1897(明治30)年
1月
台湾アヘン令。政府専売・特許制。
1月
鉄幹(24)第2詩集「天地玄黄」(明治書院)。
1月
田中正造「議員の質問と政府の答弁」(「太陽」)。
翌月、同趣旨の質問書を政府に提出し、答弁のない質問書に誠実に答弁するよう要求。
正造の質問:①官営企業の払下げに伴う政府・政商の結託による不正事件、②現職巡査の人民殺害など人権無視、③軍隊による缶詰・毛布買上げに伴う不正事件。これらが絡んだ頂点にあるのが足尾銅山鉱毒事件。
第1議会(明治24年11月26日~12月25日)~第10議会(明治29年12月~明治30年3月)の35件の質問書提出。第9議会までの総質問書数212件中30件が正造のもの。
1月
幸徳秋水、英照皇太后大喪の記事を「中央新聞」に書き、社長大岡育造に認められ雑報記者から論説記者に昇格。
1月
森鴎外(35)、「公衆医事」創刊
1月
与謝野晶子(19)、「堺敷島会歌集」第10集「庭霜」欄に1首、「船」1首発表。
2月、同第11集「寄鶴祝」欄に1首、「若菜」1首発表。
3月、同第12集「雪中梅」欄に1首発表。この第12集を最後に退会。
1月
子規「明治二十九年の俳句界」(『日本』連載)。
「・・・・・子規は、「昨年の俳句界に於て今迄曾て有らざるの変化」があったと宣言する。そして、その「新調」とは、「就中虚子碧梧桐二人の句に於て其特色の殊に著きを見る」と、二人の弟子の俳句の特質を分析していく。
(略)
こうした「虚子碧梧桐」の「新調」に対する子規の批評的実践は、わずか十七文字の俳句表現を、一語一文字の使い方にまで意識的になって解読していく、読者自身の動的な解釈の可能性を切り拓いていく方向を指し示したのである。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
1月
ハンガリー、レンツァーニナ(現ルーマニア、ティミショアラ東南)鉱山。流血の衝突。
1月1日
漱石宅に年始の客4、5人、生徒5、6人来る。鏡子は、馴れていなかったので大いにあわてる。ご馳走が不足し、後の客には出せぬ。漱石、立腹するのを長谷川貞一郎なだめる。鏡子は、夜中12時までかかり、金団(きんとん)を作る。
「漱石が安東真人の島崎の家を訪れたのは、一八九七(明治三〇)年正月のことであった。夏目鏡子の『漱石の思ひ出』(六 上京)に「この年(一八九七年)の正月のことでしたかと思ひますが、安藤(安東の誤)真人といふ自分の小学時代(二松学舎の誤)あたりからのお友達で、随分仲のいい間柄だつたらしいのですが、その方が家庭の事情で学校も中途で退学されて、その頃熊本の郡部の島崎といふところに住んでをられて、済々黌あたりの先生をしてゐられたのをやうやくつきとめて訪ねまして、その訪問記を書き綴りました。」とある。
(略)
真人は五高と隣接する済々黌の教師だったのである。鏡子の『漱石の思ひ出』は続けて、「何枚ぐらゐのものか忘れましたが、その文章を長谷川貞一郎さんに読んできかせてゐたのを覚えてをります。それはどこの雑誌に出たこともないやうですし、家に草稿もありませんし、全集にものつてゐないやうですが、どうなったものですかしら。あるひは自分で破つて捨てたものかもわかりません。」と島崎の真人訪問記の紛失を惜しがっている。」(『夏目漱石周辺人物事典』)
1月1日
子規、長編叙事詩「明治二十九年」(「日本」)。前年1年間の事件を月ごとに詩によみこんで各連の最後に俳句を一句ずつ添える。中村不折の挿画「国史」が添えられる。
明治29年6月15日の死者2万7,122名を出した「三陸海嘯」
太平洋の水湧きて
奥の浜辺を洗ひ去る。
あはれは親も子も死んで
屍も家も村も無し。
人すがる屋根は浮巣のたぐひかな
子規、新体詩「筆はじめ」(「日本」)。署名は「竹の里人」。
三連の最終連「人一人」
なべての人は袴着て
年始の御慶申すらん。
女は羽子(はね)に耽るらん。
童は凧に遊ぶらん。
下戸も盃あぐるらん。
鼠も餅やかぢるらん。
上野の陰に戸をさして
雑煮も喰はず屠蘇も飲まず
蒲団かぶりて昼も夜も
風の音聞く人一人。
1月1日
尾崎紅葉「金色夜叉」(「読売新聞」)。前年7月、巌谷小波が川田綾子に求婚し、長兄が小波が文士であるという理由で拒絶したこと。明治25年秋~27年秋、同じく小波が「京都日出新聞」勤務期間中に、なじみの芝紅葉館の女中須摩子を博文館社主大橋佐平息子新太郎が金で自由にしたエピソードなどがモチーフ。
「当時、紅葉館の館妓に、お須磨という美しく聡明な娘がいた。上州出身で、父は、土地の富豪の一人息子だと言われていた。硯友社の同人の中でも一番ハンサムだった巌谷小波とお須磨の仲が噂になった。しかし、初恋の女性川田綾子(歌人川田順の異母姉)のことが忘れられない小波は、お須磨との距離を一定以上近づけることないまま、明治二十五年暮、『京都日出新聞』記者として、遥か京都の地に去ってしまった。そのすきに、お須磨は、当時勢いを伸ばしつつあった出版社博文館の御曹司大橋新太郎に愛されるようになり、やがて正式にその妻となった。お須磨の変節(?)に怒った紅葉は、のち、お須磨と小波、新太郎の三角関係をモデルに、明治三十年一月一日から『読売新聞』で長篇小説『金色夜叉』を連載し、それは彼の代表作となる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
1月3日
子規、新体詩「新年雑興」(「早稲田文学」)
1月5日
子規、新体詩「新年」「古白の墓に詣づ」(「日本人」)
1月9日
稲畑勝太郎、シネマトグラフを携えて技師ジレールとフランスから帰国。
1月11日
孝明天皇の女御の英照皇太后(64)、没。
1月14日
南米高峰アコンカグヤ(標高6960m)の処女登頂成功。
1月15日
柳原極堂(松風会会員)、松山で『ほとヽぎす』創刊。
「一月十五日(金)、『ほとゝぎす』創刊される。発行兼編集人は柳原極堂である。発行所は、松山市立花町五十番戸、印刷所海南新聞社である。B6判三十八ページ、ざら紙使用。定価六銭、発行部数三百部。二十号まで松山市で発行し、翌年十月、東京市で続刊する。正岡子規没後は、高浜虚子が主宰する。)」(荒正人、前掲書)
1月15日
露、セルゲイ・ウィッテ蔵相、幣制改革、金本位制導入
1月23日
大杉栄(12)の弟進(四男)が生まれる。
1月25日
子規、新体詩「皇太后陛下の崩御遊ばされたるをいたみてまつる」(「日本」附録週報)
1月26日
高野房太郎、東京へ移転
1月27日
雲竜寺事務所集会。東京事務所設置決定、京橋八官町宮下栄輔方とし、後、芝区芝口三丁目信濃屋宮下金次郎方とする。
1月31日
哲学者西周、没。
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