2025年12月16日火曜日

大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙)

 

夏目漱石

大杉栄とその時代年表(709) 1907(明治40)年2月25日~28日 「オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。…… 私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』) より続く

1907(明治40)年

3月

観潮楼歌会。森鴎外主催。歌壇結集。根岸派子規の弟子伊藤左千夫(写実派)、鉄幹・晶子、信綱・勇・白秋・啄木。

3月

野口雨情「朝花夜花」(「明文舎」)

3月

島田三郎、「谷中村枉法破壊に関する質問書」を政府に提出。説明演説を行う。

3月

市川房枝(14)、朝日尋常高等小学校卒業。渡米願いを役所に出すが不許可。

3月

民刑局長平沼騏一郎、独仏英に法律取調べのため派遣。翌41年2月14日帰国。

3月

大阪電球株式会社創立。

3月

大阪窯業会社、貝塚煉瓦と和泉煉瓦両会社を合弁。

3月

仏、モロッコ西北部を軍事占領。モロッコの民族的反抗開始。

3月

ベトナムでファン・チュー・チンらがハノイに東京義塾を設立する。

3月

ルーマニアで2月8日に起きたモルダビア農民暴動、軍隊により鎮圧。

3月

パブロ・ピカソが絵画「アビニヨンの娘たち」を完成させる。

3月1日

欧文植字工組合、欧友会結成。

3月1日

渋川玄耳、「東京朝日」社会部長として入社。熊本第6師団法官部補で、日露戦争中、戦場から朝日にしばしば随筆を寄稿していた。漱石と熊本で俳句仲間だった。社会部長として社会面に新風を巻き起こす。1ヶ月後に漱石が入社。

3月1日

『家庭雑誌』5巻5号発行

大杉栄「『筒袖の葬式』(堺為子)の前文」「露西亜の女学生(クロポトキン)」掲載

3月2日

衆議院にて郡制廃止案可決

3月2日

夕張炭坑争議。~7月1日。

3月3日

道清鉄道、開通。

3月3日

日本、ハルビン総領事館開館。ウラジオストク貿易事務官河上俊彦を初代総領事に抜擢。

3月3日

鉄幹(34)と晶子(29)に双生児出産(長女八峰、2女七瀬)。命名森鴎外。

3月3日

大杉栄「エスペラント語講義 練習1(第九回)」(『語学』)

3月4日

3月4日付け漱石の雪鳥宛て入社条件の問い合わせの手紙。

大学から英文科教授になる話があるが、待ってもらっている、そして「いま少し委細の事を承わり置きたくと存候」と手当てや身分保証について、箇条書きにして細かく問い合わせる。末尾に「大学を出て江湖の士となるは今まで誰もやらぬ事に候。それ故ちょっとやってみたく候。これも変人たる所以かと存候」。


「三月四日 (月)、午前、白仁三郎(坂元雪鳥)宛手紙(消印、午前十時-十一時)で池辺吉太郎(三山)に直接会いたいこと、朝日新聞社(大阪朝日新聞・東京朝日新聞)入社の手当を具体的に問い合せる。午後、小宮豊隆宛葉書に、漱石山房の印を押し、「白酒をのみに来てもよろしく候。漱石山房の印をペタベタ押したいが時々来て五六冊づゝ押して被下度候。其代り時々御馳走を致候以上頓首恐惶謹言」と書く。漱石山房の印を押したのは、この時初めてと推定される。また、別の白仁三郎宛葉書(消印、午後五時-六時)に、金曜の午後三時頃に会いたいこと、木曜日ならばいつでもよいと告げる。」(荒正人、前掲書)  

漱石が朝日新聞の申し出に対して返事をしないでいるうちに、大学当局から新学期から教授として英文学の講座を担当するように奨められた。漱石は岐路に立たされた。

3月4日、漱石は白仁三郎宛てに返事を書いた。


「拝啓先日は御来駕失敬致候其節の御話しの義は篤と考へたくと存候処非常に多忙にて未だ何とも決せざるうち大学より英文学の講座担当の相談有之候。因って其方は朝日の方落着迄待つてもらひ置候。而して小生は今二三週間の後には少余裕が出来る見込故其節は場合によりては池辺氏と直接に御目にかゝり御相談を遂げ度と存候。然し其前に考の材料として今少し委細の事を承はり置度と存候

一手当の事、其高は先日の仰の通りにて増減は出来ぬものと承知して可なるや

それから手当の保証、是は六やみに免職にならぬとか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保証してくれるとか云ふ事。

何年務めれば官吏で云ふ恩給といふ様なものが出るにや、さうして其高は月給の何分の一に当るや。

小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」

漱石はその他に、発表作品の数と長さ、他の雑誌新聞への執筆制限、作品の版権の問題などを訊ねた。

(『日本文壇史』より)

3月4日

日本に亡命中の孫文、清国政府の要請を受けた日本政府の命令によって国外追放。

清国政府は、孫文の日本からの追放と、革命派の精神的支柱である『民報』そのものの取り締りを、日本政府に要請する。日本政府は孫文に5千円の旅費を贈って、日本を脱出するよう勧告した。単純に「追放」できなかったあたりに、当時の孫文と中国同盟会の影響力の大きさを示している。孫文には日本人の支援者からも1万円の餞別が贈られ、シンガポールに向けて出発。同盟会の本拠地は、日本とシンガポールの二つに分かれることになった。

さらにこのお金をめぐって、同盟会内では孫文批判と不信がつのった。孫文が、民報社の維持費用として、2千円しか残さなかったからである。「旗争い」で見た黄興や宋教仁らと孫文とのあつれきには、この問題も関係していた。とりわけ、民報編集長の章炳麟が、激しく孫文を批判したとされる。

3月4日

5分利付英貨公債2,300万ポンド発行仮契約調印(英仏にて募集)。

3月4日

ボータ、南アフリカの首相に就任。


つづく

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