2016年5月18日水曜日

文覚について (1) 『平家物語を知る事典』(人物編)より

『平家物語を知る事典』(人物編)より

文覚(保延5年〈1139〉~建仁3年〈1203〉)

j遠藤。俗名盛遠(もりとお)。父は為長(ためなが)説(遠藤系図)の他に複数の異説がある。母は未詳。
出家の理由は未詳。弘法大師を特に信仰する。
仁安3年(1168)に神護寺修復を発願。
承安3年(1173)には後白河院の御所に推参して荘園寄進を強要し、伊豆流罪となる。伊豆到着まで30日間断食をしたという(四十五箇条起請文)。流罪先で、流人源頼朝に接近した(愚管抄)。
治承2年(1178)、許されて勧進活動を再開(起請文)。
同4年、頼朝に平家追討を命ずる後白河院の意向を伝えたと噂された(愚管抄)。
なお、頼朝を支援した千葉常胤の子胤頼は文覚の弟子であった(吾妻鏡・文治2年(1186)正月13日条)。
また、これまでの時期に高利の金融活動をしていたことも知られる(平安遺文・3934)。
特に寿永2年(1183)以降、後白河院・頼朝の支援を受けて神護寺復興を推進(神護寺文書、起請文)。
文治元年8月、義朝の首を鎌倉に持参。
同12月には京で捕らえられた六代の助命に奔走、以後六代の身柄を預かる(吾妻鏡)。
高野山大塔・東寺・東大寺等の修造にも関与(吾妻鏡等)。
頼朝没後の正治元年(1199)佐渡流罪(明月記・同2月17日、3月20日条)、
建仁2年(1202)に一旦は許されるが(東寺長者補任)、対馬に配流され、鎮西で没する(神護寺文書)。
伝藤原隆信筆「文覚画像」(高山寺蔵)には「建仁三年七月二十一日六十五歳没」と記される。
生前の姿は、「荒聖人(あたしようにん)」(玉葉・寿永3年(1184)4月28日条等)、「行(ぎよう)はあれども学はなき上人(しようにん)」「悪口(あくく)の者」「天狗を祭る」などと評されている(愚管抄)。

【物語世界での姿】

 文覚は渡辺党の遠藤左近将監茂遠の子で、盛遠といった。『源平盛衰記』は六十一歳の父遠藤左近将監盛光と四十三歳の母との間に生まれた一男とする(巻十八)。
はじめ上西門院に仕えていたが、十九歳の時に出家し、諸国修行に出かける。
熊野の那智の滝に打たれるなどの荒行を重ね、都に戻った頃には「やいばの験者(げんじや)」となっていた(五「文覚荒行」)。
なお、延慶本などの諸本は、人妻であった袈裟御前を恋し、夫の身代わりとなるその心をさとらず、図らずも彼女を殺してしまう悲恋の発心譚を載せている(二末・二。盛衰記十九等)。

 神護寺再興を志し、寄進を求めて後白河院の御所に押し入るなど、度を超したふるまいを重ね、ついに伊豆に流罪となる。そこで流人頼朝と出合って挙兵を勧め、平家追討の院宣を賜るべく奔走した(五「文覚被流(ながされ)」「福原院宣」)。

 壇浦合戦の後、生け捕られた平家嫡流の遺児六代(ろくだい)の姿に心打たれ、助命のために頼朝と交渉して身柄を預かることとなった(十二「大代」「泊瀬(はせ)六代」)。
やがて頼朝の没後、文覚は新帝即位を志す謀叛の嫌疑をかけられて隠岐へ流罪される。
文覚は後鳥羽上皇への怨みを口にし、没後、彼の地ではその亡霊が噂された(十二「六代被斬(きられ)」)。
延慶本は佐渡と隠岐へ二度流罪されたことを記し、遺言によって高雄に墓が営まれ、没後11年経って弟子明恵(みようえ)の夢に文覚が現れた話を載せ、承久の乱の原因を明確に文覚の霊に求めている(六末・卅六)。
後白河院の治政に対してすら悪態をつく姿は、力にあふれている。
(鈴木)


荻原守衛(1879-1910) 「女」 「文覚」 「女の胴」 「坑夫」、 高村光太郎(1883-1956) 「手」 (国立近代美術館常設展示MOMATコレクション) 2016-05-12



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