2020年10月18日日曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(15改) 1930年(昭和5年) 長谷川利行39歳 「いうままに藤椅子に腰をおろした私の顔を暫く凝視していた彼は、忽ち嵐のように画布に絵の具をなすりはじめた。私はこの時彼の凄まじい原動力をもった、縦横無碍の、霊ある手をみた。 彼の手はただ狂暴に、時に粗硬なタッチの響きをたてて暴れ廻り狂い廻った。そして約一時間半で描きあげてしまった。」(前田夕暮)  

 若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(15改) 1930年(昭和5年) 長谷川利行39歳 「彼は貧困であったなどとは夢にも思ってみたことが無い。(中略)心が貧しく人を喰いものにするような下賎な心の彼では無かった。彼の絵が、今日見ても美しいと思わせられるのは、実はこの心の美しさの表現に他ならない。天衣無縫の詩心の表現に他ならないからである。」 (徳山巍「長谷川利行と私」)

より続く

1930年(昭和5年) 長谷川利行39歳

3月、第2回聖徳太子奉讃会記念展覧会(3.17-4.14東京府美術館)に《キャッフェの女》を出品。


「私が初めて彼を知ったのは、昭和三年の初夏の頃である」と前田夕暮はいうが、おそらく記憶ちがいで、歌人楠田敏郎を介して利行が前田夕暮と面識をえたのはこの年あたり。たちまち利行は前田邸に日参して、無理やり絵をおしつけ金を無心し、それだけでなく肖像画をかかせてほしいと頼みこんだ。

私を描いてくれる人に   前田夕暮

私の肖像を描いてくれる人に希望する。

私を裸で青い草の中において貰いたい。青い草のなかに、冷たい草のなかに、ひっそりとおいて賞いたい。そして、私のからだの廻りには青い丈長の革をずんずんと日の方へのびているさまに描いて貰いたい。寝ている私の体の下の地面から生えた草のうす赤い芽が、私の肉体を貫いているところを描いて貰いたい。私のからだから一面に草が生えているところを、その草が青く空までのびているさまに、すこし思い切って豊かな想像を光らせて描いて貰いたい。

(『前田夕暮全集』第三巻 角川書店)

夕暮れがやや感傷的にかつ、やや超現実主義的な図柄の注文を独白のように文章に書いたのは昭和四年のこと。

夕暮はすでに一年前に利行の訪問を受け、百点前後の作品を半ば強引に引き取らされている。

夕暮は自分の肖像画に注文までつけておきながら始終、家へ出入りしている利行に依頼した節はない。要求の結果を怖れていたのかもしれない。

夕暮が靉光の存在を知っていたのかどうか分明ではないが、彼の注文は靉光の画風に合っているように思えるが…・・・。

昭和五年六月未の夜十時頃、三十号キャンバスを抱えた利行が突然、夕暮の家へやってきた。

「先生の肖像画を描かせて下さい」

利行の要求は常に唐突である。

夕幕は五日か十日くらい日数がかかるだろうと思って楽に構えている。

「これから描きます」

「ぎょうはもう遅いし、日を改めて……」

「いえ、今夜じゅうに描きます。ぜひともお願いします」

「…‥仕度はどうする。このままでいいのか」

利行は夕暮の顔をじっと見つめて、

「洋服を着て下さい」

と言った。

夕暮が着替えて二階の書斎へ行くと、利行はキャンバスの前で目をギラつかせじっと体を構えていた。

「いうままに藤椅子に腰をおろした私の顔を暫く凝視していた彼は、忽ち嵐のように画布に絵の具をなすりはじめた。私はこの時彼の凄まじい原動力をもった、縦横無碍の、霊ある手をみた。

彼の手はただ狂暴に、時に粗硬なタッチの響きをたてて暴れ廻り狂い廻った。そして約一時間半で描きあげてしまった。

それから、私は全く彼を不気味なる天才と呼ぶようになった。(後略)」

(『前田夕暮全集』第四巻 角川書店)

夕暮は自分の肖像画を気にいり愛した。額縁に納め書斎の壁に掛けた。

利行の傍若無人の行動がはじまった。

外出先から夕暮が帰宅すると、利行が書斎に上がり込んでキャンバスに向かっていた。

「なにをしている・・・」

「・・・」

利行は鉢植えのゴムの木を描いていた。

八号キャンバスにゴムの木だけを単純化して描いていた。あっという間に仕上げ、夕暮はこの作品がいたく気に入った。

翌年の二科展に利行は「タンク街道」「ポートレエ(前田夕暮像)」とともにこの絵を出品したがこれだけ落選した。

しかし夕碁のこの絵に対する愛着は深く、彼はのちに帝大眼科に白内障の手術のために入院した際も、病室の壁に掛けいつも身近に置いていた。

だが絵の出来栄えとは別に、自分の留守中に書斎に他人が上がり込むという不躾、非礼は温厚な夕暮ではあっても許せることではない。

「他人の家に上がる時は許可を得るように・・・」

夕暮は厳しい言葉で利行をたしなめた。

利行はこれくらいでは怯まない。というより、ここからが利行自身に激しい葛藤をもたらす正念場といえるかもしれない。

(吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館))


また夕暮は次のようにも書いている(「長谷川利行の手」『晴天祭』明治美術研究所、一九四三年)。

・・・唯彼は確かに独創的な手をもつてゐた。彼の手の五本の指は他のいかなる人の指よりも細く長く勁く、痩せて節くれだつてゐた。そしていつも油絵具によごれて、ねちねちとねばりをもつてをり、何物をも把握しようとする強い意欲をもってゐた。(中略)

彼は、いつもその掌を私の前に無遠慮に - 時に甚だ臆病らしく差出して、私から彼の欲するものを要求した。要求したといふよりは略奪したのであつた。

私は彼の魅力のある手を愛した。私は彼の把握力のある手を愛した。

私は彼の手を天才だけが所有するものだといつた。但し、それは単なる天才ではなく、不気味なといぶ言葉をもつた、それはえたいの知れぬ原始的性格をもった、台風のような手である。彼の掌のなかには神と野獣と人間とが同棲してゐた。


「矢野によれば、当時新大久保にあった前田邸の廊下に置かれたミカン箱の中には、利行が持ち込んだスケッチや水彩が、うず高く投げ込まれていたという。つまり、いかに度々利行が夕暮にたかっていたか、ということだ。

また夕暮が利行に、人の家に無断で上ってはいけないと注意すると、三時間も玄関の土間にじっと立って待っていたことがあった。女中はまた利行がくると怖いので暇をくれと言いだした。

そういう利行と夕暮の関係であったが、結果的に夕暮は約一〇〇点もの利行作品のコレクターになっていたようだ。つまり夕暮は利行を天才と認めていたのである。たとえそれが「不気味なる天才」であったにしても。」(大塚信一『長谷川利行の絵』)


追憶  前田夕暮

三十号カンバス一面に塗りつぶして、嵐のやうに私を描いた彼

拾った板きれに、野獣派のどす黒く描いた工場地帯など ー

ボイラー赤く巨大にあらはし、背景黒黒と塗りつぶした風景画の粗面

あさみどりの草原 - 火薬庫ひとつ遠景に描いた妖しげな美しさ

ぬらぬらした手であった、街上で私の前に美し出した彼の掌(てのひら)

高崎正男編『長谷川利行画集』(明治美術研究所、一九四二年)収載


「前田夕暮は一八八三(明治一六)年神奈川県大住都南矢名村(現・秦野市)生まれの歌人で、一九五一(昭和二六)年に東京で没した。本名は洋造。二一歳の時に上京し、尾上紫舟に師事。国語伝習所、二松学舎に学んだ。紫舟が中心になって車前草社が結成されると、若山牧水、三木露風らとともに参加。一九一〇年には処女歌集『収穫』を出版。同年刊の牧水の『別離』とともに、自然主義歌人の代表的作品として並び称された。一一年には、利行も投稿することになる雑誌『詩歌』を創刊。数多くの歌集を持つ。後に『前田夕暮全集』全五巻(角川書店、一九七二-七三年)としてまとめられた。

利行が《ポートレエ》を描いた頃には〝新短歌〞を提唱し、口語自由律短歌を制作していた。戦争の激化に伴い、新興短歌運動は抑圧され、夕幕も一九四三年初めには定型に復帰せざるをえなかった。」(大塚信一『長谷川利行の絵』)


9月、第17回二科展(9.4-10.4 東京府美術館)に《ポートレエ(前田夕暮氏像)》《タンク街道》を出品。

「長谷川利行君は強烈な色線をもつて独自なポートレー、或は風景を描いている」(不破祐正「洋画・彫刻界の新人」)。

「長谷川利行〈ポートレー〉自分でやりたい事を直截に勝手にやる人で君程の人は少ない、だから画面はいつも生気に満ちてゐる」(児島善三郎「二科新進作家群評」)。

「長谷川利行氏-二点のうち、どちらかと云へば、白つぽい〈ポートレエ〉がいゝ。〈タンク街道〉は題材は面白いのだが、色感は同感し兼ねる。同じ色調の行き方でも、かつて樗牛賞を得た〈酒場〉時代のものとは較べものにならぬ程悪い」(矢野文夫「二科印象」)。


「瓶にさした紅い薔薇を、その頃私はカンバスに描きかけのまま投げ出しておいた。私の留守に上がりこんだ利行は、この絵を発見して、さっそく筆を入れはじめた。要領よくムダを削って、要所をまとめ、素晴らしい生物画が出来上がった。帰って来て、私はこの絵を見て感嘆した。ふと机の上を見ると、紙片に『絵とはこういう風に描くものです。利行』と走り書きで書き残してあった」(矢野文夫『長谷川利行』)。


長谷川利行《タンク街道》1930昭和5年


■《タンク街道》

1929年6月2日付の利行の矢野文雄宛葉書

反古で失礼。御作品ミセテ頂キニ上ル筈デ御座イマスガ、先夜寺島カエリニ千住タンク地帯ガ気ニ入ツタモノデスカラ、昨日卜今日、油絵ヲ描キニ出カケル所デス。又オ目ニカゝリマシテ。不一。                                          日暮里 長谷川利行拝上


「「千住タンク地帯が気に入った」と書いているが、これは白鬚橋の東京瓦斯のガスタンクのこと。翌年の第一七回二科展に《タンク街道》 (図17)を、三二年の第一九回展に《ガスタンクの昼》を出品していることから分るように、これは利行のお気に入りのテーマだった。やがて矢野は、この風景を描く利行のすさまじい迫力に驚嘆することになる」(大塚信一『長谷川利行の絵』)


「・・・路傍に画架を立てるなり、利行はそれこそ台風のような凄まじさで、チューブのまま絵具をビエツ、ビュッとなすりつけ、ナイフで削り、「ウォッ、ウォッ!!」と咆哮しながら描き続けた。二時間かからなかったと思う。紅、朱、緑の原色の映発。路地の突き当りに、大きく屹立する瓦斯タンクは、利行の言を借りれば「魔物らしい対置」で、空を摩して聳えている。爆発するような、フォーヴ的筆勢の烈しさ。見ている私も、庄倒されたのを覚えている。私は描きかけのスケッチを破り捨てた。

「矢野氏、こんな工合だよ」といい、利行は快心の微笑をみせた。利行は重いカンバスをしょい、バスで吉原土堤までゆき、蹴とばしの「小林」で、馬肉のすき焼で酒を飲んだ。壁にカンバスを立てかけ、じっと絵を凝視しながら酒を飲む利行は、上機嫌で口数が多くなった。」(矢野文夫『長谷川利行』)


つづく



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