2025年10月20日月曜日

大杉栄とその時代年表(653) 1906(明治39)年3月 著名な国学者の章炳麟が亡命して中国同盟会の機関紙『民報』の編集長となり、編集部を置いた貸家で毎週末「国学講習会」を主宰した。魯迅も国学を学ぶために通ったが、一方で、章炳麟の主宰する革命組織「光復会」が決死隊を中国へ送り込むことになり、そのメンバーに指名された。 しかし魯迅は気が進まず、「もし自分が死んだら、あとに残された母親をどうしてくれるのか、はっきり聞いておきたい」と告げると、一同のけぞって呆れかえり、決死隊メンバーから外されたという逸話が残っている。

 

魯迅

大杉栄とその時代年表(652) 1906(明治39)年2月17日~28日 コンノート卿大歓迎大会、日比谷公園にて催す。 「正門前の雑踏ハ甚しく騎馬と徒歩の警官と憲兵と数十名警戒せしが大名行列が繰り出すや潮の湧くが如く人波を打ち鉄柵の前に殊に設けたる丸太の柵を押潰せんず光景で」(読売新聞) より続く

1906(明治39)年

3月

韓国、抗日義兵、各地で蜂起

忠清南道定山、前参判閔宗植、蜂起。5月19日、洪州城占領。鎮圧に来た日本軍と長期にわたり攻防戦。

忠清南道定山に押込められていた、日本との対決を進言・上疎する老儒者崔益鉉、挙兵決意。全羅道泰仁に移る。

-3月

韓国、『大韓毎日申報』、韓国皇帝の列国元首宛哀訴親翰写真掲載。大問題を惹起。

-3月

韓国、張志淵ら、大韓自強会設立。

3月

谷中村、3小学校廃校。

3月

平塚明子、日本女子大(家政科)卒業。津田英学校・ユニバサリスト系協会附属成美女学校に通う。大学時代に習得した速記でアルバイトもこなし、木村政とともに自由な生活を謳歌。

7月、禅の見性を終え慧薫の法名(安名)をうける。

3月

(漱石)

「春頃(三月または四月)(日不詳)、塩原昌之助から人を介して、塩原家の養子に戻らぬかと交渉を受ける。金銭は出さぬが、交際はしてもよいという。」(荒正人、前掲書)

3月

呉海軍工廠で、戦艦「安藝」起工。1911年3月竣工。19,800トン、実馬力2,400、速力20ノット。

3月

海軍、日本海海戦にちなんで、毎年5月27日を海軍記念日と設定。

3月

この月、北一輝が堺利彦の由分社に『国体論及び純正社会主義』というタイトルの原稿を持ちこみ、出版を依頼。本にすると千ページを越える膨大な分量だったため、資金に余裕がない由分社からの出版は困難だったが、堺は本の売り捌きに協力すると約束した。

結局、北は初めての著書を自費出版で出す。それはすぐに発売禁止になったため、本人が献本したもの以外は世に出ることがなかった。北一輝は社会主義者として出発した。

3月

この月から大杉栄が、また4月からは荒畑寒村堺利彦宅に居候を始める。堺が由分社に入社させた深尾詔も堺家に住み、『家庭雑誌』の編集や記事の執筆をするようになった。堺家には若い同志が出入りしており、堀保子に好意を持つ常連の間に競争が生まれたが、大杉栄がそのなかで強引に保子を妻にしてしまった。一方、堺が期待していた深尾は、病気になったこともあり、その後、次第に社会主義から離れていった。


3月

国木田独歩「運命」(「佐久良書房」)

作家としての国木田独歩はこの頃から、次第に世間の注目を引くようになった。

短篇小説集「運命」は、作品集としては、明治34年の「武蔵野」、前年明治38年の「独歩集」に次ぐ3冊目で、島崎藤村「破戒」が世に出たのと同時であった。

明治36年に紅葉が没し、露伴と蘆花が筆を絶ち、鴎外が戦争に行っていたあと、研友社以後の新しい文学の勃興を思わせるものとして、漱石「吾輩は猫である」と、この時揃って出た「破戒」「運命」とが、文壇の注目を引いた。

このとき「読売新聞」に連載中であった小栗風葉の「青春」は評判の作品であったが、硯友社的な人間観に新しい時代の衣裳をまとわせたものにすぎなかった。しかし、「吾輩は猫である」の知的ユーモア、「破戒」の人生に対する真剣な疑いと輪廓の鋭い文章は、今までの文壇に見ないものであった。この二つとともに、今までの文壇常識では下手な小説と思われていた独歩の短篇もまた、下手であることは作者が生きることの意味を追求する当然の結果であるように見えて来た。生硬と見られていたものが、今では清新なものに見えて来た。

またこれまで既成文壇の圏外にあり、硯友社系作家に近づかなかったこれ等の作家は、別個な確信を持って仕事をしているようであり、しかも既成文壇人にはその確信の内容が分っていなかった。そして文壇はこれ等の新しい番き方をする人々の前に怯んだ。

3月

『猫』第9回(『ホトトギス』3月号)

主人が東北凶作の義捐金募集に応じる。

ただ、彼は会う人ごとに「義損金をとられた、とられた」と吹聴する。これに対して、「吾輩」は、「義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには極(きま)つて居る。泥棒にあつたのではあるまいし、とられたとは不穏当である」という。

一方、ある華族から日露戦争の「一大凱旋祝賀会」開催のための義損金を募集する丁重な手紙が届くが、主人は冷淡にこれを無視する。漱石は、戦争犠牲者や銃後の国民の苦しみを忘れて勝利の美酒に酔い、戦勝国民としての幻想の一体感によろこびを感じる気にはなれなかったのだろう。

東北地方の凶作

東北地方は、明治30年頃から連続的な凶作に見舞われ、特に日露戦後に襲った大凶作は、出征・戦死・傷病などによる働き手不足も加わって、農民たちの生命をも脅かすのであった。

東京朝日新聞記者・杉村楚人冠は、東北地方へ取材し、「雪の凶作地」(1906年1月25日~2月20日)として困窮する農民の姿を16回にわたって報告。

彼は、戦勝の陰に泣く出征軍人家族などの惨状を、正義感とヒューマニズムに充ちた気魄溢れる文章によって描き出した。このルポルタージュが始まる、全国から新聞社に義捐金が寄せられ、各地に救援組織が作られ、政府もおそまきながら特別措置を急がざるを得なかった。

東北地方大飢饉。宮城、岩手、福島県の窮民を、救済のため公営土木・耕地整理・植林事業などに就業させる。

3月

『文章世界』創刊。編集長田山花袋(数え36)

花袋は、明治35年の「重右衛門の最後」以後、目立った作品は書かず、博文館の編輯者として生活していた。

博文館には、綜合雑誌「太陽」と、春陽堂の「新小説」に対抗している文芸雑誌「文芸倶楽部」がある外、何種類もの雑誌があった。しかし、青年たちに実用的な手紙などに使う文章の書き方を教える雑誌が別にあってもいい、と館主の大橋新太郎が考えついたことから、この雑誌は生れた。


3月

魯迅、仙台医学専門学校(現、東北大学医学部)を退学して東京に戻る

官費奨学金をもらい続けるために、飯田橋にある獨逸学協会付属の獨逸語専修科(現、獨協大学)に入学登録した。しかしめったに学校へは行かず、独学でドイツ語を勉強して、大半の時間を読書と翻訳に費やした。

読んだのは日本の作家のもの以外に、東欧諸国の民族主義的な文学作品も多かった。日本で入手できない作品は、神田の中西屋や日本橋の丸善で海外から取り寄せ、本郷の南江堂や古書店を巡って、古書のドイツ語叢書の中から探し出した。英文学史、ギリシア神話も集めた。何種類もの雑誌を定期購読し、大切なページは切り抜いてスクラップした。ドイツ語の図書は、各国の文学作品から自然科学まで127冊も集めたという。食費を削って高価なドイツ語の『世界文学史』も買った。

こうした努力の積み重ねは、後に古代中国から明代までの小説を分析・研究した『中国小説史略』として実を結んだ。それまで中国には存在しなかった小説史を書くことこそ、魯迅がほんとうにやりたかったことであった。

東京は中国革命の熱気があふれていた。前年の明治38年、中国革命同盟会(後に中国同盟会と改称)が組織され、多くの革命家が東京を闊歩し、それを取り巻く清国留学生たちの間にも革命の高揚感が広がっていた。

著名な国学者の章炳麟が亡命して中国同盟会の機関紙『民報』の編集長となり、編集部を置いた貸家で毎週末「国学講習会」を主宰した。魯迅も国学を学ぶために通ったが、一方で、章炳麟の主宰する革命組織「光復会」が決死隊を中国へ送り込むことになり、そのメンバーに指名された。

しかし魯迅は気が進まず、「もし自分が死んだら、あとに残された母親をどうしてくれるのか、はっきり聞いておきたい」と告げると、一同のけぞって呆れかえり、決死隊メンバーから外されたという逸話が残っている。

魯迅は、東京の下宿屋を二度ほど移り、三度目(1908年(明治41年)4月)に本郷(現、文京区西片1丁目12番)に移った(居住は10ヶ月)。親友で同郷出身の許寿裳が見つけてきた貸家で、家賃40円と留学生にとっては法外な値段が、魯迅は飛びついた。というのも、その家は前には家の夏目漱石が住んでいたからだった(1906年(明治39年)12月から翌年9月)。漱石はこの家が気に入らず、住んだのは僅か9ヵ月で、小説『三四郎』を書き上げてから早稲田に引っ越した。

魯迅は、許寿裳と相談して2人の留学生仲間と、数ヵ月前に中国から連れてきた弟周作人を入れて5人で住むことにした。5人で住むから「伍舎」と名をつけた。

魯迅は、家賃を頭数で割って、弟の分も負担したから毎月16円の住居費を支払った。僅かな奨学金の大半は本や雑誌に使ってしまい、生活費はひっ過した。好きな洋風の食べ物や飲み物 - ミルクセーキ、ジュース、チョコレートミルク、トースト、コンビーフなど - を我慢し、東大近くの有名な洋風食品店青木堂も横目で見ながら通り過ぎるしかなかった。

家は二階建てで、一階の玄関を入ったところが洋間になり、その先に8畳間の客間と6畳間があった。左手には風呂と台所、その奥に11畳の居間とトイレ。二階には8畳間と4畳半がある。一階にはガラス戸のはまった廊下があり、樹木の生い茂る庭が眺められた。その庭先に、魯迅と許寿裳は様々な花の種をまいたが、心を奪われたのは朝顔だった。"

朝顔は、種を撒くとほどなく小さな芽を吹いた。見る間に弦が伸びて大きな葉を茂らせ、赤や青の大輪の花をつけた。朝露の残る早朝、開いたばかりの朝顔は瑞々しく、夕方になるとあっけなく萎んだ。萎んだ花をいくら摘みとっても、明日はまた新たな花芽が咲きほこる。可憐ではかない日本の風情だ。ふたりは陶然として朝顔に見入り、幸福なときをかみしめた。中国では見たことのない花だった。

魯迅は一階の6畳間を使った。日本の学生を真似て着物を着て、家にいるときは一日中浴衣姿で通した。毎朝目覚めると、布団から起き上がり、そのまま煙草をくゆらせて、朝日新聞を広げるのが習慣になった。新聞には、夏目漱石の『虞美人草』が連載されていた。

3月

福島県信夫郡で、大飢饉の窮民の満州移民募集を開始。

3月

利根製紙株式会社創立(群馬県)。資本金50万円。1907年8月開業。1908年12月解散。

3月

独、深刻なストライキ開始。

3月

露、労働組合法制定。労働組合を公認し、同時にその活動を制限。総選挙。政府与党敗北。

3月

アンリ・マチス(37)、パリのドゥルエ画廊で素描や木版も含めた大規模な個展。


つづく


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