2025年7月25日金曜日

大杉栄とその時代年表(566) 1905(明治38)年2月1日~6日 「或夜加藤氏は僕と社会主義論に夜を更かして、談偶々(たまたま)『直言』の事に及ぶや日く、今こそ反古同様の雑誌だが、必ず一度は大活動する時が来るよ、否大に為さねはならぬ時が来るよ、ソレを楽みにお互に苦労しやう、家の費用をどんなに節約しても、此雑誌の維持金ぐらゐ出して行くよ、但し今は活動の時でないから、筆も極めて柔かく行くのが後日『直言』を役に立たせる為に必要だ。同志は何んと誤解しても必ず成程サウであったかと首肯させる時が来る。当分は社会改良主義ぐらいに止めやう。 果然『直言』活動の時は来った。あゝ昨日までは同志の間にすら辛うじて其存在を認められた、微々たる一小雑誌『直言』は、此処に社会改良主義の仮面を去って、快なる故、日本社会主義の中央機関となったのだ。」(原霞外「『直言』活動の時」)

 

『直言』

大杉栄とその時代年表(565) 1905(明治38)年2月 「一国の気勢悉く戦争に趁(はし)り、戦争より云へば閑事業たる文芸の如きは漸く度外視され、加ふるに財界の緊縮論は心霊上の作物を冷遇するの状況を呈し、陸に海に、戦は連勝連勝の好果を収めたれども、文芸上の産物は絶無とも云ふべき姿にて又一年を終りぬ。」(平出修「昨年の文芸界」) より続く

1905(明治38)年

2月1日

(漱石)

「二月一日(水)、雪。前の家焼ける。

二月二日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

土井晩翠宛に、自筆水彩画の自画像を送る。前夜、雪のなかで前の家が焼けたのを今日知ったと述べる。」

「夏目漱石の自画像として唯一のものと推定される。」(荒正人、前掲書)

2月2日

(露暦1/20)露、キエフ、ワルシャワ、ハリトフ、カザンの各大学閉鎖。

2月3日

韓国政府、警視庁第一部長丸山重俊を警務顧問に、幣原坦を学政参与官に任用する契約に調印。

2月4日

アルゼンチン、急進党、軍の一部もまきこみみたび武装蜂起。前回を上回る戦果、結局敗北.

2月5日

『直言』第1号発行。

『直言』(第2巻第1号)を平民社機関紙とする(9月10日廃刊)。「本紙は日本社会主義の中央機関也」

元来、医師加藤時次郎の消費組合「直行団」機関紙(明治37年1月5日発行、編集:原霞外)で社会改良主義の月刊雑誌。これが『平民新聞』と同じ体裁で毎日曜日に発行(『平民新聞』が『直言』に改題された)。

また、『直言』の執筆者はほとんど『平民新聞』の寄稿者で、原霞外、山田滴海、堺枯川、石川旭山、木下尚江、西川光二郎、白柳秀湖、小野有香、幸徳秋水、加藤時次郎、小川芋銭、松岡文子、小田頼造、山口義三らである。

大杉栄(20)、『直言』を発行する平民社(麹町区有楽町三丁目)の社友となる。他の社友に、松崎源吉、原霞外、白柳秀湖、山田満海、寺本みち子、末吉栄一、宮崎市郎、村田四郎、柴田三郎、水島定之ら。

白柳秀湖:

早稲田大学文学部予科のときから『直言』編集に携わる。自分と山口孤剣・荒畑寒村を「少年義勇兵」と称し、3人とも無報酬で、原稿を活字にしてもらうことだけを楽しみに働いていたという。

秀湖は永井柳太郎、松岡荒村、山田滴海(本名・金市郎)らと「早稲田社会学会」を創立して、平民社に出入りしていた。

永井柳太郎はのちに早稲田大学教授から衆議院議員となり、拓務大臣や逓信大臣を務める(息子は教育社会学者の永井道雄)。堺は永井柳太郎について、「こゝに現はれる意外な姓名として最も大なる一つだろう。(中略)堺の出獄歓迎の十二社写真の中に、社会学会の白旗を押立てゝ居る彼の制服姿が見える」と書いている(「日本社会主義運動史話」)。

■「本紙の責任及覚悟」

本紙は社会主義の機関紙のなかで創刊の日もっとも浅く、発行部数もっとも少なく、勢力またもっとも微弱を免れないが、之を以て決して使命責任を避けるものではない。『平民新聞』に集注された全国同志の同情と援助は、さらに本紙に傾倒せられている。

社会主義の機運は明らかに熟して来ている。

「天時、地理、人和、倶(とも)に之を得る者にあらずや、如此にして猶ほ起たずんば、将(は)た何の時をか期せんや」。

「今日以後の本紙は、独り満天下同志が公有の機関たるのみならず、実に其中央の機関たる者也。否な中央の機関紙たるのみならず、実に其唯一の機関たる者也。本紙の責任や大也、本紙は此大なる責任を全くせんが為めに、即ち今月今日を以て、編集社務に於て一大刷新を行ひ、発行回数を増加して週刊となし、紙幅を拡張して平民新聞大となし、更に材料を精選し、体裁を改善し、以て一飛躍を試みんとす。本紙の云為する所、果して自ら期する所に合し、同志の望む所に副ふことを得は、幸ひ甚し。」

平民社維持基金に代って新たに募集された社会主義運動基金に関して・・・。

「平民社は常に四方硝子張の如くにして、社中の事務も経済も生活も一切同志諸君の前に公表して、諸君の同情と助力とに依頼して来ました。然るに今や我々の運動は種々なる圧迫と妨害とを受けて、到底従来の形態を保つ事が出来なくなりました。四方硝子張と言ふ訳にも行かなくなりました。一切の経営劃策を暗中に行はねはならぬ事になりました。而して同志諸君の同情と助力とに依頼すること、更に多大ならざるを得ざる次第であります」と訴える。

運動基金は現に一千余円を算しているけれども、しかし数百円の罰金と印刷器械没収の賠償金を負担しなければならぬのみでなく、現状の下では公表し難い費用を要し、また将来、いかに測り難い費用を要するかも知れない。「故に我々は敢て茲(ここ)に諸君に訴へて、率直に其供給を求むるのであります」

幸徳秋水「予は直言す」。

文章は「直言」発効機関の社会改良団体「直行団」への希望をのべたもの。

文中に「予は直言す、・・・耶蘇教に至りては、尤も嫌ひ也、・・・偶像を拝して泣く人、大に嫌ひ也、・・・」あり。

21日、内村鑑三「基督教と社会主義(再び)」(「聖書之研究」第48号)で「直言」を引用し、「是を以て見ても社会主義が基督教の親友でない事は最も明白に分かる、・・・」と書く。以後、「聖書之研究」に社会主義者の著作雑誌の公告は掲載されず。これより前に「花巻非戦論の件」あり。内村の門下生斉藤宗次郎は非戦論を実践すべく兵役・納税拒否を決心。12月19日、内村は花巻を訪れ「聖書の曲解」と指摘、説得。内村は、今後予想される社会主義者弾圧に巻き込まれないため、社会主義に対する態度を鮮明にしておく必要に迫られていた。

原霞外「『直言』活動の時」

「或夜加藤氏は僕と社会主義論に夜を更かして、談偶々(たまたま)『直言』の事に及ぶや日く、今こそ反古同様の雑誌だが、必ず一度は大活動する時が来るよ、否大に為さねはならぬ時が来るよ、ソレを楽みにお互に苦労しやう、家の費用をどんなに節約しても、此雑誌の維持金ぐらゐ出して行くよ、但し今は活動の時でないから、筆も極めて柔かく行くのが後日『直言』を役に立たせる為に必要だ。同志は何んと誤解しても必ず成程サウであったかと首肯させる時が来る。当分は社会改良主義ぐらいに止めやう。

果然『直言』活動の時は来った。あゝ昨日までは同志の間にすら辛うじて其存在を認められた、微々たる一小雑誌『直言』は、此処に社会改良主義の仮面を去って、快なる故、日本社会主義の中央機関となったのだ。」

2月5日

広島県横川~可部間に乗合自動車営業開始。11月には馬車業者の反対で廃業。

2月6日

(漱石)

「二月六日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで、Hamlet を講義する。

二月七日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで、Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

二月九日(木)、『幻彫〔まぼろし〕の盾』執筆する。(二月八日(水)、九日(木)、十日(金)、学校休むことにする。)」(荒正人、前掲書)


つづく

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