2023年5月14日日曜日

〈藤原定家の時代360〉建仁2(1202)年3月24日~28日 後鳥羽院の鳥羽殿馬場で競馬 定家は逃亡「予、逐電シテ退出ス。」「心神無キガ如シ。老屈為方無シ。」「心神疲レ、為方無シ。逃ゲ隠レ了ンヌ。」(「明月記」)   

 

〈藤原定家の時代359〉建仁2(1202)年3月2日~23日 蹴鞠三昧の頼家「御所の御鞠、人数例の如し。この御会連日の儀なり」(「吾妻鏡」) 定家の作歌に対する倦怠感「此ノ間、只古歌ヲ取り乱シ、之ヲ以テ日ヲ送ル。他ノ営ミ無シ。甚ダ無益ナリ」(『明月記』) より続く

建仁2(1202)年

3月24日

・鳥羽の馬場で競馬。午前11時か12時頃から腕々として日の暮れまで続く。

巳の一点許りに、早々の由を聞くにより、鳥羽の馬場(金剛心院前の大路)に参ず。池を掘り、橋を渡す。以前に人々多く参集す。

午終許りに御船にて御幸あり。摂政藤原基通南面に於て、院司長兼を召し、手結いを書かしめ給う。手結いとは、馬の番いである。勝負を見るに、我が方勝の時、座を起ち剣を帯し、指貫のそばをはさみて、禄衣を取り寄せ、これを取り出づる。今日御随身多く負く、輿なきに似たり。六番久武勝つ。誠に叡慮に叶うか。

未だ終らざる間、予、逐電して退出す。池の風術なきの間、逃げて出で終りぬ。時に秉燭に及ぶ。

良経の許に参じて、これ等のことを申して退出、沐浴。

今日中務少輔時賢、束帯し組太刀を帯す、頗る心を得ず。(「明月記」)

「さてこの頃になると、二十三歳の後鳥羽院はまったく気が狂ったかと思われるほどに遊蕩、遊山、博奕(バクチのことである)、蹴鞠(ボール・ゲーム)、競馬に鶏合、賭弓、遊女あそび、それに処々方々に別荘をつくる土建狂い、造園、琵琶その他による音楽、隠れん坊に双六などに耽りはじめ、ひょいと思い付けば女官の車だろうが何だろうが、「惣ジテ毎日毎夜此ノ儀アリ。牛馬ヲ馳セラル」という次第であり、・・・。

・・・廿四日には、鳥羽の馬場で競馬があり、これが午前十一時か十二時頃から蜿々として日の暮れまで続く。この頃の競馬は二頭がつがいとなってやったもののようで、ある組は二時間ばかりもやっても勝負は決せぬ。定家は「甚ダ異様ナリ」と言っているけれども、勝負を決めないようにしていたものであろう。たまには落馬して「顔ヲ打チ破ル」(廿六日)奴も出て来るから面白くないこともなかったであろうが、なにしろ近くは「池ヲ掘り、橋ヲ渡ス」という地勢であったから寒くてかなわぬ。「予、逐電シテ退出ス。池ノ風術無キノ間、逃ゲテ出デ了ンヌ。・・・」という次第である。定家にはわるいけれども、逐電シテというのが面白い、跡をくらまして逃亡、である。」(堀田「定家明月記私抄」)

3月26日

・定家(41)、後鳥羽院石清水八幡御幸に供奉、競馬の大将奏に奉仕。

「職業歌人としての誇りが、彼をして遊芸を好ませないものと見受けられる」。

僕童等遅々たり。日出づる程に鳥羽殿に参ず。予の装束、例の縫腋の束帯、螺鈿の細剣、靴馬を相具す。春宮権亮定通朝臣。随身、ただ尋常の如くに出仕。袴の壷を垂る。随身、朽葉結び染めの袴に藤を付け、童、紫の結び染めに山吹を付く。雑色、青の結び染め、薔薇を付く。皇后官権亮公信朝臣。随身、蘇芳の袴。黄・二藍・皆裏に色々の筋を押す。雑色、萌木・千鳥を作る(花を付けず。如何)。右少将有雅朝臣。随身、朽葉の袴、杜若を付く。童、二藍、薔薇を付く。雑色、赤色、牡丹を付く。右少将通方朝臣。随身、萌木の袴、藤を付く。童、二藍、桜を付く。雑色、赤色山吹を付く。近衛国方相具す。紺青に丹打ちたるに檜扇を付く。右衛門佐隆仲。随身、二藍、桜を付く。童、唐紙、杜若を付く。雑色、唐紙に青地の蘇芳、文に山吹を付く。左兵衛権佐忠清。随身、蘇芳の袴。薔薇を付く。童、赤色に同じ花を付く。雑色、萌木、同じ花を付く。蔵人左近将監橘以康。童、朽葉、杜若を付く。雑色、二藍、薔薇を付く。蔵人左近将監行光。童、二藍、薔薇を付く。雑色、朽葉、藤を付く。侍従実時。童、萌木、山吹を付く。雑色、朽葉(青き袖)、杜若を付く。侍従忠房。童、二藍、千鳥を押す(車の物見なり)。雑色、朽葉、杜若、丸に東ノ文を押すなり。ついで乗尻の上臈を先となし、同じく渡る。

閑道より、御幸以前、宿舎に入りて休息。心神なきが如し。老屈なす方なし。

小時ありて直ちに八幡に参ず。舞人御馬を八度廻す。陪従、橘樹の辺りに於て東遊びの歌笛を奏す。御馬を廻らして歌舞。駿河舞一舞なり。以下急ぎ進むの間、侍従二人逐電す。内府大音声にて責勘さる。公経座を立ちて、尋ね求むるの間、やや久しくして来る。舞大輪に右に三反廻る。次で求子の祖、例の如くに終る。舞楽六。□□□□□□□延喜楽・地久・陵王・納蘇利。此の間の予、催し尋ねられ、馬場の御所に進み出づ。乾の方、桜樹の辺りに相儲く。長房、雅行等の朝臣の禄、此の辺りに在り。御所の御簾を上げ、円座を敷く。雅行・高通、桜樹の蔭にありて行事す。定家、笏を挟み、奏杖を取りて捧ぐ。此の間、西の楽屋の東の簾の下を以て、念人の坐となすべき由仰せあり。よって雅行・高通相引きて定家と三人、その辺りに立つ。ついで競馬。御神楽始まる。勧盃の人、来るべき由、右中弁親国これを触る。よって太鼓の後、定家西の方より西の中門を昇り、御後より東の中門の方に出づ。本の末座、舞人の後、陪従の前より、舞人の座上に坐して盃を勧め、退く。勧盃の問に勝負終る。勝負遅きの間、秉燭に及び、心神疲れなす方なく、逃げ隠れる。戌の時、九条に帰り小浴。亥の時許りに高倉に入り、小児を相具し、子の時許りに冷泉に入りこれに宿す。(「明月記」)

晴の競馬ともなれば、随身・童・雑色の衣裳は、眼も綾に、その色彩は典雅優美である。武官は殊に、かかる時は華麗によそおう。

「廿六日には、鳥羽離宮へ威儀を正して、「余ノ装束、例ノ縫腋ノ束帯、螺鈿(ラデン)ノ細剣、靴馬ヲ相具ス」という恰好で夜明け前から出掛けて行き、・・・「閑道ヨリ、御幸以前、直チニ坂ヲ登り、宿所ニ入リテ休息。心神無キガ如シ。老屈為方無シ。」さてしかし遊楽がはじまり、東遊なる東国風俗歌による舞楽、舞い手十人、歌い手四人、これに和琴、笏拍子、狛笛、篳篥(ヒチリキ)などの伴奏、定家も逃げ出したかったかもしれぬが、「侍従二人逐電ス」 - それからまた御大層な儀式があって、またまた太鼓、鉦で競馬である。その間に酒の一杯くらい出てもどうしようもなく、競馬は日が暮れても終らず、「心神疲レ、為方無シ。逃ゲ隠レ了ンヌ。」この目、家へ帰ったのは夜の十一時である。

さすがに疲労困憊してその明る日は「蟄居」だが、あくる廿八日となればまたまた早朝から馬を借りて出掛けたが、・・・また東遊びである。「所労卜称シ、即チ逃ゲ出ヅ。・・・病気不快、老屈堪へ難シ。」(堀田「定家明月記私抄」)

3月27日

・疲れて冷泉に籠居。(「明月記」)

3月28日

・辰の時許りに参院。神宝未だ渡らず。しばらく見廻し退去、冷泉に入る。

騎馬(この馬は良経に借りる)にて、洞院辻のあたりに立ち見物。舞人以下、一昨日の如し。中御門にて侍の馬に騎し、高倉近衛堤の大路より賀茂の社頭に参ず。

小時ありて御禊あり。御所の御簾を上ぐ。

今日は定家、奏を取るべからず、勧盃も勧めず。所労と称し、すなわち逃げ出づ。秉燭以前、冷泉に帰って小浴し、倒れ臥す。病気不快、老屈堪え難し。(「明月記」)

連日の勤仕に、定家の疲れは激しい。



つづく


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