2023年5月17日水曜日

〈藤原定家の時代363〉建仁2(1202)年5月28日~6月4日 定家、水無瀬御幸に供奉(5/28~6/13) 「相励ムモ益無キノ身、奔走貧老ノ身、病卜不具ト、心中更ニ為方無シ。妻子ヲ棄テ、家園ヲ離レテ、荒屋ニ臥ス。雨寝所ニ漏ル。終夜無聊。」  定家、後鳥羽院の白拍子を挙げての遊びにつきあう 定家、後鳥羽院から褒められる「今日殊ニ宜シキノ由、沙汰アリト」     

 


〈藤原定家の時代362〉建仁2(1202)年5月2日~27日 京都群盗横行するとの『明月記』記事「近日群盗競ヒ起ル。毎夜、人ヲ害スト云々。」 定家の体調不良続く「猶病気甚ダ不快。起キ揚レズ」 子(後の為家)発熱 より続く

建仁2(1202)年

5月28日

・定家、水無瀬御幸に供奉、6月13日まで滞在と聞く。

朝小浴。巳の時許りに浄衣を着して、八条の御精進屋に参ず。一品宮千度の御祓、先日催しあり。予、五十度終りて退下す。向いの小屋に於て浄衣を脱ぎ、鳥羽に行き、船に乗る。

「「雨頻リニ下り、風又烈シ。舟中ニ於テ水干ヲ着ス。直チニ御所こ参ズ。」。

ところが後鳥羽院は早やばやと出て来てもうひっこんでしまっていた。

「暫ク伺候スルノ間、又出御ス。遥カニ見参ニ入り、退下ス。相励ムモ益無キノ身、奔走貧老ノ身、病卜不具ト、心中更ニ為方無シ。妻子ヲ棄テ、家園ヲ離レテ、荒屋ニ臥ス。雨寝所ニ漏ル。終夜無聊。浮生何レノ日ニカ、一善ヲ修セザラン。悲シキ哉。

行く蛍 なれもやみにそ もえまさる 子を思ふ涙 あはれしるやは」」

(堀田善衛「定家明月記私抄」)

長男為家は発熱していた。

5月29日

・定家、冷泉邸近くの発(おこり)に効くという祇陀林地蔵(ぎだりんじぞう)に参るよう家人に指示。

今日為家、冷泉の家に近い故、祇陀林地蔵に於て試むべき由、昨日示す。

「定メテ其ノ験無キカ。重ク発ルノ間、心中更ニナス方無シ」

午の時許りに参上。出でおわします。例の如し。

申の時、退下するの後、雨降る。今度、外人の輩、数少なし。

夕に京の使来りて、為家発ると。ただし一昨日に似ず、頗るよろしきの体か。明後日、蓮花王院に参ずべしと。(『明月記』)

5月30日

・巳の時に参上す。向殿に渡りおわしまして後退下。明日以後神今食の御神事と。羇旅(きりょ)の雨中、胡地を指す。妻児、ただ戒人に縛さるるが如き思い、一事の面目無く、交衆に応う。後輩の若冠、悉く卿相たり。眼疲れ、心摧く。遂に何の益か有らん。(『明月記』)

病児を捨て置いての連日の勤仕。定家は報われることなく、若冠の者、すでに公卿となる。旅愁は雨中に身に沁むものがある。それでもなお定家は、水無瀬の荒屋に宿して、明日の勤仕にそなえる。

6月

・建仁寺建立。この月、将軍頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建仁寺建立。

6月1日

・定家、雨の中を冷泉邸に帰る。

雨を凌ぎて参上。水無瀬川あふれて、鞍を浸す。よって舟に乗って渡る。進退度を失す。ぬれねずみとなって参上する。

未の時、陰陽博士晴光、仰せにより、御卜に奉仕す。此の雨、大事に及ぶかの由なり。晴光申していう、分けて卜占不快におわします、もしくは洪水の如き煩いあるかと。又、然らば京に還りおわしますべきかと。又申していう、此の御所に於ては、別事なきかといえり。これより先、還御の沙汰あれども、この卜いにより、たちまちに停止すと、未終許りに出でおわしまし、見参に入る。

退去し又船に乗りて退下。羈旅の思いなす方なし。

後に聞く。院また出御、侍臣に枇杷を給う。隆清中将・親実朝臣、馬を以て川を渡ると。

(定家、家のことが案ぜられ、雨を凌いで京に帰る。)

初夜の鐘の程に、冷泉に着す。為家、今日蓮花王院に於て、療病、落ちたりと。喜悦極まりなし。沐浴して倒れ臥し、いささか心を慰む。(『明月記』)

6月2日

・定家、後鳥羽院の白拍子を挙げての遊びにつきあう。

辰の時に京を出て、三条壬生に於て騎馬し、宿所に馳せ、午の時許りに参上す。

今日、人々白拍子を預かる。悉く新しい装束を着して参集と。遊女は、今度衣裳を賜らず。各々あずかる人々を忽ち召しに遣わすべし。各々参集し、出でおわします。

遊女例の如く参上す。郢曲了りて退く。ついで白拍子、女房の御簾の前にて舞う。御所甚だ近し。

心なきにより、予退下す。病気不快により、休息するためなり。昨今の遠路に、身体疲る。妻児を憶うにより、山水を凌ぐのみ。(『明月記』)

「六月二日には、「午時許り今日ノ人々参上ス。預(アラカジ)メ白拍子悉ク新装束ヲ着ケ参集ス」というところが出て来る。

白拍子とは遊女であり、遊女とは文字通り家を出た女である。家を出た女が何をして生計をたてるか。京に妻子を残して来ている連中に、後鳥羽院から遊女が下しおかれたのである。大体この遊女なるものは水駅(川の泊り場所)に小舟を操っていたり、神社などにたむろしていたものであるが、これが大挙して後鳥羽院のサロンにむらがっているのである。この月の十日には「白拍子ノ女、六十余人」をあげたりしている。定家はこういうものどもを好まない。

定家が個人的にこういうものどもを好まないということもさることながら、時代がすでに源氏物語風な「色好み」という、性を含んでの自由かつ遊戯的な男女往来の、一つの文化形態を失いかけていることを、これらの遊女、白拍子等の大挙しての宮廷侵入が証明しているであろう。

こういう女性たちほ何をするか。遊女は歌い、白相子が舞う。後者は水干、立烏帽子の男装で踊ったものである。男装の踊り子-性的倒錯が来たす刺激にむかしもいまもありはしない・・・随身のつれている童子は「歯ニ鉄(おはぐろ)ヲ付ク。甚ダ黒シ。又粉黛ヲ施ス」という有様である。(三月廿六日〕

・・・宮廷の彼らのする遊びごと、競馬、鶏合、賭弓、博奕、双六、隠れん坊、自拍子舞、乱拍子、乱舞、今様、郢曲、やや大規模なものでは東遊び等々の、このうちのどれをとってみても、そのほとんど全部は社会の下層階級が創出したものである。ということは、これを逆に考えれば、社会の上層部に実は文化創造の力が無くなって来ている、それが萎えて来ていればこそ、俗間のものが宮廷にまでひたひたと浸入して行くのである。和歌にまでそれが滲みて行かない筈がない。歴史の一般的力学においては、社会の上層部の下降志向は革命の前夜を意味した。後鳥羽院は宮廷最後の詩人である。」(堀田善衛「定家明月記私抄」)

6月3日

・定家、後鳥羽院より歌題を賜り詠進。

午の時に参上す。今日、水干を改む。湿損するによるなり。

小暗ありて、家長、御前より出で、題一枚六首を給わる。ただ今詠進すべしといえり。

愚案をめぐらすの間、ようやく出でおわします。例の如くに遊女着座す。通親、歌を見せられ、又愚詠を見らる。頗る以て会釈の気あり。

小時ありて、家長歌を召す。即ち進め終る。

又小時ありて、清範来りていう、今日殊によろしきの由、沙汰ありと。ついで遊女退下す。

やや久しくして、清範来りていう、御製未だ出で来ず、明後日許りに、沙汰あるべきなりと。

小時ありて、退下す。(『明月記』)

「六月三日には「例ノ如クニ遊女着座ス」のなかで「愚詠ヲ見ラル。頗ル会釈ノ気ニ似タリ。(中略)今日殊ニ宜シキノ由、沙汰アリト。」なかなかいいじゃないか……。その次の次の日、「夜ヨリ又甚雨。終日濠々」のなかで、後鳥羽院の御製六首が下って来た。まだ若い後鳥羽院は、その遊び狂いと同じ大精力で歌道修業中でもあるのである。御製は一見してすぐに返さねはならぬ。

定家は、その出来栄えに感銘したようである。」(堀田善衛「定家明月記私抄」)

院一行が狩猟に出かけた時は、むろん留守役である。そんな定家に、院から歌の題が出され、すぐに詠進するようにとの下命があった。建仁二年(一二〇二)六月三日のことで、院出御のもと、遊女らが着座している中で定家が詠進した歌を見た内府(通親)から「頗る会釈の気」があった。その歌は院に進められ、しばらくして「今日の歌は殊に宜しいとの沙汰があった」と伝えられている。そればかりではなかった。この定家の歌に院の歌が合わされることになった。『水無瀬釣殿六首歌合』というのがそれで、定家は「面目過分」と喜んでいる。」(『明月記の世界』)

6月4日

・午の時許りに参上す。

未の時許りに出でおわします。遊女退下。向殿におわしまして後退下す。

今日、院還御大略その期なしと聞く。祇園・御霊会過ぎぬる後か。(『明月記』)


つづく


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