1906(明治39)年
この年
(数え年)漱石40歳、鏡30歳、肇8歳、恒子6歳、エイ4歳、アイ2歳。
神経衰弱、一進一退を続け、年頭から大学を辞めたいと洩らす。
1月
韓帝、英「ロンドン・トリビューン」記者ストーリーを通じ国書を列強に送り、共同保護を要望(中国駐在のストーリーが上海亡命中の韓国高官より依頼され、漢城に潜入。国書を受取り、中国芝罘でイギリス総領事に手渡す。)国書がイギリス政府に届いたかは不明。
12月6日、「トリビューン」紙に国書記事。翌'07年1月16日、「大韓申報」に国書記事。
1月
この月より、島村抱月の早稲田大学での講義が始まる。
1月
『早稲田文学』復刊。島村抱月の評論「囚われたる文芸」(「早稲田文学」)。
「去年八月三日の夜は、我れ伊太利ナポリの港に舟がゝりして感慨の事ども多かりし」という、鴎外「即興詩人」か高山樗牛の美文批評を思わせるような書き出しで、イタリアのルネッサンスを論じ、更に中世の哲学、ダンテ、ヴァージルを論じ、ゲーテ、パイロン、シェイクスピアから近年のロシア文学にまで及ぶ一種の文化史的文学概論。
1月
『婦人世界』創刊。実業之日本社。村井弦斎が編集顧問就任。3年後の1号当り10万部(最高31万部)となる。
1月
『芸苑』創刊。
1月
漱石(39)、小説「趣味の遺伝」(『帝国文学』)
日露戦争開戦の情景を
「陽気の所為(せい)で神も気違になる。『人を屠りて飢えたる犬を救へ』と雲の裡(うち)より叫ぶ声が、逆(さか)しまに日本海を撼(うご)かして満洲の果迄響き渡った時、日人(にちじん)と露人ははっと応えて百里に余る一大屠場を朔北(さくほく)の野に開いた」
と描出す。
以下、野犬の群れが日本兵やロシア兵に襲いかかり、血をすすり、肉を食いちぎり、骨をしゃぶる「一大屠場」の様子が生々しく描き出される。
1月
啄木(20)一家困窮。父一禎、青森県野辺寺常光寺の葛原対月のもとに身を寄せる。
1月
児玉源太郎大将、満州経営委員会委員長に任命(委員:外務次官珍田捨己・外務省政務局長山座円次郎・大蔵次官若槻礼次郎・大蔵省主計局長荒井賢太郎・逓信次官仲小路廉・逓信省経理局長関宗喜)。「満鉄」の基本的性格を規定(6月、設立に関する勅令公布)。
4月、児玉は参謀総長に任命。台湾総督には佐久間左馬太大将、民政長官は後藤新平のまま。
1月
大湊海軍修理工場でストライキ。軍隊が鎮圧。
1月
救世軍、東京芝の本部で失業者救済のために無料宿泊・職業紹介を開始。
1月
宮城県教育委員会、全国の教育会に凶作下の学童救済を訴える。
1月
東京電燈会社、八王子電燈会社を買収。
1月
日本興業銀行、北海道炭鉱鉄道株式会社外債100万ポンド募集。
1月
法律第1号公布。臨時軍事費支弁のため、公債募集。起債法定額433,000千円。
1月
ゲルハルト・ハウプトマンの戯曲『そしてピッパは踊る』、ベルリンで初演。
1月
ロシア皇帝ニコライ2世、バルト地方の情勢不安に対処するため、軍隊配備。
1月1日
小村寿太郎、清国より帰国。
1月1日
3月10日(奉天入場日)を陸軍記念日、5月27日(日本海海戦日)を海軍記念日と決定。
1月1日
足尾銅山で日本鉱山労働組合結成。
1月1日
『光』第4号発行
堺利彦「平民社解散の原因」
「◎……只だ平民社は解散しました。政府の圧迫の下に、財政の困難に堪えずして解散しました。『新紀元』の記事によれば、この解散は主義の差にもとづく分離の様に聞えますが、小生の見る所によれは、その遠因は平民社なるものの半私有、半公有の性質にあったと思います。
◎小生等の最初の考えは、平民社を社会主義協会に寄附して、小生等は改めて協会より任命を受けて、そしてある任期の間その経営を受持つ事にしようではないかとさえ話し合っていたのです。然るに社会主義協会は解散せられて、我々は公然の団結をなして運動する事ができなくなったので、すべてが暖昧になってしまいました。そこで平民社は一面には小生等の私有の如く、一面には同志の公有の如くになって居りました。処が財政の困難がいよいよ迫り来るにつれて、更に一歩を進めて全くこれを公有にするか、或は一歩を退けて全くこれを私有にするか、いずれとも明白にするの必要が生じて来た。たとえば或る人の如きは「幸徳、堺等の個人を救うためならば少々の金は出してやっても善いが、取りとめもない漠然たる平民社のためにはドゥも金を出す訳に行かぬ」などと言っていた。それかと思えは一方には又、「堺や幸徳などほ平民社を以て衣食の方便としているのだ」などと言われる御仁もあった。
◎そんな様な訳で、当局者はとかく思い切った為(や)り方もできず、そのうちに発行停止の永続となったので、困難はいよいよ迫り来る、いろいろ面倒くさい事情もできる、進むにも進まれず、退くにも退かれず、遂に解散という事になったのであります。もしあれが純然たる私有ならば、社員の数を減ずるとか、規模を縮小するとか、一身を抵当にして無理な負債を起すとか、何とでもして維持の方法はあったに相違ない。ただ半私有、半公有という妙な性質であった為に、遂に解散のやむを得ざるに至ったのであります。
◎さて解散して見ると、各々生活の道も立てねはならぬ、力に応じた主義の運動もせねばならぬ、そこで銘々に便宜な道を取ることになった。石川君は木下君、安部君等の後援を得て『新紀元』をやる。西川君は『直言』を継続する。小生は『家庭雑誌』に拠るという様なことになった。是はいずれも主義によって分れたのではない、然し別々にやって見ると、各々そこに個人的色彩の差異が現われて来て、この色彩の差異が今後いかなる離合を生ずるかは自然の発展に待つ外はないが、社会主義という大傘の下に集まるにおいて誰しも異存はない筈である。(下略)」
大杉栄(21)「〔世界之新聞〕断頭台上の三青年」(『光』1巻4号1月1日)
1月1日
(漱石)
「一月一日(月)曇。元日。年始と質状をやめる。丸山通一から昼食に招待されたので赴く。寺田寅彦、通りがかりに名刺を入れて行く。(森田草平は漱石から、明治三十八年十二月三十一日(日)付の手紙を貰い、感激する。)
一月一日(月)から一月三日(水)の間(不確実な推定)、斎藤阿具、年始に来る。
一月三日(水)曇。朝、寺田寅彦(小石川区原町十二番地、現・文京区白山五丁目か千石一丁日)を訪ね、雑煮を馳走になる。餅は二片あったが、一片しか食べない。
一月四日(木)、鏡、この日まで産褥で臥床する。(推定)
一月五日(金)、曇。夜、内田貢(魯魔)宛手紙に、トルストイ作・内田魚廃訳『イワンの馬鹿』(明治三十九年一月一日 金尾文淵堂刊)を寄贈され、共感を伝える。
一月六日(土)、晴、風。松本源太郎宛手紙に、「東京へ参りて何となく生還りたる心地致し候。熊本は思び出してもいやに御座候。」と書く。加計正文宛手紙には、福地源一郎(桜痴)(一月四日(木)死去)の死について感想を洩らす。浦瀬文三郎来る。」(荒正人、前掲書)
『吾輩は猫である』 (七) (八) 〔『ホトトギス』1月号1月1日刊〕(第9巻第4号)
「普通の人は戦争とさへ云へば沙河(しやか)とか奉天(ほうてん)とか又は旅順とか其外に戦争はないものゝ如くに考へて居る」が、「臥龍窟主人苦沙弥先生と落雲館裏(り)八百の健児との戦争は、まづ東京市あって以来の大戦争の一として数へても然るべきものだ」という。(『猫』第八回)
「昔の話」(談話筆記?) 〔『日本』1月1日〕(最後の「載つて居たから一寸」(岩波版『漱石全集』第16巻)は、『日本』(明治39年1月)では、ダッシュの代りに「書いて見た」となっている。)〔柴田宵曲『漱石覚え曽』昭和38年11月20日 日本古書通信社刊〕
「予の愛読書」(談話箪記) 〔『中央公論』1月号1月1日刊〕"
1月1日
伊藤左千夫、『野菊之墓』発表。〔『ホトトギス』1月号1月1日刊〕(第9巻第4号)
1月1日
英、外国人法発効。移民希望者は入国許可前に経済状態・心身健康状態に関する厳しい尋問を受ける。露や中欧からの貧しい移民希望者に大きな打撃。
1月1日
ドイツ軍参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン将軍が辞任。後任はヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ中将(小モルトケ)。
1月3日
豊田四郎、誕生。映画監督
1月3日
田中伊三次、誕生。
1月3日
スウェーデン・ノルウェー連合解除の国際条約の効力におよぼす影響に関する日諾交換公文。
1月4日
福地桜痴(66)、没。
1月4日
秋田県院内鉱山内で出火。焼死者101人。
1月4日
ベルリン警察、米人舞踊家イサドラ・ダンカンの舞踊を「猥雑」であるとして公演禁止。ダンカンの舞踊は、古典音楽に合わせた単純で表現力豊かな舞踊。
1月6日
オークランドの社会党本部で幸徳秋水歓迎演説会。幸徳演説「社会主義の要領」、聴衆200。
7日夜、平民社小集。
13日夜、サンフランシスコ日本人福音会で講演。
14日、前日と同じ場所で第1回社会主義研究会。来会20。
21日、ロシア「血の革命日」記念会。
22日、サンフランシスコのリリックホールでロシア革命同情会。1,200参加。
つづく

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