「押しつけ」で困るのは誰か?
「現在の私たちにとって、理想の憲法とは何か」という問題を問い続けることは大切だ。たとえば、日本国憲法には障がい者やLGBT(性的少数者)の人権を明文で保障する規定はない。「だから、日本国憲法はもう古い」と評価することには賛成しないが、そのような意見が出てくる理由は理解できる。
ただし、「政治問題としての憲法改正」(以下、「改憲問題」)への向き合い方は、「理想の憲法」を自由に語ることとは別のかたちにならざるをえない。日本国憲法の改正を発議できるのは、衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成を獲得できる政治勢力に限られる。そのため、政府与党が実際に提案している憲法改正案の当否を、現実の政治状況との関係で考えることが必要となる。現在の改憲問題に即して言えば、自民党「日本国憲法改正草案」(以下、「自民党草案」)を、安保関連法の制定などの政治状況との関係で評価する必要がある。
危機意識の表れ
長谷部恭男・杉田敦『憲法と民主主義の論じ方』は、安保関連法の制定に反対する運動にお
いてキーパーソンとなった憲法学者(長谷部)と政治学者(杉田)の対談である。内外の思想家の議論や各国の政治制度・政治運用を踏まえて、議会選挙の機能やデモ・集会の意義、低成長時代の政治の役割などが縦横無尽に語られる。冷静な理論家というイメージの長谷部が、「おかしいと思ったときは行動に訴える責務があります」と論じているのは、彼の危機意識の何よりの表れであろう。
改憲問題を考える際に重要なのは、憲法の「出自」ではなく、改正した場合の「効果・機能」である。したがって「日本国憲法は占領軍に押しつけられた憲法だから改正すべきだ」という議論(押しっけ憲法論)の説得力は乏しいと考える。日本国憲法の制定過程は、「押しつけ憲法論」者が期待するほど単純なものでないからである。このことは、古関彰一『日本国憲法の誕生』を一読すれば了解できる。
堅固な立憲主義
天皇制の温存を最優先事項として「外交敗北」を重ねた当時の権力者とは対照的に、国民の多くは平和と民主主義の「新憲法」を歓喜して迎えた。古関はさまざまなエピソードに触れつつ、その歴史的事実を確認していく。その論述からは、「日本国憲法を押しつけられて困っているのは誰か」という、現在の政治状況に直結する問題提起を読み取ることも可能である。
そもそも「個人の尊重を究極の価値として、諸個人の人権を保障するために権力を制約する」という考え方、すなわち、「立憲主義」という政治構想自体が、「日本には日本のやり方がある」と信じたい人々にとっては、我慢ならない「押しつけ」なのかもしれない。
自民党草案が憲法13条の「個人の尊重」という文言を「人の尊重」に変更したり、憲法の保障する基本的人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であると宣言する97条を削除したりしているのも、そのためであろう。
樋口陽一『「日本国憲法」まっとうに議論するために』は、1970年代から「個人の尊重」を核心とする「立憲主義」を擁護してきた著者が、憲法論議の前提となるべき基本問題を語った作品である。
樋口は、主権主体としての国民と、人権主体としての個人の間の緊張関係を論じる。そして人権主体としての個人は、「憲法そのものに対してすら異論を唱える、思想と良心の自由を主張できる存在です」と述べている。本書に示されているのは、現政権の下で進められつつある憲法改正の対極にある、堅固な思想である。
◇あいきょう・こうじ 66年生まれ。著書に『立憲主義の復権と憲法理論』『改憲問題』など。
『朝日新聞』2016-05-01
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