【年表INDEX ①】
大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる 附【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月)】
【年表INDEX ②】
大杉栄とその時代年表【年表INDEX ② (1903(明治36)年1月~ 1905(明治38)年12月)】
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大杉栄とその時代年表(646) 1906(明治39)年1月1日~6日 ベルリン警察、米人舞踊家イサドラ・ダンカンの舞踊を「猥雑」であるとして公演禁止。ダンカンの舞踊は、古典音楽に合わせた単純で表現力豊かな舞踊。
大杉栄とその時代年表(647) 1906(明治39)年1月7日~11日 徳富蘆花、伊香保に引き籠る 「小生は堺兄に倣ふて『蘆花生』の号を廃めたり、今後は徳富健次郎を以てすべての場合に御呼び被下度候」 徳富健次郎の伊香保温泉での日常生活は、第一が四福音書を読むこと、第二にトルストイの著作を読むことであった。
大杉栄とその時代年表(648) 1906(明治39)年1月12日~25日 「ただ新たな運動の展開に対していささか希望を与えたものは、山県軍閥直系の桂太郎に代って、かつてはフランスに遊んで自由主義の新風に浴した西園寺公望が、新政府の首相に任じた事であった。西園寺首相は住友財閥の当主吉左衛門の実兄、蔵相の阪谷芳郎は渋沢栄一の女宿、内相の原敬は足尾銅山主古河市兵衛の大番頭、また外相の加藤高明は三菱の駙馬というように、少なくとも外観上はブルジョア的色彩の濃厚な政府であったから、その政策も桂内閣の武断政治に比して自由主義的であろうと予測させた。果然、新内閣は社会主義運動に対しても前政府の如く妄りに弾圧することなく、政綱の穏和なるものに対しては結社の自由を認める方針を明らかにしたのである」(荒畑寒村『続平民社時代』)
大杉栄とその時代年表(649) 1906(明治39)年1月26日~31日 1月31日付け宋教仁の日記 「午後三時、民報社に行ったとき、急に座骨に激しい痛みを感じたので、しばらく横になり、前田氏に願ってそこをたたいてもらった」とある。この前田氏というのは、漱石『草枕』の主人公那美のモデルと言われる前田卓である。
大杉栄とその時代年表(650) 1906(明治39)年2月1日~4日 「・・・小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を恩ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ・・・」(2月3日付け漱石の野間真綱宛て手紙)
大杉栄とその時代年表(651) 1906(明治39)年2月5日~16日 イギリス、戦艦ドレッドノート第1号鑑、進水。ポーツマス。世界最強の戦艦。ドレッドノートの出現により、戦艦三笠、ボロジノなどは一挙に旧式化した。以後、建艦競争開始。
大杉栄とその時代年表(652) 1906(明治39)年2月17日~28日 コンノート卿大歓迎大会、日比谷公園にて催す。 「正門前の雑踏ハ甚しく騎馬と徒歩の警官と憲兵と数十名警戒せしが大名行列が繰り出すや潮の湧くが如く人波を打ち鉄柵の前に殊に設けたる丸太の柵を押潰せんず光景で」(読売新聞)
大杉栄とその時代年表(653) 1906(明治39)年3月 著名な国学者の章炳麟が亡命して中国同盟会の機関紙『民報』の編集長となり、編集部を置いた貸家で毎週末「国学講習会」を主宰した。魯迅も国学を学ぶために通ったが、一方で、章炳麟の主宰する革命組織「光復会」が決死隊を中国へ送り込むことになり、そのメンバーに指名された。 しかし魯迅は気が進まず、「もし自分が死んだら、あとに残された母親をどうしてくれるのか、はっきり聞いておきたい」と告げると、一同のけぞって呆れかえり、決死隊メンバーから外されたという逸話が残っている。
大杉栄とその時代年表(654) 1906(明治39)年3月1日~7日 外相加藤高明、鉄道国有化に反対し辞任。 加藤は岩崎家の婿(「三菱の大番頭」)。三菱の御用新聞「東京日日新聞」、元老井上馨も鉄道国有化反対。三菱は、長崎の造船所、高島炭鉱を経営し、更に九州鉄道株を買収中。九州鉄道を手中にすれば、競争相手の三井、貝島、麻生などの炭鉱の運搬も独占し得る。九州の炭鉱主は、三菱の鉄道支配を覆すために政府の鉄道国有化に賛成。
大杉栄とその時代年表(655) 1906(明治39)年3月8日~11日 「明くれは十一日、...日比谷公園には各方面から参集する男女一千余名、...園内の芝山には「電車値上反対市民大会 日本社会党」と大書した赤旗を中心に数十旒の赤旗が林立し、...午後一時、主催者を代表して山路愛山(国家社会党)が全員の拍手喝采裡に左の二決議文を朗読した。(略)次いで主催者代表は、右の二決議を内務大臣に手交するため、...五人を委員に指名したが、大臣不在のため委員は決議文をのこして帰った。五委員は解散後、群衆とともに赤旗四旒、幟二旒を押し立て大太鼓を打ち鳴らしつつ公園を出て有楽町の堅く門扉を閉ざした街鉄会社に押し寄せ、...更に数千枚の檄を配布しつつ 『人民』、『日日』、『時事』、『毎日』、『萬朝』、『読売』の各新聞社前に至り、「資本家に買収された新聞」「電車賃値上げに反対せよ」「反対せざる新聞は購読せず」などと叫んで示威運動の威勢を示した。」(荒畑『続平民社時代』) )
大杉栄とその時代年表(656) 1906(明治39)年3月12日~18日 東京市電運賃値上反対第2回市民大会 「この頃になって警官隊が騎馬巡査を先頭に鎮圧に駈けつけて来た。それを見た西川は、『これで今日は解散する』と群衆に挨拶したが、納まらないのは戦闘的な土工たちであった。彼らは『ここまで人を連れて来てこのまま解散するとは卑怯千万だ』と西川らに詰め寄り、西川たちはその勢いに怖れをなして、逃げ出すような始末であった。」(吉川守邦「荊逆星霜史」)
大杉栄とその時代年表(657) 1906(明治39)年3月19日~23日 「余は、社会主義者となるには、余りに個人の権威を重じて居る。さればといって、専制的な利己主義者となるには余りに同情と涙に富んで居る。...然しこの二つの矛盾は只余一人の性情ではない。一般人類に共通なる永劫不易の性情である。自己発展と自他融合と、この二つは宇宙の二大根本基礎である。.....茲に一解あり、意志といふ言葉の語義を拡張して、愛を、自他融合の意志と解くことである。乃ちシヨウペンハウエルに従つて宇宙の根本を意志とし、この意志に自己発展と自他融合の二面ありと解する事である。」(啄木日記)
大杉栄とその時代年表(658) 1906(明治39)年3月25日~31日 「『破戒』はたしかに我が文壇に於げろ近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。」(「早稲田文学」の島村抱月の批評 )
大杉栄とその時代年表(659) 1906(明治39)年4月 蒋介石の初来日 初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。
大杉栄とその時代年表(660) 1906(明治39)年4月1日~9日 「さらば日本よ。余は爾(なんじ)を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」(トルストイ会見に向かう徳富蘆花の日記)
大杉栄とその時代年表(661) 1906(明治39)年4月10日 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。 漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)
大杉栄とその時代年表(662) 1906(明治39)年4月11日~17日 啄木(20)、母校の渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。月給8円。徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」(「渋民日記」)
大杉栄とその時代年表(663) 1906(明治39)年4月18日~30日 桜井忠温;松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。
大杉栄とその時代年表(664) 1906(明治39)年5月1日~5日 「仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」(田山花袋「不如帰物語」)
大杉栄とその時代年表(665) 1906(明治39)年5月6日~30日 韓国総監伊藤博文主唱(山縣、西園寺などの元老閣僚会議)「満州問題に関する協議会」、開催。首相官邸。児玉参謀総長ら武断派抑え、軍政廃止決定。 同日、閣議決定(関東総督機関を平時組織に改める、軍政署を順次廃止)。 9月1日、関東総督府廃止。関東都督制となる(都督は大島総督が引続き任命)
大杉栄とその時代年表(666) 1906(明治39)年6月 明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。(日本文壇史)
大杉栄とその時代年表(667) 1906(明治39)年6月1日~4日 崔益鉉が起兵を呼びかけると、その傘下に集まる者千余名に達した。そして淳昌において最初の戦闘が行われた。しかし、このとき攻撃の全面に現れたのは日本軍ではなく朝鮮軍の鎮衛隊であった。崔益鉉は朝鮮人同士で戦ってはいけないと説得しようとしたが、先制攻撃を受けると全員に退去を命じ、自ら縛についた。日本憲兵隊に送られた崔益鉉は対馬の警備隊に監禁されたが、3年間の監禁中の彼は冠巾を脱ぐこと、警備隊長の前で起立すること、日本側の飲食提供を断固拒否した。「敵国の粟喰うべからず」と絶食した崔益鉉は74歳の生涯を対馬で終えた。(姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』)
大杉栄とその時代年表(668) 1906(明治39)年6月5日~20日 「常磐会」創立 「明治三九年六月十日の夜森林太郎、賀古鶴所の二氏が小山粲、大口鯛二、佐々木信綱の三氏と余とを浜町一丁目なる酒楼常磐に招きて明治の時代に相当なる歌調を研究する為に一会を起さん事を勧められた。(中略)余は無論森、賀古の二氏の勧告に応じ(中略)其後賀古氏から話のついでに此事を山県公爵に申し上げた所が公爵も非常に喜ばれカを添へらるる事を約せられた」
大杉栄とその時代年表(669) 1906(明治39)年6月22日~29日 幸徳秋水、日本社会党の帰国歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」演説。神田区錦町の錦輝館。総同盟罷工による直接行動論。錦輝館は1902年に日本で初めてメリエスの『月世界探検』を上映した活動写真館。1908年6月22日、ここで行われた山口孤剣の出獄歓迎会がきっかけで赤旗事件が起こる。
大杉栄とその時代年表(670) 1906(明治39)年6月30日 徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会う。蘆花はトルストイの家に5日間滞在した。その間、彼は毎日のようにトルストイと散歩し水浴し、トルストイに親しみ、ある時は彼を敬い、ある時は疑い、結局トルストイの人柄に限りない親しみを感じた。
大杉栄とその時代年表(671) 1906(明治39)年7月1日~3日 「「頭は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇體なものにて十分に三十秒位づゝ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と沸くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから澤山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす(ママ)時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちにて物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千萬粒のうち一つ位が生育するものに候。然しとにかく妙な気分になり候。小生は之を称して人工的インスピレーションとなづけ候。」」(漱石の虚子宛て手紙)
大杉栄とその時代年表(672) 1906(明治39)年7月3日~8日 啄木 「七月になった。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」
大杉栄とその時代年表(673) 1906(明治39)年7月9日~28日 7月23日 児玉源太郎(54)、脳卒中で急没。 8月1日、台湾総督府民政局長後藤新平が「満鉄」総裁を引受ける。後藤は7月31日、山縣元帥に手紙を書き、8月8日には大島都督・寺内陸相に建白書を提出。
大杉栄とその時代年表(674) 1906(明治39)年8月1日 関東都督府官制公布。 遼東半島の旧露租借地を関東州と命名し旅順に関東都督府を設置する勅令を公布。都督は陸軍大将または中将。清国の関東州を管轄し満鉄線路の保護取締り・満鉄業務の監督を行う。旅順に関東都督府設置。 9月1日、大島義昌を関東都督に任命。
大杉栄とその時代年表(675) 1906(明治39)年8月2日~10日 (漱石の妻が電車賃値上反対のデモに加わっていたとの誤報に対して、「電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。」(漱石の深田康算への手紙)
大杉栄とその時代年表(676) 1906(明治39)年8月10日~31日 「彼(森田草平)は「猫」を読んで以来、熱烈を漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。それを読んだあとでは、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、すでに抵当に入っていた七八反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作った。そして9月初めに上京した。」(日本文壇史)
大杉栄とその時代年表(677) 1906(明治39)年9月1日 「鈴木三重吉から見ると、「草枕」は、中年になった漱石の人間としての諦観を芯としている点では、三十五歳の彼に書けるような作品ではなかった。しかし抒情的な文体による田園の風趣の中に人間を描くという点で、その年の四月に漱石の推薦によって「ホトトギス」に出た彼の「千鳥」の影響がこの作品に及んでいることを漠然と彼は感じていた。「千鳥」を読んだために漱石が、それなら自分もこれを書けるという気特で「草枕」を書いたことだけは推定できた。」(日本文壇史)
大杉栄とその時代年表(678) 1906(明治39)年9月1日 「私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ--美くしい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない。」(夏目漱石 談話「余が『草枕』」)
大杉栄とその時代年表(679) 1906(明治39)年9月1日~5日 9月5日 諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。
大杉栄とその時代年表(680) 1906(明治39)年9月9日~11日 「諸君よ、僕は断然政党運動を脱退したる也。是れ僕が政党運動を不必要となすが為に非ず、政党運動を以て愚挙となすが為めにも非ずして、僕自身の性格が到底政党運動に不適当なるを知りたると、政党運動以外に於て僕の専ら力を致すべき事業あることを確信するに至りたるとの為に外ならず。既往数年間僕は二途にも三途にも迷ひ来れり。今ま始めて自らの位置と職分とを覚ることを得たり。故に今敢て絶つべからざるの旧交厚誼に背き、明白に諸君を離れて孤立独住の寂寞を甘んずる也。」(木下尚江「旧友諸君に告ぐ」)
大杉栄とその時代年表(681) 1906(明治39)年9月11日~中旬 鶴見祐輔、第一高等学校英法科3年生、漱石の講義を聴く。その時の回想「紺の背廣の夏服を着た先生が、左小肱に、教科晋と出席簿とを抱へて、少し前かゞみに、足早やに入ってこられた。漆黒な髪の毛、心持ち大きい八字髯、ハッチりした眼。そして、どこか取り澄ましたやうに、横など向いて、出席簿を手早やに片付けて。鉛筆をなめて、何やら一寸書き込んで。教科書をパット開かれた。」
大杉栄とその時代年表(682) 1906(明治39)年9月16日~30日 「大杉が、黒板勝美、千布利雄らとともに日本エスペラント協会を設立(註、6月12日)し、神田の青年会館で開かれた第一回大会の席上で『桃太郎』の話をエスペラントでやり、喝采を博したのは、その年九月二十八日のことである。彼はまた、九月十七日に、本郷区壱岐坂下の習性小学校で、日本最初のエスペラント学校を開いた。生徒は四十五名。十二月六日、神田の国民英学校で行われた第一回卒業式には、黒板勝美や加藤高明が来賓として出席、大杉はやはりエスペラントで「卒業生諸君に告ぐ」という訓辞をしている。この学校は夜学で、大杉が翌一九〇七年五月巣鴨監獄に入獄するまで続いた。」(大沢正雄「大杉栄研究」)。
大杉栄とその時代年表(683) 1906(明治39)年10月 二葉亭四迷「其面影」 「内田魯庵は、二葉亭が20年ぶりの作品を書いている問じゅう、「恰も処女作を発表する場合と同じ疑懼心が手伝つて、眼が窪み肉が痩せるほど苦辛し、其間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼くなるまで全力を傾注し、千鍛万練して」書き改めて来たのを知っていた。また、二葉亭は毎日の締切時間に遅れそうになるので、社からは度々社員を催促にやったが、その仕事ぶりを見たものは誰も気の毒がって催促の言葉をロにしかれた、ということであった。池辺三山はそれを評して「造物主が天地万物を産み出す時の苦しみ」だと言った。」(日本文壇史より)
大杉栄とその時代年表(684) 1906(明治39)年10月 与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。8日、大石誠之助は新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもつ。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。
大杉栄とその時代年表(685) 1906(明治39)年10月1日~10日 「さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。」(漱石の若杉三郎宛手紙)
大杉栄とその時代年表(686) 1906(明治39)年10月11日 第一回木曜会 小宮豊隆;彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。
大杉栄とその時代年表(687) 1906(明治39)年10月13日~21日 「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。」(漱石の森田草平あての手紙)
大杉栄とその時代年表(688) 1906(明治39)年10月22日~31日 「『光』と『新紀元』との思想や主張の異同については、本書ですでに詳説したから今さら蒸し返す必要はないが、この二派の「社会主義の解釈、若しくは確信に於て、決して相容れざる者に非ず」という説は筆者の承服し兼ねる所である。それ故、石川が平民社の創立人に加わり社会党の機関たる平民新聞の編集当局に就任したことは、背信食言の行為と言わざるを得ない。唯物論的社会主義と基督教社会主義との異同に関して徹底的な論争を行わず、無理論、無原則な妥協に終った二派の合同はその後、社会党大会の決議の上にも痕をとどめた。」(荒畑『続平民社時代』)
大杉栄とその時代年表(689) 1906(明治39)年11月1日~5日 「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へとある文句は露佯(いつわ)りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙がしいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辞が這入って居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。〔中略〕気の毒で堪らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。」 (『猫』中篇自序)
大杉栄とその時代年表(690) 1906(明治39)年11月6日~11日 「読売新聞」主筆の竹越与三郎(三叉)、漱石に対して漱石門下生で中央公論主筆の滝田樗陰を通じて、読売の専属作家にならないか、と申し出る。読売の文壇を担当して1日に1欄か1欄半書き、月給は60円という条件。漱石は、報酬が少ないことと地位が不安定なことを理由にして、この申し出を断る。
大杉栄とその時代年表(691) 1906(明治39)年11月11日~13日 更に新年の原稿を依頼するため、竹越与三郎に代って文芸附録担当者の正宗忠夫(28歳)が出かけた。 正宗は前々年明治37年11月の「新小説」に処女作「寂莫」を発表して以後数篇の短篇小説を書き、作家としても少しずつ認められかかっていたが、決定的な作品を書くに到っていなかった。正宗はぶっきらぼうな物言いをする男であり、漱石もまた歯に衣を着せぬ男であったから、不愛想な対話が1時間ばかり続いた。その結果、一篇の評論を漱石は書いた。それは「作物の批評」と題した批評方法論で、20枚ほどのものであった。
大杉栄とその時代年表(692) 1906(明治39)年11月14日~20日 (漱石)「十一月十七日(土).....夕方、初めて森田草平の下宿(本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方)を訪ね、夜、柳町・菊坂通りを経て、真砂町で真砂亭(西洋料理。本郷区真砂町、現・文京区本郷一丁目)に寄る。切通しを経て、不忍池のほとりに出る。.....不忍池を一周、弥生町から東京帝国大学裏門の前に出て、第一高等学校と東京帝国大学の間を通り、森川町で別れる。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(693) 1906(明治39)年11月21日~30日 「十一月下旬(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)、『草枕』を読んで感心し、旧友中村不折を通じて、新年の随筆を依頼してくる。 この依頼をした段階では、鳥居赫堆(素川)が漱石を『大阪朝日新聞』に招聘したいという希望が十分に熟していたかどうかは、断定し難い。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(694) 1906(明治39)年12月 泉鏡花(数え34歳)、この年7月逗子に転居し、文壇人とは没交渉で過ごす。「新小説」11月号に「春昼」を、12月号に「春昼後刻」を書き、小説「愛火」を春陽堂から出版する。
大杉栄とその時代年表(695) 1906(明治39)年12月1日~4日 この年、株式の熱狂相場続く。野村徳七も前年以来株を買い続け財産も100万円となる。 この月、弟の徳三郎はこれ以上は危険と株の売却を忠告。徳七も、株式市場が1894~95年の日清戦争後の暴落直前の状況と似てきていることを知る。 12月10日、2~3の大手投資家が売り始めたのを察知し、この日のうちに売り始め週末までには1/3を整理する。しかし、東京の大手投資家が大阪の株を買い始め、株価は毎日上昇し続ける。 26日、徳七の友人で北浜屈指の投資家岩本栄之助も売り始める。それでも、市場は上昇し続け、徳七は大阪の地方新聞に狂乱相場の危険性を警告。
大杉栄とその時代年表(696) 1906(明治39)年12月5日~15日 山川均上京。堺は『平民新聞』で「諸君の中には山川均君の名を記憶せぬ人もあるでせう、山川君は曾て皇太子御結婚の当時不敬罪を以て処罰せられ、未丁年の故を以て酌量軽減せられながら、猶且つ三年六ケ月の長き月日を巣鴨監獄に送った人である」と紹介
大杉栄とその時代年表(697) 1906(明治39)年12月16日~26日 第23議会招集 原敬と山縣派との闘い(郡制廃止問題) 衆議院では24票差で通過 貴族院では委員会で9対4で勝利、本会議で108対149で否決 原は、政友会の力の及ばぬ貴族院でも善戦し、「山縣の貴族院における勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」と自信を強める
大杉栄とその時代年表(698) 1906(明治39)年12月27日~31日 石川啄木(20)長女京子誕生 「・・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記)
大杉栄とその時代年表(699) 1907(明治40)年1月1日 泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載) 「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史)
大杉栄とその時代年表(700) 1907(明治40)年1月1日~15日 「明治四十年一月十五日、日刊『平民新聞』は産声いさましく誕生した。足かけ四年前の明治三十六年十一月十五日、日露戦争の開始を目前にして日本の歴史上に初めて戦争反対の叫びを掲げた週刊『平民新聞』の発行を見たのであるが、その英文欄には「機運が之を要するに至らば、吾人は近き将来に於て日刊新開の発行を期待する」と明記されていた。今や実にその期待が実現され、そして日刊の『平民新聞』が呱々の声を揚げたのである。」(『続平民社時代』)
大杉栄とその時代年表(701) 1907(明治40)年1月15日~31日 「一月十七日(木)、木曜会。野上ヤヱ(緯名、野上八重子)宛手紙に、『明暗』(発表されなかった)について文学理論におよぷ詳しい批評を箇条書きにして送る。木曜会で、野上ヤヱの原稿『縁』朗読される。また、野上豊一郎(臼川)『忘れ草』も朗読される。注文いろいろ出る。もっと締まれば、詩的なものになると批評を加える。(略)」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(703) 1907(明治40)年2月1日~4日 「二月七日の衆議院で代議士武藤金吾が質問をおこない、その中で次の如く論じた。 古河市兵衛は幸福な人で、政府部内と因縁を結び官辺とはつねに縁故が絶えない。現政府の内務大臣原敬君とも関係があることは、天下周知の事実である。足尾鉱業所長の南挺三君はいかん、彼は農商務省において、足尾銅山の鉱毒予防工事を監督する責任者でありながら、足尾鉱業所の所長となった人物である。諸君、この暴動は果してこの問題と関連するところ無いであろうか。」(続平民社時代)
大杉栄とその時代年表(704) 1907(明治40)年2月5日~11日 堺利彦の幸徳批判 「・・・大体の考え方でも自分は幸徳君と同じである。・・・異なるところは全然議会を否認すると、これを併せ用いることにあるのみだ。・・・私は今後、社会党運動の大方針としては、一方に議会政策をとり、一方には労働者の団結をはかり、議会の内と外とにつねに相呼応して平民階級の活力につとむるにあると思う。・・・時としては、請願の名をかり、選挙の名をかり、電車賃値上げ反対の名をかって、実は平民労働者の教育と訓練をおこなうのである。」。
大杉栄とその時代年表(705) 1907(明治40)年2月12日~17日 社会党第2回大会 決議案に対して田添と幸徳から修正案が提出 前後3時間を費して採決の結果、田添案2票、幸徳案22票、評議員会案28票で原案が可決成立
大杉栄とその時代年表(706) 1907(明治40)年2月18日~22日 「日本社会党の大会が終ると早くも二月二十日、前日発行の『平民新聞』に掲載された大会の決議、及び幸徳秋水の演説は新聞紙条令第三十三条に違反するとして発売頒布を禁止された上、裁判所に告発された。超えて同二十二日、社会党大会の決議が「安寧秩序に妨害ありと認むる」として、内務大臣から日本社会党禁止の命令が発せられた。」(続平民社時代)
大杉栄とその時代年表(707) 1907(明治40)年2月23日 有島武郎、ロンドンでクロポトキンを訪問 クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。
大杉栄とその時代年表(708) 1907(明治40)年2月24日 漱石の朝日招聘 「二月二十四日(日)、午前十一時三十分(推定)白仁三郎(坂元雪鳥)来て、朝日新聞社(大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社)へ入社の件に関し最初の予備交渉を試みる。(午後三時頃(推定)、二葉亭四迷(本郷区西片町十番地にノ三十四号)の家で、渋川柳次郎(玄耳)・弓削田精一待っており、白仁三郎(坂元雷鳥)の来るのが遅いと迎えが来る。白仁三郎は、交渉の結果を報告する。二葉亭四迷も喜ぶ。)」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(709) 1907(明治40)年2月25日~28日 「オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。…… 私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』)
大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙)
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