1904(明治37)年
10月
福田英子、自叙伝『妾の半生涯』。8、9歳頃から明治34(1901)年女子工芸学校・日本女子恒産会設立まで。
大井の結婚申し込みを承諾したことを「妾が終生の誤り」とする。「先に政権の独占を憤ふれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心資本の独占に抗して、不幸なる貧者の救済に傾けるなり。」。
この年中に再版、翌年には5版を重ねる。
10月
大町桂月「雑評論」(「太陽」)。晶子批判、乱臣国賊呼ばわり。
「戦争を非とするもの、夙(つと)に社会主義を唱ふものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり」と、非戦、社会主義者との関連で晶子をとらえ、前掲第三連に大きな傍点までつけて引用し、「さすがに放縦にして思ひ切つた事言ふ人も、筆大にしぶりたり。されど、草葬の一女子、(義勇公に奉ずべし)とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也」と評す。
さらに桂月は、晶子詩第二連「堺の街のあきびとの/旧家をほこるあるじにて/親の名を継ぐ君なれば/君死にたまふことなかれ/旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事か/君知るべきやあきびとの/家のおきてに無かりけり」を引用し、「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと云ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」と解釈するのである。
また「明星」が裸体画で発売禁止になったことがあるが、裸体画よりも世の中を害するのは、晶子のこのような思想だと決めつけている。
10月
村井弦斎、小説『Hana』を英語で自費出版。
弦斎が日本語で執筆し、川井運吉が翻訳。浮世絵の伝統を引く精緻な木版刷の挿絵を多用した豪華な造りの本。出版の動機は、日本人の美徳を紹介し、国際世論を日本に有利に導くことを意図するものだという。
英国の有力紙「タイムズ」や権威ある雑誌「アシニアム」にも論評が掲載される。
10月
大橋光吉(大橋佐平の三女幸子と結婚)、日本葉書会を設立し、月刊『ハガキ文学』を創刊。
1906年、絵はがきの製造販売および美術書の出版を目的とした精美堂を創業。
10月
加藤高明、『東京日日新聞』買収。
10月
荒畑寒村(17)、満州軍倉庫庫手に採用され宇品~大連に赴く。荒畑の生活を心配して海岸教会長老林氏が満州軍倉庫本部陸軍主計日疋信亮に頼み込む。感冒のため帰国。12月30日解雇。
10月
ベトナムのファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)ら、維新会結成。
10月1日
英軍、チベットから撤退。
10月1日
田添鉄二『経済進化論』発表。発禁となる。
10月1日
総参謀長山県元帥、奏上。児玉大将の辞表却下。北進延期裁可。
10月1日
政府の戦争予算に対し、教育費削減反対同盟成立。
10月1日
(漱石)
「十月一日(土)、橋口貢から、『ホトトギス』挿絵の原画送って来る。
十月三日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。
十月四日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
10月1日
ロシア、ピアニスト、ホロヴィッツ、誕生。キエフ。
10月2日
『平民新聞』第47号発行
小田頼造・山口義三「伝道行商のために京を発するに臨みて」
「予等は……社会主義の書類を載せたる車をひきつつ旧東海道にそひて西行し、沿道大小の村落都会に於て伝道行商せんと欲す。予等は予め兼行の日数を限定せず、成るべく綿密に此主義の福音を各地に宣伝すべく、沿道の地方を去る数里の僻地と雖ももし諸君の予等を助けらるるあらば、予等は成るべく諸君を訪問して其地に伝道行商せん。此間実に多くの困難と艱苦に遭遇すべし、されど予等はこれに堪ふるの勇気を養ふと共に、諸君が予等の微力を憫(あわれ)み予等を助けて今回の行を成就せしめらるることを信ぜんと欲す。予等は貧弱なる寒生なり、従って自活の費を主義書類販売より得たる利益に求めざる可らず、諸君よ、予等が此の事実を諒とされて談話、講演、演説に将文(はたまた)書類販売に大小斡旋の労を採られよ、是れ予等の切望して止まざる所也。」
10月2日
佐々木喜善が大杉栄(19,白蒲君)に手紙を出す。この頃、大杉は「白蒲」という号を用いていた。
10月2日
ドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)、ヘレロ人、オバンボ人、ナマ人の対ドイツ抵抗。ヘレロ族の首長が独に宣戦布告(独人入植者に土地を奪われたため1月に蜂起)。ドイツ軍最高司令官トロータ将軍、無差別殺戮指示。反乱は1907年にようやく鎮圧。
10月2日
(露暦9/19)ロシア、ガボン組合第1回総会。海員1,200人。
10月2日
オーストリア・ロシア、相互中立声明。
10月3日
東京日比谷で国民後援大会。
10月3日
フランス・スペイン協定締結。モロッコ統一と独立を公式承認。分割統治の秘密条項。地中海沿岸部はスペインの影響下に。
10月3日
トーマス・マン、カタリーナ・プリングスハイム(愛称カーチャ)婚約。翌年1月結婚。
〈この年後半の日露戦の概況〉
①10月、奉天付近の約22万人のロシア軍が攻撃に転じて南下し、遼陽付近を守る約12万人の日本軍と沙河で衝突して「沙河会戦」が起こるが、退けられる。
②旅順では日本軍が「第2次旅順総攻撃(10月度)」を開始。前回の強襲攻撃とは異なり、旅順要塞の拠点を少しずつ攻略する方針をとった日本軍は、約4千人の死傷者を出しながらも要塞の包囲網を狭める。
③ 11月、日本軍は「第3次旅順総攻撃」を行い、またもや多くの兵士の命を犠牲にしながら、旅順要塞を攻略するために必要な地点を押さえることに成功。
④翌明治38年(1905年)1月2日、ついに旅順要塞は開城、半年に及んだ旅順攻防戦は日本軍の勝利に終わる。
10月4日
ロシア軍主力が日本軍への反撃のため、奉天から南下を開始。
(クロパトキンは新たに第2軍司令官に任命されたグリッペンベルグが着任する前に戦果を得ようとした)
日本の満州軍総司令部では、遼陽北側の現陣地でロシア軍を迎え撃つか、現陣地から打って出るか意見が分かれる。
10月4日
ロシア満州軍東部兵団前進。翌日、西部兵団も前進。
10月4日
遭難したアメリカ船ベンジャミン・シオール号の船員、台湾で殺害。
12月17日 米公使抗議。
10月5日
28センチ砲12門追加
10月5日
小田野声(頼造)・山口孤剣(義三)、東京~下関、徒歩で社会主義伝道行商。翌明治38年1月25日、下関着。
社会主義協会員65人獲得、演説会・講話会18回、書類販売1,097冊。
小田は、その後、九州一円の伝道行商敢行(明治39年、伊藤證信の無我愛に共鳴、社会主義を捨てる)。
10月6日
第8師団、大連湾に上陸開始
10月6日
南方熊楠、足かけ3年の熊野植物調査を完了、勝浦を出発、途中採集をしながら田辺へ歩く。田辺定住生活始まる。
10月6日
ロシア、レーヴェリ軍港、皇帝・皇太子・皇太后、バルチック艦隊、巡視・激励。
つづく

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