2023年6月5日月曜日

〈藤原定家の時代382〉建仁3(1203)年8月24日~8月30日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅰ 頼家が承知しないまま、政子らが頼家の家督相続を発表(8/27) これに不満の比企能員は、「独歩ノ志ヲ挿ム」(『吾妻鏡』)      

 


〈藤原定家の時代381〉建仁3(1203)年8月5日~8月23日 後鳥羽院、俊成(定家父)の90歳祝賀を提案(俊成九十賀屏風) 摂政左大臣良経までもが卿三位藤原兼子のもとで家司のように扱われている 「近日、偏ヘニ家務ヲ行フガ如シ」 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕 より続く

建仁3(1203)年

8月24日

・終日甚雨。辰の時許りに女院の御所の良経の許に参上す。はじめて宇治におわしますなり。よろしく二藍(ふたあい)、綾の襖、薄色の指貫(さしぬき)、練り薄色の張り衣を着くべし(老いにより、生衣を着けず)。出でおわしますの期に臨みて、剣を帯す。随身四人、狩衣には、墨を以て、尾長鳥を丸に画く、狩胡籙(かりやなぐい)を帯す。殿上人甚だ少なし。中納言中将殿、浮線綾(ふせんりよう)の赤色の狩衣、浮文(うきもん)女郎花の生衣の指貫。良経の近衛武頼、御供に在り。巳終に、雨を凌ぎて出でおわします。冨小路を南に行く。予、伏見の辺りに於て手輿に乗る。先ず橋を渡り、平等院に入る。御車、向いの岸に於て、御船におわします。直ちに釣殿に着けられ、下におわします。釣殿の廓、御堂の後を経て、先ず御所に入りおわします。御饌。予、御沓を取る。阿弥陀堂に入りおわします。次第に仏経等を閑かる。此の間、予・長兼廻廊の辺りに在り。小時ありて召しにより、参じて進む。仰せていう、もたせたりつる物、進むべきの由、御供の侍に仰ぐべしと。予、帰り出で、大膳進(だいぜんのじよう)敦尚に仰す。檀紙につつむ巻物を、御硯の蓋に入れ、持ち来る。予・これを取り、持ちて参ず。これ納め加えらるる物なり。しばらく戸の外にいる。小々大師の像を拝し、又退下す。又召しによりて参ず。院、御所を新に造らるべきの地を御覧ずべし。その路の間の事、兼時に仰すべしと。出でて、これを仰す。昏黒に、出でおわします。本の路を経て、北の門を出で、各々騎馬す。夜に入りて雨降る。稠人狼籍して興なし。私に輿に乗り、退きて帰る。戌終に九条に着く。沐浴して平に臥す。(『明月記』)

二藍 ; 

ふたあい。藍染をした青に、紅花の赤を染め重ねた紫系の色のことを言う。

8月25日

・頼家の病状悪化。

「左衛門の督頼家卿重病、前後不覚の聞こえと。」(「明月記」同日条)。

8月25日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~29日。

召しにより参上す。酉の時許りに退下す。去る夜、院帰りおわします。「世間ニ大事アリ」。夜に入り、良経より葦毛の馬を引き給う。(『明月記』)

8月26日

・早旦、葦毛の馬を大納言に献ず。京を出て、河陽に参ず。船より直ちに御所に参ず。人々いう、関東の病により、夜前の遊女、放ち出さると。未の時許りに、片野におわします。予等、退下す。(『明月記』)

8月27日

・頼家の知らないうちに、政子たち幕府指導層は、勝手に頼家の家督譲りを発表。

関東関西分割。関東28ヶ国地頭職・日本国惣守護職(そうしゆごしき)を頼家長子一幡に、関西38ヶ国地頭職を頼家弟千幡(実朝)に譲与。

比企氏に対する実朝擁立派=北条氏の明らかな挑発。この譲与案に不満をかくさなかった比企能員を『吾妻鏡』は「独歩ノ志ヲ挿ム」と語る。

「将軍家御不例縡危急の間、御譲補の沙汰有り。関西三十八箇国の地頭職を以て舎弟千幡君(十一歳)に譲り奉らる。関東二十八箇国の地頭並びに惣守護職を以て御長子一幡君(六歳)に宛らる。爰に家督の御外祖比企判官能員、潛かに舎弟に譲補する事を憤り怨み、外戚の権威に募り、独歩の志を挿(サシハサむの間、叛逆を企て、千幡君並びに彼の外家已下を謀り奉らんと擬すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

梶原景時滅亡のあと頼家を支えるのは、頼家の妻の実家、比企氏であった。比企尼は頼朝の乳母の一人で、頼朝が伊豆国に流されると自らも所領武蔵国比企郷に下向し、この地から頼朝に生活物資を送って支援した。頼朝にとって、比企尼は母に等しい存在であった。

そのためか比企尼の血縁者は源氏一門と多く婚姻している。範頼、義経の正妻はともに比企尼の孫、源氏の名門である平賀義信の正妻は比企尼の三女である。

頼家に関しては、母政子が彼を生んだのは鎌倉の比企氏の屋敷で、尼の二女河越尼と三女平賀氏の妻が頼家の乳母に付けられた。そして、頼家が成長すると、尼の養子(甥といわれる)能員の娘が正室となり、二人の間には一幡が生れた。

頼朝の信任あつい比企氏の勢力は相当な広がりを見せている。平賀義信は武蔵国の国司と守護を兼ねている。上野国の守護は比企氏、もしくは一女の婿の安達盛長である。信濃国は比企氏が守護でる。武蔵・上野・信濃と、鎌倉街道上道に沿った国々には、比企氏とその縁者の勢力が及んでいた。

また、北陸地方には比企尼の実子である朝宗が、守護の前身である勧農使として派遣されていた。後に若狭国は一女が生んだ若狭氏・島津氏が、越前国には平賀氏・島津氏が、越中・越後両国は朝宗の娘が生んだ名越朝時が守護に任じられている。このように比企氏は広範な地域に影響力を扶植し、さらに頼家を抱えていた。その勢力は北条氏に十分比肩しえるものだった。

8月27日

・午の時許りに参上す。白拍子十余人を召し集めらる。御覧じ終りて、退下す。心神悩むにより、早く出づ。(『明月記』)

8月28日

・午の時許りに参上す。退下するの後、片野におわしまし、人々皆参ず。予、退下す。(『明月記』)

8月29日

「甲子 将軍家御不例日を追って増気す。仍って鶴岡宝前に於いて八萬四千基の泥塔を供養せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月29日

・心神悩むにより、所労の由を触る。午の時許りに退出す。船を八幡別当に借り、申終許りに九条に着く。又隆聖の車を借り、昏に冷泉に帰る。(『明月記』)

8月30日

・院、今日、還御と。(『明月記』)


つづく

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