2025年9月17日水曜日

大杉栄とその時代年表(620) 1905(明治38)年10月10日~14日 1905年ロシア第一革命① 「偶発的に起こったストライキは、いったんはおさまったものの、思いがけず鉄道に飛び火し、全力疾走しはじめた。10月10日に始まったストライキは、すでに政治的スローガンを掲げており、モスクワからたちまち全国に広がった。このようなゼネラル・ストライキは世界でも例を見ないものだった。多くの都市の街頭では、軍隊との間で衝突が繰り広げられた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

1905年10月のモスクワのデモ

大杉栄とその時代年表(619) 1905(明治38)年10月6日~10日 「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」(略) 「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」(略)  「東郷大将が大和魂を有(も)って居る。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有って居る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」(略) 「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエへンと云ふ声が聞こえた」(略) 「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」(略) 「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。(略)大和魂はそれ天狗の類か」(『吾輩は猫である』(第六回)) より続く

1905(明治38)年

〈1905年ロシア第一革命〉

〈10月ゼネスト、ペテルブルク・ソヴィエトの成立、10月宣言〉

9月後半、ペテルブルクでは多数の労働者、市民が夕方になると連日各大学に集まり、公然と姿を現わした社会民主党、エスエル弁士の主張に深更まで耳を傾けた。集会では主に国会選挙の問題が議論され、選挙ポイコットの気分が強かった。

10月初め、ぺテルブルク印刷労働者は、モスクワ印刷労働者のストに対する3日間の連帯のストに入った。

モスクワでは、9月後半、印刷労働者のストがおこなわれ、この連絡、指導のために労働者20人ごとに1人の代表を選出して、印刷労働者ソヴィエトが結成されていた。このソヴェトは賃上げを主目的としており、労働組合のような性格をもつものであった。

ぺテルブルク印刷労働者の3日間のストは大きな事件ではなかったが、モスクワ印刷労働者ソグェトの経験がぺテルブルクにもたらされたという点で、のちのぺテルブルク・ソヴェトへの刺激を与えた。


印刷労働者のストの後、10月の大ストライキがモスクワから始まった

9月末~10月初めのモスクワでのストの高まりは鉄道労働者の意識を高揚させていたが、賃金問題を中心としてぺテルブルクで開かれていた全ロシア鉄道員同盟の大会が、大衆の圧力により政治的要求を提起するに至り、政府が大会参加者を逮捕したといううわさがモスクワで広がった。

かくして10月7日、モスクワーカザン鉄道の労働者がストに入った。

ストは他の鉄道線にも拡大し、10月10日にはモスクワに通ずる全鉄道が停止し、モスクワの工場もストに合流し始めた。

かかる情勢の中で、ポリシェヴィキ・モスクワ市協議会は、翌11日12時からゼネストに入る決議を採択し、労働者へのアピールを発した。この頃からモスクワはゼネストに入っていった。

一方、鉄道ストはたちまち各地に波及し、10月14日には、ストは、ロシアのほとんど全鉄道をおおった。

政治的ゼネストは、10月10日、モスクワ(既述)、ハリコフ、レーヴェリで始まり、11日にはスモーレンスク、エカチェリノスラフ、ロッジなどに広がり、10月16,17日には、ロシア全土がストの大波に揺れ動いた。

生鮮食料品は高騰し、郵便・電報は停止し、鉄道株・産業株は大暴落した。


「統計が示すように、1905年の1年だけで、ロシアにおけるスト参加者の数は、西欧および他の先進諸国におけるスト参加者の数の5倍にのぼった。10月にゼネストを呼びかけることができるためには、どれほどの巨大な力の緊張が必要とされたか想像してほしい。2月の運動と10月の大ストライキとのあいだには、赤旗を掲げた黒海艦隊の蜂起があった。その結果が、『国家ドゥーマ〔国会〕』の召集を宣した8月6日の新たな勅令だった。当時、自由主義者は次のようにわれわれに語りかけてきた――『紳士諸君、1905年8月6日の新しい勅令は、立憲体制を宣言した。これで諸君も合法性の基盤(権利)に立脚することができる。諸君の革命的な手段と方法を放棄して、権利の基盤に立とう』。このような言葉を自由主義者はプロレタリアートの党に投げかけた。しかし後者はいつものように軽蔑でもって答えた。その後運動は、10月ストライキとして頂点にまで上りつめ、そのストライキには100万人以上の労働者が参加し、全国家機構を麻痺させた。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より)


「10月のストライキはけっして何らかの計画にもとづいて展開されたものではなかった。それはモスクワの印刷工から始まったが、その後しだいにおさまっていった。どの政党も決定的闘争の照準を翌年の1月9日(新暦では22日)の1周年記念日に合わせていた。だからこそ私も、あまり急ぎもせずに、フィンランドの隠れ家で自分の仕事を仕上げていたのである。しかし、偶発的に起こったストライキは、いったんはおさまったものの、思いがけず鉄道に飛び火し、全力疾走しはじめた。10月10日に始まったストライキは、すでに政治的スローガンを掲げており、モスクワからたちまち全国に広がった。このようなゼネラル・ストライキは世界でも例を見ないものだった。多くの都市の街頭では、軍隊との間で衝突が繰り広げられた。」トロツキー『わが生涯』第14章「1905年」より)


〈ペテルブルク・ソヴィエトの成立〉

10月8日~10日、各地でのストの情報が続々とぺテルブルクへ入ってきて、労働者の気分は高揚してきた。しかし、革命政党の代表は、ゼネストでは政府を屈服させえない、エネルギーを温存して国会選挙のとき、全国的に立ち上がるべきという理由で、いずれもゼネストに反対した。


10月10日

「労働者委員会」へ代表を選挙するようアピール

この日、情勢の高揚に押されてメンシェヴィキは、ペテルブルク労働者に向かって、ゼネストに合流し「労働者委員会」へ代表を代表を選挙するようアピールすることを決定し、各工場から500人に1人の割で代表を選ぶことに決めた。

翌10月11日、約50人のメンシェヴィキ・アジテーターは、労働者に即刻工場でストの問題を決定し、労働者委員へ代表を選挙するよう訴えた。

10月12日頃にはストは大きくなり、代表選挙もおこなわれ始めたが、すでにストに入っていたため集会が開かれないなどの理由のため、代表は必ずしも規則通りに選出された者ばかりではなかった。

10月13日

この日夕方、工業大学で、労働者代表の第1回会合が開かれた。

30~40名の代表が集まったが、ソヴィエトのために選ばれたのは15人だけで、集まった人々には、それがストライキ委員会なのか、革命的自治機関なのか必ずしも統一されていたわけではなかったし、その名称もまちまちだった。

労働者ソヴィエトという名称に統一されるようたのは10月17日頃で、これは機関紙『イズヴェスチヤ』によるところが大きい。

当日の議長はメンシェヴィキのクーゾヴレフ(ズポロフスキー)がつとめた。議題は、ゼネストと労働者委員会(ソヴィエト)創設が中心になり、ストのスローガンとして、憲法制定会議、完全な人民の権利、8時間労働などがあげられた。しかし、代表の立場はさまざまで、代表の数も少なかったので、ストライキ・スローガンを細かく規定せず、ゼネストと500人に1人の代表選出を呼びかけることを決定し、アピールはメンシェヴィキにまかされた。

10月14日

医療関係従業員、技師、俳優など市民もストに合流する決意を表明。

10月14日

第2回ソヴィエト会議。

42の工場、3労働組合代表など100人ほどの代表が集まった。前日の議長、クーゾヴレフは病気にかかったとも、声がしわがれていて大人数の司会にむかなかったともいわれている。で、新しい議長として、ゲオルギー・フルスタリョーフ・ノサーリが選ばれた。

革命政党、ポリシェヴィキ、メンシェグィキ、エスエルはそれぞれの議長候補を出して争ったが妥協に至らなかった。また革命政党の代表は、いずれも大衆にはなじみのない人物であったため、妥協の産物としてどの党派にも属さず、プロレタリアートのあいだで知名度の高いフルスタリョーフが議長に選ばれた。

ソヴィエトはまだ形成されたばかりで、一体これがどうなるかわからなかった。誰か特定人物が頂点に位置するのは好ましくないので、会議ごとに新しい議長を選出するという了解があったが、次の会議では忘れられた。多忙な時に形式ばったことで時間を費やすことは許されなかったからである。それに議事運営に彼はなかなか有能であったということも作用していた。

14日のソヴィエト会議の中心議題はストの拡大と市会への要求についてであった。後者は、民衆の集会のため市の建物の提供、スト労働者への財政援助、警察・憲兵への市予算からの支出中止などを市会へ要求しようとするものだった。ソヴィエト代表の多くはこれに反対だったし、成功を信じたわけでもないが、革命が市会を左へ押しやる可能性があること、政治的デモンストレーション効果があること、形成されつつあったソヴィエトが各方面の注目を浴びていることなどの主張が反対論をおさえた。

ソヴィエト代表団は、14日、16日の2回にわたって市会へ出向いて要求を主張したが、言を左右にして拒否され、すんでのことで逮捕されるところだった。なお、16日には、専門職業家連盟、教授、学生の代表もソヴィエト代表を支持するために市会に現われたが、このことはソヴィエトの影響力を示すものといえる。


つづく

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