2016年5月6日金曜日

明治38年(1905)10月2日~15日 クロアチアで民族自決を要求するフィウメ決議採択 枢密院会議、日露講和条約批准可決 池辺三山、桂の奸計に気付く 「ロシアに勝ち」「一等国」となった日本を全面に打ち出す世論操作始まる 講和問題同志連合会解散、国民倶楽部設立 労働者代表評議会(ペテルブルク・ソヴィエト)成立 平民社解散 小村寿太郎帰国   

鎌倉 長谷寺 2016-04-25
*
明治38年(1905)
10月2日
・講和問題同志連合会、会合。5日に日比谷公園で国民大会開催決定。前日4日、条約が枢密院通過し、大会中止。
*
10月2日
・円地文子、誕生。
*
10月2日
・(露暦9/19)露、モスクワ、スイーチン印刷植字工、労働時間短縮・賃上げスト、拡大(句読点の植字にも普通の文字と同額の手間賃を支払うよう要求)。
*
10月3日
・平林たい子、誕生。
*
10月3日
・クロアチアで民族自決を要求するフィウメ決議採択
ハンガリー、非マジャール人「クロアチア・セルブ人連合」。
クロアチアとダルマチアの民族的権利承認と引換えにハンガリーの「連合」と独立支持の用意ありと宣言
*
10月4日
・枢密院会議、日露講和条約批准可決。
*
10月4日
・「大阪朝日」発行停止解除の4日の社説は桂内閣総辞職要求、短評欄は「此の心、此の志、奪ふべきかな」と書く。
西村天囚・鳥居素川などの論説記者は、「一剣倚天寒」と大書した旗を先頭に、馬に乗って講和条約反対の大阪市内デモを敢行。
*
10月5日
・駐韓林公使、朴斉純外相に「新(第2回)日英同盟」を通知。
17日、朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日(萩原守一臨時代理)・英(ジョーダン)公使に抗議。イギリスへは両国友好を定めた1883年「韓英修好通商条約違反、日本へは前年の「日韓協約」違反。
*
10月5日
・外務省政務局長山座円次郎、条約「正本」を持って小村より先に横浜着。
*
10月5日
・二葉亭四迷(無署名)「ひとりごと」(「東京朝日」3回連載)。
桂の独白の形をとった諷刺を利かせた政治評論。読者の注目を引く。

池辺三山、桂の奸計に気付く:
①主戦論で国民を煽り挙国一致体制を作るのに貢献。
②対外硬の意見に乗り、再度国民を煽り、日比谷焼打ち事件を招く。
③政府派は戒厳令・新聞紙条例で反対派封殺。
④条約可決。
⑤凱旋、イギリス艦隊の訪問により、「一等国」意識の植付け。
「東京朝日」は、講和問題ではなく戦後処理の問題を取り上げるよう論調を変える。
*
10月5日
・東京弁護士会は臨時大会を開き、「警察官鎮圧手段の狂暴」を非難し(「日本弁護士協会録事」1905年9月)、被害調査・聞き書きを行い、「流血遺滴」として「法律新聞」に連載(この日~19回)。
*
10月5日
・岡倉天心(42)、横浜港からミネソタ号で出航、ボストン美術館アドバイザーを委嘱され、アメリカに向かう。39年4月6日帰国。
*
10月6日
・ノーエル将軍率いる英国艦隊、神戸港入港(将校268、下士卒3840)。神戸・京都・大阪で歓迎会。横浜入港後、横浜で歓迎会。将軍の天皇拝謁。12、13日大歓迎会。新聞は連日報道、「一等国」日本は、同盟国を真心こめて迎えるべし。

講和反対ムードは、戒厳令、条約の枢密院通過で冷め、更に、軍隊凱旋・英国艦隊寄港により、「ロシアに勝ち」「一等国」となった日本を全面に打ち出す世論操作始まる
*
10月6日
・(露暦9/23)露、労働者代表評議会(ペテルブルク・ソヴィエト)成立、議長・無党派弁護士フルスタリョフ・ノザル。
この年中に市ソヴィエトがセヴァストポーリ、ロストウ、モスクワ、サマラ、ハリコフ、ヴラジカフカズなどで結成。
*
10月7日
・講和問題同志連合会、河野広中座長で委員会総会。解散決定。
16日、解散式。新たに「国民倶楽部」結成決定(事務所はそのまま使用)。
26日、国民倶楽部、設立。
*
10月7日
・(露暦9/24)露、モスクワ職字工ストライキ、全国波及。

この頃、トロツキー(26)、再びペテルブルクに潜行。
この頃、メンシェヴィキは、労働者500人につき1人の代表を選ぶ革命的機関の選出をスローガンとするが、ボルシェヴィキは、11月にレーニンがロシアに戻るまで、超党派組織選出に反対するセクト主義的態度を続ける。
*
10月8日
・清国、巡警部設置。
*
10月8日
・田村秋子、東京に誕生。新劇女優、「姫岩」作家。
*
10月8日
・東京府市会と新聞記者、警視庁廃止期成同盟組織。
*
10月8日
・シベリア横断鉄道開通(バイカル迂回線)。
*
10月9日
・平民社解散。
この日、解散式、70人参加。キリスト教的社会主義派分離。
①堺は「家庭雑誌」に専念、
②幸徳は渡米、
③西川光二郎・山口孤剣らは凡人社をおこし非キリスト教社会主義機関紙「光」(月2回)発行、
④石川三四郎・木下尚江(主筆)・安部磯雄(監修)はキリスト教社会主義機関紙・月刊「新紀元」発行。
*
10月9日
・荒畑寒村、東京を去る。紀州田辺「牟婁新報」(社長兼主筆毛利紫庵)入社のため。

毛利清雅(紫庵):
1871(明治4)年9月28日和歌山生まれ。1884年得度、翌年、高野山入り、高野山中学・同学林に学び、1893年、在学のまま高野山副住職、1895年住職。
1900(明治33)年4月、田辺町の政友会系有志の後援により「牟婁新報」社創立、主幹・主筆を兼ねる。第1号は4月14日、月3回発行。
1902年、上京、東京法学院入学。杉村楚人冠・境野黄洋らと新仏教清徒同志会設立、評議員となる。木下尚江・堺利彦らと交わり、足尾鉱毒問題等の演説にも参加。
1903(明治36)年帰郷、寺務と「牟婁新報」主筆を兼ねる。「マークス(又は田辺のマークス)」名で「社会主義を鼓吹すべし」「所謂金持を排斥すべし」「基督教の拡張を望む」など論説。熊野請川の成石平四郎・新宮の大石誠之助らが集る。中央からは記者として、小田頼造(1904年3~8月)・豊田孤寒(1904年5月~1905年10月)・荒畑勝三(1905年10月~1906年4月)・菅野すが(1906年2~5月)を迎える。
*
10月9日
・東京府会、警視庁廃止問題で意見交換。
東京市会・東京弁護士会・新聞記者団体と連携し警視庁廃止を全会一致決定。
*
10月10日
・朝、講和問題同志連合会の河野・大竹・小川・細野ら家宅捜査。手紙、会計簿、手帳など押収。
*
10月12日
・桂=ハリマン協定。
桂太郎首相、米鉄道資本家ハリマンと南満州鉄道および付属財産などの買収に関する日米シンジケート組織の予備協定覚書を交換。
*
10月13日
・上田敏訳『海潮音』発表。
この直後、上田敏は「芸苑」復刊を企画。編輯兼発行人には「文学界」当時の旧友馬場孤蝶の名を借りた。また、馬場と親交があり、上田の学生であった森田米松は、馬場の紹介でこの雑誌に参加することになる。森田とともに、その仲間の生田弘治らもこの雑誌に参加した。生田は大学では美学を専攻し、大塚保治に師事していた。馬場孤蝶はチェーホフの「六号室」を訳し、森田米松は「病葉」という小説を書いた。上田敏は雑誌を出すに当って、生田弘治に長江という号を、また森田米松に白楊という号をつけてやった。更に上田敏の旧友で、この年4月から上京して、「破戒」の原稿の完成に努めていた島崎藤村は、特にこの雑誌に「朝飯」という短篇小説を寄稿した。

この時期、東京帝大の学生が作品を発表する機会のあった雑誌としては、学生間の有力者である小山内薫等が編輯していた「帝国文学」、小山内薫らを中心とする「七人」、漱石が発言権を持っている「ホトトギス」があった。
「芸苑」は、学者であり、「海潮音」によって日本語に新しい美を創り出した芸術至上主義者上田敏の主宰する雑誌で、アカデミックなものとなる気配ではあったが、学生の作品や評論も載るというので、出る前から評判になっていた。

・第一次「芸苑」
明治35年2月、上田敏(29歳)は殆ど個人雑誌というべき「芸苑」を発行し、西欧文学や美術の紹介と翻訳、古本の美術や演芸の批評等の記事を載せた。寄稿者は藤島武二(画家)、平田禿木ら。雑誌は創刊号のみで終り、4ヶ月後、小倉から戻った森鴎外と協力して、改めて「芸文」を創刊。しかし、この雑誌も6月に創刊号を出し、8月に第2号を出して中絶した。
*
10月14日
・作家・小島烏水(うすい)ら、発起人となって「山岳会」を結成。1967年日本山岳会と改称。
*
10月14日
・英、婦人参政権論者クリスタベル・パンクハーストとアニー・ケニー、警官に暴行を加えたため投獄。
*
10月15日
・小村寿太郎帰国。横浜着。
農商務相兼内相清浦奎吾・逓相大浦・文相久保田譲・司法相波多野敬直ら出迎え。横浜停車場には伊藤博文、新橋停車場には桂首相・山本海相が出迎え。外相官邸到着後、すぐに参内。先に帰国した外務省政務局長山座円次郎より12日に桂太郎首相がアメリカの鉄道資本家ハリマンと南満州鉄道および付属財産などの買収に関する日米シンジケート組織の覚書交換の件を聞き、これに反対。
18日、取消しを閣議決定し、直ちに在サンフランシスコ領事に桂首相名により覚書取り消しを通告。
*
中旬
・石川啄木(20)、「小天地」第2号の原稿が集まったが、病を得て延期、遂に1号雑誌に終る。この頃より一家の経済が次第に行きづまる。

「二号は本月一日に出すべき筈の所、小生の不健康のため、つひ末だ原稿を印刷所にも廻しかね居候、世の中に対しては甚だ面目次第もなき儀に候へども、一方にはこの痩腕にて一家五人のいのちをつながねばならず、又、身内の病魔との戦ひもあまり呑気なる務めにも無之、剰さへ、先月よりは諸友皆南に去り、初め提携したりし落花氏とても実は少しも役に立たず、目下おのづから敬遠主義を取らねばならぬ不幸に陥り候」(浪岡茂輝宛十月十一日書簡)

この年各雑誌に詩作を発表、処女詩集『あこがれ』の刊行や雑誌「小天地」の創刊など、旺盛な文芸活動を示したが、一家扶養の責任が啄木の双肩にかかって苦悩の多い年であった。
*
*

0 件のコメント: