1904(明治37)年
8月8日
第3軍、大狐山及び小狐山を占領
8月9日
第3軍、旅順市街を砲撃
8月10日
黄海海戦
午前5時~8時15分、ロシア太平洋第1艦隊33隻、ウラジオへ向けて旅順口出発。
午前7時55分、東郷司令長官、全艦隊を配備につかせる。
午後0時9分、連合艦隊主力が所定の配備につく。間もなくロシア艦隊を発見。
午後0時20分、「三笠」が戦艦「ツェザレウィッチ」を砲撃。砲撃戦始まる。
午後2時37分、相互の距離が遠ざかり砲撃停止。
午後4時42分、殿艦「ポルタワ」が「三笠」を砲撃。砲撃戦。
午後5時35分「三笠」前艦橋に砲弾、艦長伊地知彦太郎大佐・参謀植田謙吉少佐・小倉寛一郎少佐負傷。
午後5時42分、「ツェザレウィッチ」前艦橋・羅針艦橋に着弾。艦隊司令官代理ウィトゲフト少将以下司令部要員、戦死。
午後5時45分司令塔に命中。艦長イワノフ大佐以下戦死。
午後7時7分、戦闘終る。
日本側死傷225。
ロシア側死傷453。旅順帰着は9隻のみ。「ツェザレウィッチ」らはドイツ租借地膠州湾に逃亡、抑留。「ノーヴィク」はサハリンに逃れ、日本艦により破壊。「アスコリド」は上海に入港、抑留。「ディアナ」はサイゴンで抑留。
〈日本軍〉
第一戦隊 : 三笠、朝日、敷島、富士、春日、日進
第三戦隊 : 八雲、浅間、千歳、笠置、高砂
第五戦隊 : 松島、鎮遠、橋立、八重山
第六戦隊 : 明石、須磨、秋津洲、和泉
第一駆逐隊 : 白雲、朝潮、霞
第二駆逐隊 : 雷、電、朧
第三駆逐隊 : 漣、東雲、薄雲
第四駆逐隊 : 速鳥、朝霧、春雨、村雨
第五駆逐隊 : 陽炎、不知火、叢雲、夕霧
第一艇隊 : 67、68、69、70号
第二艇隊 : 37、38、45号
第六艇隊 : 56、57、58、59号
第十艇隊 : 40、41、42、43号
第十四艇隊 : 千鳥、鵠、隼
第十六艇隊 : 白鷹、39、66、71号
第二十艇隊 : 62、63、64、65号
第二十一艇隊 : 44、47、49号
〈ロシア軍〉
ツェザレウイチ、レトウイザン、ポベーダ、ペレスウエート、セワストーポリ、ポルターワ、アスコリド、ヂィヤーナ、パルラーダ、駆逐艦8隻、病院船1隻
8月11日
第3軍司令官乃木希典大将、「旅順要塞攻撃計画」を示達。
右翼より第1師団、東北正面を第9・11師団が突破。乃木は「遅クトモ八月末ニ攻略ヲ期ス」と言明。但し、旅順要塞の状況、兵力の知識はない。
旅順ロの防備線は、清国時代とは一変し、強固にかつ近代的に整備されている。
3線の防備線には、永久・半永久型の堡塁・砲台がひしめき、在旅順口ロシア軍約4万7千のうち約3万3700が配置され、火砲488門、機銃43挺が配備。
陣地前の鉄条網は3m~4mの縦探を持ち、その鉄条網には電流を通じ、付近には地雷原も敷設。
要塞間の連絡には、被弾による切断をさけるために地下電線がはりめぐらされ、銃砲弾の備蓄も十分であった。
食糧は4万人が8ヶ月間持久できる量が用意され、食肉用として「牛二百八十八頭、山羊二千四十六頭、豚二百三十七頭、鶏多数」を確保し、清国密輸船を利用して食糧を買い入れた。
野戦病院も拡張され、「日露戦争」開幕当時は約千人を収容する設備しかなかったのを、合計3千400ベッドの規模に増やした。
これに対し、日本側第3軍司令部は、旅順口守備勢力を「守兵約一万五千人、火砲約二百門」と、実際の約1/3に見積っていた。
このロシア軍に対し、第3軍は、第1、第9、第11師団を基幹とする「兵力五万七百六十五人、火砲三百八十門」をぶつける。
乃木希典はこのとき56歳、陸軍大将になったばかり。
長州出身の職業軍人で、山県有朋に引き立てられ、明治4年軍制が出来るとすぐ23歳で陸軍少佐に任ぜられた。
明治10年の西南戦争では聯隊長心得として熊本県で戦い、植木坂で敗れて聯隊旗を失った。
38歳で少将になったとき、2年あまりドイツに留学し、鴎外森林太郎と交際した。
乃木は軍政の中枢に地位を占めるような第一級の軍人とは評価されていなく、43歳のとき少将で休職になった。
しかし明治27年の日清戦争が近づくと、彼は起用されて、第1旅団長になり、旅順攻撃に参加した。
その年11月21日、彼の属する山路元治中将の第1師団は旅順港の背後の要塞を急襲し、1日の攻撃で旅順を陥落させた。
翌年4月、中将となり第2師団長に補せられ、台湾占領に赴き、台南に入城した。
戦後、仙台に在任中に台湾総督に任命された。
その後、第11師団長となったが53歳のときに休職になった。
だが、この年(明治37年)、再度現役に戻され、日清戦争における旅順港占領の体験を買われて、旅順攻撃を目的とする第3軍司令官に任命された。
6月6日、乃木は塩太澳に到着。その10日前の5月26日、第1師団歩兵第1聯隊の陸軍少尉であった長男勝典は、南山の戦闘で戦死していた。乃木は上陸の翌日(6月7日)、南山の戦蹟を部下とともに視察した。
第3軍は6月初めから、左翼に第11師団、中央に第9師団、右翼に第1師団をおいて、南山の戦争のあと遼東半島の尖端にある旅順に向って進んだ。途上、商港であった大連は簡単に占領したが、そのあと、勃海湾へ南西に伸びている遼東半島には、峻しい丘陵が幾つも続き、その一つ一つにロシア軍が拠って抵抗した。
8月11日
天皇、参謀総長山縣有朋元帥に対し、旅順総攻撃開始前に旅順ロの非戦闘員が避難できる措置をとるよう、指示。
8月11日
堺利彦(32)、小田原に行き、6月末から加藤病院に入院中の妻ミチ子を見舞い、1泊。14日、16日にも1泊。妻は18日に没。
8月12日
駐韓林権助公使、皇帝謁見。先の外部大臣承諾事項の許可を得る。
8月12日
東郷平八郎司令長官に勅語下る
8月12日
黄海海戦後、芝罘港内に遁走したロシア駆逐艦「レシテリヌイ」を捕獲、日本海軍艦籍に入り「暁」を名乗る。国際問題となる。
8月12日
イエッセン少将指揮ウラジオ艦隊の第7回出撃。
午前6時、巡洋艦3。第2艦隊第2戦隊は蔚山沖、第4戦隊は山口県各島沖に布陣。
8月12日
川村純義、病没。皇子迪宮(3)・淳宮(2)養育係。皇子は皇孫御殿に移る。東宮侍従長木戸孝正(孝允養子・幸一父)が養育担当。侍女足立たか(22、のち鈴木貫太郎後妻)。
8月13日
桂田富士郎、山梨県で猫の体内から風土病の病原中を発見、日本住血吸虫と命名。
8月13日
佐々木喜善宅に大杉栄(19)から手紙と『平民新聞』が届く
つづく

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