2023年5月29日月曜日

〈藤原定家の時代375〉建仁3(1203)年3月1日~29日 定家、元服した子為家(6)を後鳥羽院に披露 「感悦の余り、落涙禁じ難し」 後鳥羽院の熊野御幸(5回目) 定家、良経より讃岐の一村と若槻庄を与えられる 定家、結石を患う

 


〈藤原定家の時代374〉建仁3(1203)年2月17日~30日 密かに大内花見 「年をへて御幸(みゆき)に馴(なれ)し花の陰(かげ)ふり行(ゆく)身(み)をもあはれとや思ふ」(定家) 「定家は四十二歳、、、、なかで長明は最年長(四十九歳くらい)であったろうと思われるが、この長明が横笛を用意して来ていてそれを吹き鳴らす、というところが私には何とも言えず面白いのである。」(堀田善衛) より続く

建仁3(1203)年

3月1日

・定家、越中内侍を通じて元服した子為家(6)を後鳥羽院に披露したい旨申入れて容れられ、為家を連れて参院。御製の和歌一首と引出物を賜り、感涙禁じ得ず。

3月6日、為家を連れて今度は春宮に参り、造物(つくりもの)を賜り、女房からは饗応の詞を頂く。

・遅明、社頭を出で、京に帰る。巳の時、為家を相具し、院に参ず。一昨日、越中内侍を以て申し入る、勅許あるにより参上せしむ。内侍来り、北面より参ずべきの由、相示す。すなわち御前に参ず。御製一首を賜り、帰り出づ。感悦の余り、落涙禁じ難し。引出物を賜る由、仰せ事あり、恭々す。すなわち退出。(『明月記』)

3月3日

・除目の聞書を見る。日来風聞する事、行われず。さしたる事なし、善政か。良経の子道家は、侍従に任ぜられた

心神悩むにより、他所に参ぜず。明日、道家ご拝賀の御供、長兼これを示す。老の身の奉公、粉骨力を尽す。

夜に入り、春宮に参ず。雅経、陪膳により参入。清談、深更に及ぶ。(『明月記』)

3月4日

「将軍家隼人入道が宅に渡御す。・・・御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月4日

・定家、九条道家(良経の子)拝賀に供奉、後鳥羽院の大内御幸に供奉。

・直衣を着して、春宮に候す。道家の御供、催しをこうむる。午終許りに退出す。

束帯し、九条殿に参ず。今日の御幸、領状す。もし、刻限相逢わば、また供奉すべし。細劔なきにより野劔を帯す。侍従同じく参ず。此の間に御装束。打ち袖・濃き単衣・濃き張りの大口・綾瑩・例の下襲(したがさね)。先ず西の透廓に於て、女院に申さしめ給う。予、申すべき由仰せらるといえども、劔を解く煩いあり、弁を以て申さしむ。

次いで院に参ず。拝舞して、昇らしめ給う。良経、予を寝殿に召し、参じて進む。ただ、早く将来すべき由、仰せあり。すなわち、引導し奉る。簾中に女房具し奉り、御前に参ぜしめ給うと。やや久しくして、退出し、参内す。ついで八条院。御所に参じて、退出す。

九条殿に参じ給うの間、先ず法性寺殿に参じ給うべきの由、所司申す。雨を凌ぎて、河を渡り、峻岨を攀ず。進退、度を失す。予を召して、今日の事を問わしめ給う。租々申し終る。秉燭の程、帰りて良経の許に参ず。ついで退出して九条に入り、小食休息す。老骨疲れて甚だ堪え難し。雨を凌ぎて帰参す。女院御所・氏の院参賀。俄にして、学生等着座す。五献終り、退出して、九条に宿す。(『明月記』)

3月5日

・辰の時、熊野御精進屋に参ず。小時ありて退出し、良輔の精進屋に向う。僧都六条の房なり。すなわち家に帰る。

八条院仰せていう、良輔、来る九日、春日に参ずべしと。予、近日所労堪え難し。灸治の後、末だ例に復きず。進退度を失するの由、かねて申す。しかれども、昨日道家の御供に参ず。春日、定めて参ぜざらんか。遠近すでに異なる。嫡庶同じからず。甚だもって治め難し。繁昌御一門の譴責、一身に在り。刑有りて賞なし。遠路の事、身力堪うべからず。今度に於ては、なお術なき由を申す。(『明月記』)

定家は、連日の良経方の晴の儀に奉仕。又良輔の春日社参詣の御供を命ぜられ、迷った挙句辞退した。良輔は、八条院三位の局腹の兼実の庶子である。良経・道家の正系ではない。

3月6日

・定家、為家を伴い東宮に参る。為家は次いで外祖父藤原実宗邸に参る。

巳の一点許りに、為家を相具し、春宮に参ず。狩衣を着すといえども、北面の方より、密々に参ず。造物を給わる。女房饗応の詞あり。即ち退出し、大納言に参ぜしむ(乳人、車に在り)。未の時、帰り来る。恩言にあずかる。即ち相乗りて、家に帰る。為家を鍾愛懇切のあまり、出で行かしむ。身の疾、逐日相侵す。更に向後の事を期し難きの間、見参に入るるため、参ぜしむ。少年たりといえども、外人を嫌わず、「事ニ於テ穏便、至愚ノ者ニアラズ。」(『明月記』)

3月7日

・讃岐が摂政九条良経の知行国になり、この月、定家は讃岐の国衙領の村と若槻庄をあたえられる

後鳥羽院は第5回目の熊野御幸に出立する際、清書した撰歌を還御直後に進上するよう命じる。定家らは前日深更に及ぶまで清書を続け、翌日進上する。

巳の時、御精進屋に参ず。家長がいう、撰歌、この御熊野詣の間に清書、還御最前に進むべしと。当時散々といえども、承わるの由を申す。退出するのついでに、家隆の許に向う。清談移漏して帰る。夜に入り、春宮に参ず。今日、良経より、若槻庄の下し文、讃州一村の庁宣を賜る。畏みて賜るの由を申す。温潤の地、仙洞の地所なり。権門、意にまかせて撰び取り、残る所の立錐、奉公無縁の者に宛てらる。(『明月記』)

3月8日

為家を相具し、春宮に参じ、夕に退出す。(『明月記』)

3月9日

・巳の時許りに、九条に行き、出仕せず。今日、良輔、春日社に詣で給う。右中将御供に参ず。甚雨、老骨に符合せざる事か。適々休息するの日、なお他人なし。(『明月記』)

3月10日

後鳥羽院の熊野御幸。~4月11日。この日、定家は後白河院の熊野御幸進発に参仕。

暁鐘を聞き、御精進屋の門前に参ず。天明に出でおわします。鳥羽の北門に於て、小屋に入り、隠れる。すなわち騎馬し、四墓の辺りに於て、車に乗り、冷泉に帰る。諸病競い起る。終日平臥す。(『明月記』)

3月11日

・腹下りて辛苦。小便に極めて煩う。疑うらくは、これ石痳(せきりん、結石)の病か、明後日、一品宮熊野より御入洛。稲荷に参ずべき由、院・八条院両方より催しあり。病中にて不参。(『明月記』)

3月12日

為家、春宮に参ず。女房、御尋ねある由、示さる。(『明月記』)

春宮は、為家を格好の話し相手と思ったのか。

3月14日

・明晩、月蝕と。為家、春宮に参ず。ただし早く出づ。(『明月記』)

3月15日

・定家、日吉社を参詣。~22日。

天明、京を出て、日吉社に参ずる。日入る以前に宮廻る。病、辛苦。宿所に臥すの間、遂に以て石痳顕現す。この病者、必ず幾年を経ざるか。悲しむべし。(『明月記』)

3月18日

・病気を怖れて、宮を迫らず。(『明月記』)

3月21日

・夕、奉幣し宮廻る。夜前、吉夢あり。(『明月記』)

3月22日

・辰の時、大雨俄に降り、すなわち止む。遅明社頭を出づ。湖水あふるるにより、船に乗る。大津に於て叉車に乗る。関山に於て大雨。巳の時、冷泉に帰る。(『明月記』)

3月23日

・定家、八条院の美福門院月忌仏事に参仕。

御月忌にて、八条院に参ず。良輔の許に参ず。日来御不例と。見参するの後、良経・宜秋門院に参ず。九条に宿す。(『明月記』)

3月26日

「将軍家(御布衣)隼人入道が宅に渡御す。御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月29日

・定家、北野社に参詣。撰歌を祈念し奉幣。

早旦、撰歌の事を祈念するため、北野社に参詣、奉幣して帰宅。(『明月記』)


つづく

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