2023年6月28日水曜日

〈藤原定家の時代405〉元久2(1205)年1月1日~2月20日 「遠州(時政)椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」(「吾妻鏡」1月1日条) 定家、和歌所での撰歌等の作業に毎日参ずべき由命じられる。

 


〈藤原定家の時代404〉建仁4/元久元(1204)年12月1日~28日 慈円、大懺法院を建立 俊成葬送 服喪 定家、連日写経 初七日から四十九日まで兄弟姉妹が順次担当して沙汰 坊門信清の娘、実朝との結婚のため鎌倉へ出発 より続く

元久2(1205)年

1月1日

・北条時政、垸飯(おうばん)を源実朝に献上。

「遠州椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」

3日「千葉の介椀飯を献る。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月1日

・定家、亡母十三年遠忌料として法華経を写経。~11日。

1月3日

・土御門天皇、元服。

1月3日

・定家喪中にて終日写経。(『明月記』)

1月4日

・俊成法事。(『明月記』)

1月5日

「将軍家正五位下に叙せしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月8日

・定家、方違えのため、嵯峨に行く。雪、紛々たり。(『明月記』)

1月11日

・定家、仏師を呼び、地蔵の像を造るべく依頼。又千手観音画像もあつらえる。去年七月、宇治で母加賀の夢を見る。わが罪障心中悲しみを増し、この事をいとなむ。(『明月記』)

1月13日

・俊成法事、成家修す。(『明月記』)

1月14日

・定家、金光明経を書写

1月17日

・吉田社の南に、院の御所を建てられるため、諸人の領を押し召されると、定家、竜寿御前に聞く。(『明月記』)

1月18日

・俊成四十九日仏事。

俊成法事、雪殊に甚だし。(『明月記』)

1月20日

・後鳥羽院水無瀬御幸。~27日。

1月20日

・良経の子の道家、従三位に叙せられる。(『明月記』)

1月21日

・定家、越部荘より運上の船が沈む

1月22日

・慈円より歌を贈られる。(『明月記』)

1月23日

・定家、為家を公経・八条院・宜秋門院・良経に参らせる

1月24日

・定家、仏事のため妻子とともに嵯峨に滞在。~2月20日。

1月29日

実朝、右近衛権中将

「去る月二十九日の除書到着す。将軍家右中将に任ず。加賀の介を兼ねしめ給う。善信この聞書を御前に持参す。」(『吾妻鏡』2月12日条)

1月30日

・後鳥羽院水無瀬御幸。2月12日。


2月9日

・定家、海慧僧都を呼び、嵯峨の持仏堂に安置した地蔵木像、千手観音画像の開眼供養を営む。兄・姉妹参列。

1月12日

・定家、永代の繁栄のために修二月会を修す。先祖四代夫妻の忌日仏事を嵯峨の堂にて修することを決める

先祖四代とは、長家・忠家・俊忠・俊成を指し、仏事を御子左家(みこひだりけ)の祖長家からとするところに、定家が和歌の家を強く意識したことを思わせ、忌日仏事を「恒例の事となし、不退転となす」(『明月記』)と記し定家の決意のほどを感じさせる。

嵯峨からの帰京後は、翌日より毎日参院し、和歌所での新古今の編纂の仕事を熱心にこなしている。

1月13日

・定家の亡母の十三回忌忌日仏事

1月16日

・もと白拍子石、丹波の局、凞子内親王を生む。簾を編むものの女、被差別部落出身である。(『明月記』)

1月17日

・北条義時(43)、実朝に供奉して鶴岡宮に参宮。

2月19日

・定家、和歌所での撰歌等の作業に毎日参ずべき由命じられる。以降連日和歌所で撰集作業。~27日。

日の入る以後、院に参ず。家長・秀能・宗宣、和歌所に在りて呼び入る。この日来、撰歌の詞を書き、切り継ぎ殊に急がれる。毎日参ずべしと。夜に入りて退出し、嵯峨に行き宿す。風病更に発る。(『明月記』)

2月20日

雪飛ぶ。早旦、嵯峨を出て冷泉に帰る。巳の時許りに院に参ず。終日、日﨟。具親・宗宣・家長等、この事を沙汰す。家長・盃酌を行う。去年、予この事に接せず、所役を果すべきの由、各々これを示す。なまじいに領状す。(『明月記』)


つづく


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