2016年5月1日日曜日

應永25(1418)年 パリでペスト流行 ブルゴーニュ派、パリ奪回、アルマニャック派を掠奪・虐殺 イングランド軍のルーアン攻囲 将軍義持近習の富樫満政失脚 

鎌倉 収玄寺 2016-04-25
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應永25(1418)年
この年
・ハイデルベルグに監禁されていたヨハネス23世、ジョヴァンニ・デ・メディチにより解放され、フィレンツェに来る。
皇帝ジギスムントに多額の身代金を支払い、賓客として余生の面倒を見る(教皇時代にメディチ家を教皇庁取引銀行に指名した)。
釈放後、教皇マルティヌス5世がフラスカーティ司教・トゥスクルム枢機卿に任命。
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・フィレンツェ、大聖堂円蓋設計コンクール。
ギベルティとブルネレスキの争いで、ブルネレスキが勝利。
ブルネレスキ、サン・ロレンツォ聖堂(メディチ家菩提寺)を設計。依頼主ジョヴァンニ・デ・メディチ(58)。
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・プラハ、この年フランス・ピカルディ地方からの異端者の群がプラハに住み着く。彼らの思想に同調者が多数生まれ、フスの思想とも混じり合い更に大きな集団となる。(ボヘミア各地の信仰共同体「ピカルディ派」)。
彼らはフス派と違い「終末論」の濃い「千年王国思想」を有する。この共同体の指導者となるのがチェコ人マルチン・フースカ。
(仏、トゥルネとリル(北フランスとネーデルラントの境)の自由心霊派40人、ボヘミアに向けて出発。フス派の急進派に自由心霊派の信仰の神秘を教えるため。)
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・ルーマニア、ワラキアのヴォエヴォド(公)たるミルチャ老公が死去。
後、バサラブ1世の子孫はミルチャ老公の子孫とダネスティ家とに別れて公位争いを続ける。
他方では貴族が勢力を拡大しワラキアのヴォエヴォド(公)の権威は低下。
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・~1419、パリでペスト流行。
1418年9月8日~1219年3月25日の間に、10万人以上の埋葬者。
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・この頃、ネーデルランド、トマス・ア・ケンピス(27)、「キリストのまねび」を著作。
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・ハンザ同盟、リューベックを盟主として組織化開始。
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1月2日
・教皇マルティネス5世、教皇アレクサンデル4世のドイツ騎士修道会特権状を確認。(5月7日の記述もあり)
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1月24日
・足利義嗣(25)、殺害。将軍義持の弟、父義満に寵愛(偏愛)される。
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2月
・鎌倉公方持氏に高野山に追われた武田信元(信満の次弟)、幕府の援助を得て甲斐に復帰。間もなく戦死。
その後、甲斐は、鎌倉府の後ろ盾を得ている逸見氏と信満の次男信長・子の伊豆千代丸とが国内を二分して抗争。
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・教皇、「フス派教説禁止」命令。
チェコ国王ヴァーツラフ4世、これに従わず、フス派を擁護する姿勢。
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3月29日
・ヴェネツィア、 庶出の男子は、信託遺贈に対する資格なし
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4月12日
・コンスタタンツ宗教会議、閉幕。
ドイツ騎士修道会に同情的な公会議も新教皇も、ポーランド・ドイツ騎士修道会双方に何ら断罪せず。
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5月29日
・仏、パリ、ジャン無畏公(47)、富裕市民と共謀しクーデタ。
シテ島からセーヌ川左岸に架かるプティ橋上に店を構える鉄商人ペリネ・ルクレール、サンジェルマン・デ・プレ門警備の父の枕下より鍵を盗み、門を開きブルゴーニュ派軍隊を市内に引き入れる。
ブルゴーニュ派、パリ奪回、アルマニャック派を掠奪・虐殺、王政掌握。

王太子らアルマニャック勢は抵抗できずに敗退。
アルマニャック派ベルナール7世捕縛。王太子シャルル(後の7世)、パリ奉行タンギー・ド・シャテルの機転により危うく寝室から抜け出し、衛兵詰所~サン・タントワーヌ砦~ムランに脱出。シャルル6世捕らわれる。
パリは恐怖政治。アルマニャック伯処刑。大量処刑。
ジャン無畏公(47)、摂政就任。
王太子シャルル(15)、ブールジュに政権を立てる(王太子は摂政を称し、拠点をロワール河周辺に定め、ポワチエにパルルマン(王家裁判所)をブールジュに会計院を設置してパリの政府に対抗)。
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6月2日
・室町中期には、将軍・守護の武家屋敷にも釘貫が構築される(「看聞御記」応永25年6月2日条、「康富記」嘉吉2年11月8日条、享徳3年8月19日条)。
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6月25日
・大津の馬借ら、祇園神輿を奉じて入京、強訴。
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7月14日
・ジャン無畏公、王妃イザボー・ド・バヴィエールを味方に引き込み共にパリ入城。5月8日の首都突入の日に捕われた国王シャルル6世と再会。
月末、ジャン無畏公は、ようやく虐殺・掠奪を制止する秩序回復を試みる。
この時までに、ジャンの為に働きすぎた死刑執行人カブリュッシュは処刑される。

これ以降、イギリス軍とブルゴーニュ派が、ロワール川以北のフランスの支配者となる。
両者の結合を固める縁組が進行。
①ジャン無畏公息子シャロレー伯フィリップ(のちフィリップ善良公)とシャルル6世王女ミシェルの結婚。持参金:ペロンヌ、ロワ、モンディディエの城主支配地とサンセール地方。
②イギリス国王弟ベッドフォード公ジャンとジャン無畏公娘アンヌ。
③ヘンリ5世とシャルル6世王女カトリーヌの婚約画策。
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7月29日
・イングランド軍、ルーアン攻囲開始。翌年1月2日降伏。
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8月
・イングランド軍、ノルマンディー全海岸地方占領。
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8月1日
・越前守護も兼ねる武衛斯波義重、今立郡山本荘年貢内のうち3千疋を石清水八幡宮に寄進。
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8月18日
・元管領・武衛斯波義重(48)、没。
尾張守護斯波義淳が越前守護も繼ぐ(~永享05)。
翌應永26年、今川泰範の後任として遠江守護職を拝領(~永享05)。
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9月
・パリ近郊サン・モール・デ・フォッセ、王太子シャルル(後の7世)、ブルゴーニュ侯と初の和平協定の折衝。
後、パリがイングランドの勢力下に置かれる状況を打開するため数度の話し合いが続く。
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・秋、プラハ、信仰と典礼の問題で聖杯派の見解を一致させる為、聖職者の会議を開く。穏健な内容。
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10月24日
・若狭守護一色義範、山城守護に補任(「看聞日記」同日条)。
三方範忠が、山城守護代となり300余騎で淀に入部(同、11月1日条)。
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11月24日
・将軍-近臣への権力集中を策する義持近習富樫満政、守護層の反撃により義持の北野社参集中に、義嗣に叛をそそのかしたとの廉で突然失脚、没落(「看聞日記」同日条)。
権力集中による専制的方向は挫折。
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12月
・チェコ国王ヴァーツラフ4世異母弟ジギスムント(神聖ローマ皇帝)、「もし異端に対しての十字軍が興され、それによって貴国の国土が廃墟と化しても、その責めは怠惰な王にある」との書状送る。ヴァーツラフはこれを無視する。
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・国王ヴァーツラフ4世によって選ばれたプラハ旧市街の参事会、以前よりも多くのカトリック派が含まれる。
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・ポルトガルのジョアン・ゴンザルヴェス・ザルコ、エンリケ航海王子の命により、トリスタン・ヴァス・ティシェイラと共にアフリカ沿岸ギニア方面へ探検航海。
風に流され海鳥とアシカがいるだけのポルト・サント島に着き、そこで、山が多く深い森林に覆われた新しい島を見つけ「イリャ・デ・マデイラ(森の島)」と命名、ポルトガル王・エンリケ航海王子・キリストの名で正式に領有を宣言して帰国。
後、ザルコはマデイラ島への入植を計画、エンリケ王子の援助(船と物資)を受けて、1421年6月、一族を率い第1回入植の航海へ出帆。
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12月26日
・仏王太子シャルル、摂政就任宣言
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