿を持って行く。やがて打合せの都合もあるからと、大阪へ移り、大阪朝日新聞社に近い西照庵(宿屋)に下宿する。野田九甫の挿画は漱石も喜び切抜を貼っているので感謝されたが、社の営業面からは余りに高級だと、書き替えさせられたこともあり、野田九甫は辞職を申し出る。二葉亭四迷は、明治四十一年六月十八日(木)神戸からロシヤに出発する直前に、西照庵に泊り、野田九辞の不満を慰めている。野田九甫は、八年間ほど大阪朝日新聞社に勤める。(野田九甫談)(昭和二十七年十月二十九日 清水三郎筆録)」(荒正人、前掲書)

12月1日

荒畑寒村(20)、横須賀海兵団入営。翌日、兵役免除。

12月5日

韓国、李垠(11)、日本留学のため漢城発。伊藤統監同行。56年間の日本での生活。梨本宮方子と結婚。

李垠;

大韓帝高宗の七男。この年8月27日、異母兄の李坧(純宗)が即位し、9月7日、皇太子に冊立された。純宗には子はなく、また毒茶事件でアヘン入りのコーヒーを飲んでいたことで心身ともに虚弱となり、子供を設けられない体になっていた。李垠には20歳年長の兄・義王李堈がいたが、品行に問題があり皇位継承者から外されていた。

李垠は、皇太子に擁立されると、同時に東京留学を進言される。

12月5日、李垠は軍艦満州丸でに仁川を出港、7日に下関に到着し、15日に東京に入る。

翌1908年(隆熙2年、明治41年)、学習院に入学。

1910年(隆熙4年/明治43年)のれた日韓併合によって、高宗、純宗、純貞孝皇后とともに日本の皇族に準じる存在である王族となり、李王(純宗)の王世子となった。

1911年(明治44年)9月、陸軍中央幼年学校の第2学年時に編入(14期)。次いで、陸軍士官学校(29期)へ進む。

1915年(大正4年)6月5日、士官学校卒業後に近衛歩兵第2連隊に士官として配属され陸軍将校となる。

1916年(大正5年)8月、皇族の梨本宮守正王・伊都子妃の第1女子方子女王と婚約。

1918年(大正7年)12月5日、結婚の勅許が下りるが、1919年(大正8年)1月21日、挙式4日前に李太王(高宗)が死去し、結婚は延期された。

1920年(大正9年)4月28日、方子女王と結婚し。結婚式では、朝鮮人学生による爆弾投擲未遂事件が起きている(李王世子暗殺未遂事件)。主犯の徐相漢の供述では、標的は李垠夫妻ではなく、朝鮮総督となっていた斎藤実だったという。方子女王の側からは、厳密には非皇族への降嫁であるが、大正天皇の「御沙汰」により女王の身位を保持した。

夫妻の間には、結婚の翌年に第1男子の李晋が誕生したが、1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻が生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問した際、晋は急逝する。晋の急死には、当時より陰謀説がある。

翌年、陸軍大学校を卒業。

1924年(大正13年)、参謀本部附となる。

1926年(大正15年)の李王坧の薨去に伴い王位を継承、「昌徳宮李王垠」と呼ばれる。またこの後、朝鮮軍司令部附となる。

1927年(昭和2年)5月23日から翌1928年(昭和3年)4月10日、李垠夫妻はヨーロッパに外遊。この時、夫妻は「李伯爵」の仮名で旅行を行っていたが、各国元首と取り交わした文書ではプリンスを名乗っている。陸軍少佐となり、近衛歩兵第3連隊大隊長を兼務、

1930年(昭和5年)、教育総監部附となる。

1931年(昭和6年)、第2男子(李玖)誕生。

1937年(昭和12年)3月1日、歩兵第59連隊長から陸軍士官学校教官に転補。

 1938年(昭和13年)、陸軍少将となり、北支那方面軍司令部附として中国に赴任。

翌1939年(昭和14年)8月、帰国し、近衛歩兵第2旅団長に転じたる。

翌1940年(昭和15年)5月、留守第4師団長となって大阪に赴任、この年、陸軍中将になる。

1941年(昭和16年)7月、第51師団長として再び中国に渡り、11月、教育総監部附となって帰国。

1943年(昭和18年)、第1航空軍司令官となる。

1945年(昭和20年)4月、軍事参議官に補せられる。 

同年8月12日、昭和天皇から皇族らとともに御文庫附属庫に招かれ、天皇からポツダム宣言受諾を決心したことを聞く。

敗戦後は、日本政府からの歳費は1945年度で打ち切られ、李垠夫妻の生活は苦しいものとなる。建築業者梅田組の孫海圭からの支援でなんとか生活したが、怪しげな儲け話に騙されて資金や美術品、熱海の別荘であった滄浪閣などの財産を失う。滄浪閣は伊藤公爵家から購入していたもので、幣原内閣の内閣書記官長楢橋渡の要請で譲渡した。これは、度々李王家を訪れていた楢橋に心を許した李垠が、「私の地位はどうなりますか。どうかこれまで通りの待遇をしてもらえませんか」と楢橋に伝え、気を持たせる回答をした楢橋が新憲法の草案作業を滄浪閣で行うため、日本政府に譲渡してほしいと申し出たことによる。結局滄浪閣は日本政府の所有とはならず、楢橋が李王家に40万円を支払って購入した。

さらに財産税法によって課税された李王家は巨大な納税義務を背負うことになった。ちょうどその頃、創立準備中であった国際基督教大学から最大の財産であった紀尾井町の李王家邸を10万ドルで提供するよう打診があったが、李垠はこれを断っている。秘書の趙重九によれば、李垠にはホテル経営に参加して社交界に出入りする夢があったためであるとしている。その後李王家邸は参議院議長公舎として間貸しされ、夫妻は侍女の部屋で暮らすようになった

1947年(昭和22年)5月3日、王族としての地位を喪失し、更に外国人扱いとなった。「正規陸軍将校」であったため公職追放となった。

1949年(昭和24年)、「小説家張赫宙氏」が李王家東京邸を訪ね、「李王垠さまの口述を速記し、それを主軸として構成」し、面識がある趙重九から 権藤四郎介「李王宮秘史」などを借りて執筆した「李王家悲史 秘苑の花」を世界社発行の雑誌「富士」昭和24年12月〜昭和25年2月号に連載した後、若干手直しして口絵も減らした上で、1950年(昭和25年)に同社で単行本化された。

1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効にともない、李垠・方子夫妻は正式に日本国籍を喪失したが、大韓民国政府は李垠ら日本在住の旧王公族の韓国籍を認めず、帰国もできなかった。息子の李玖がマサチューセッツ工科大学に留学したが、そのパスポートも大韓民国から正式に受けることはできなかった。

また李王家邸は大韓民国政府によって駐日大使館の候補地と定められ、李垠は議長公舎の契約を解除した。しかし韓国政府からの送金がなかったため、実業家堤康次郎に売却し、赤坂プリンスホテルとして利用された。売却した金は借金返済で殆ど消えてしまい、夫妻は田園調布に家を購入して移り住んだ。

1957年(昭和32年)5月16日、李玖のマサチューセッツ工科大学卒業式に出席するため、夫妻は渡米することとなり、昭和天皇、香淳皇后への挨拶のため参内。この渡米に際しても、大韓民国政府はパスポートの発給を行わなかった。夫妻は大学からの招聘状に基づき、日本政府から特別な旅行証明書の発給を受けた。卒業式に出席した後、李垠夫妻と李玖は、元プロボクサーのジーン・タニーから借りた家で生活を始めた。1958年(昭和33年)6月8日に帰国し、同年6月10日に参内。

1959年(昭和34年)3月、李垠が脳血栓で倒れ歩行困難となったため、夫妻は5月17日に日本に戻る。

1960年(昭和35年)、夫妻は再び渡米しようとするが、今度は日本政府からの証明書が降りず、夫妻は日本国籍を取得した。8月に帰国。

1961年(昭和36年)、仕事のためにハワイを訪れていた李玖を訪ねる。11月12日には、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕国家再建最高会議議長が病床の李垠の元を訪れ、方子にいつ帰国しても構わないと伝えた。

1962年(昭和37年)12月15日、夫婦ともに韓国籍になることを認めるとの通知を受ける。

1963年(昭和38年)、韓国政府から生活費の送金が開始。日韓国交正常化交渉が始まると、11月22日に夫婦ともに韓国へ渡った。金浦国際空港からソウルの聖母病院への沿道は歓迎の市民で埋め尽くされた。

1970年(昭和45年)4月28日、金婚式を病院で開き、その3日後に病院で死去。葬儀は5月9日に韓国皇太子の礼をもって行われ、日本からは昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王・高松宮妃喜久子、方子の親族として秩父宮妃勢津子・広橋規子が参列した。

1973年(昭和48年)5月、三年祭が執り行われ、李垠は皇帝になったことは無いが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められた。


つづく