2024年8月30日金曜日

大杉栄とその時代年表(238) 1898(明治31)年4月25日 米西戦争開始 〈米西戦争に至る経緯(2)〉 〈第二次キューバ独立戦争(2)〉 キューバ独立運動が米国とスペインの問題にすり替る  

 

ハバナ湾で爆沈したメイン号

大杉栄とその時代年表(237) 1898(明治31)年4月25日 米西戦争開始 〈米西戦争に至る経緯(1)〉 〈スペインの凋落〉 〈第一次キューバ独立戦争(「10年戦争」)〉 〈第二次キューバ独立戦争(1)〉 より続く

1898(明治31)年

4月25日

米西戦争開始 

〈米西戦争に至る経緯(2)〉 

〈第二次キューバ独立戦争(2)〉

この間、1895年6月、米クリーブランド大統領は、自国民の生命財産を保護し、米国からキューバへの武器や人の流れを阻止するために、国民に対し反乱に関与することを禁ずる「中立宣言」を発表した(1896年7月にも再度宣言)。

1895年12月召集された米議会は、独立運動に同情する国内世論の高まりの中で、初めて本格的にキューバ問題の審議を開始した。審議の結果、1896年4月、両院は、キューバでスペイン政府と独立宣言政府との間で公然たる戦争状態が存在しており、米国は中立を維持すべきであり、大統領はスペイン政府に斡旋を申し出ることなどを骨子とする「モーガン・キャメロン決議」を採択した。この決議は交戦団体や独立の承認には触れることなく、共和、民主両党の合意が得られ易い比較的穏当な内容であった。

1897年3月誕生したマッキンレー共和党政権は、前民主党政権と比較して、「よりキューバに同情的で、より議会の意を尊重し、キューバの内乱と残酷な〈集結キャンプ〉作戦に終止符を打つためにスペインに圧力をかけることに前向き」であったという違いはあったものの、自治を与えることによって問題を解決するという考え方や、独立軍を交戦団体として認知しない、またキューバの独立不承認、不干渉・中立政策維持という基本政策の部分で、クリーブランド政権のそれと大差なかった

1897年8月、保守タカ派のカノバス・スペイン首相が無政府主義者によって暗殺され、10月、後任に自由党のサガスタが首相に就任。サガスタ政権は米国で悪名の高いウェイレル総督を更迭し、「集結キャンプ」作戦を止めさせた。また、不完全ではあるが、キューバの自治と参政権を認める法律を11月国会に上程する王令も公布した。米政府はこれに歓迎の意を表明し、1897年12月の年頭教書でマッキンレー大統領は、この改革路線を支持し、スペインに時間的猶予を与えると述べた。

ところが1898年1月キューバ自治政府は成立したが、先行きは混沌としていた。キューバ独立軍側が完全独立を要求して自治に反対する中で、1月12日ハバナでスペイン軍将校に扇動された保守派の暴動が発生し、自治を提唱していた反ウェイレルの新聞社が焼き討ちされるという事件が発生した。米国のマスコミはこの事件を深刻に受け止め、この事件を契機にキューバの治安情勢が悪化しているとして、反スペインのセンセーショナルなキャンペーンを開始した。一部マスコミはキューバ在住の米国人に対する危険を報じた。マッキンレー大統領は、自治による解決が難しいことを認識し始めた。

1898年1月21日、リー駐キューバ総領事は、暴動が反米ではなかったにもかかわらず、自国民保護のため(何度めかの)軍艦の派遣要請を本国に打電した。

1月24日、デイ国務次官は、内々デ・ロメ駐米公使に親善を目的とした軍艦のキューバ訪問を打診したところ、強い反対が出なかったので、ハバナから90海里のキーウェスト沖に待機中のメイン号をハバナに送ることとした。スペイン政府は、ウッドフォード米公使がメイン号のハバナ入港をその12時間後に通報してきたことを憤ったが、ことここに至っては親善訪問を受け入れざるを得なくなり、答礼として最新鋭艦ビスカヤ号をニューヨークに送ることで体裁を整えることにした。そうしたところへ、2月9日マッキンレー大統領を侮辱するデ・ロメ駐米公使の個人書簡が、革命委員会の手の者によって盗まれ、マスコミにリークされるという事件が発生した。事件は公使の辞任、スペイン政府の謝罪によって一応収拾するが、マスコミはこれを機にスペインへの敵意を煽った。

このような時、2月15日夜、ハバナ港に停泊中のメイン号が爆沈するという事件が発生した。354名の乗員の内、主に下士官・水兵266名が犠牲になった(日本人コック、ボーイ7名も)。マスコミは最初からスペイン犯人説であり、連日第一面で好戦的な見出しを揚げて世論を戦争へと扇動し、唯一の解決方法はキューバの解放独立であるという社説を掲載した。メイン号将兵の犠牲によってキューバ独立運動が米国とスペインの問題にすり替わってしまった。マッキンレー大統領としても、もはや外交努力によって事態を収拾することが困難になった。

3月6日、マッキンレー大統領は、防衛準備という名目で5千万ドルの予算を議会に要求する一方、開戦準備の時間稼ぎとして、スペインにキューバの独立を要求するなど外交攻勢をかけた。

3月28日、メイン号爆沈の原因は、外部からの水中機雷攻撃であったとする海軍事故調査委員会の報告書が議会に提出されると、この攻撃はスペイン側の犯行とされた。戦争はもはや不可避となった。


〈米西戦争開戦〉

大統領は高まる世論と議会からの圧力を背に、4月11日、スペイン政府とキューバ人との敵対行為を完全に終わらせるために軍事力を行使して干渉する権限を求めるメッセージを議会に送った。事実上の宣戦布告である。スペイン政府の一方的停戦措置やヨーロッパ列強、ローマ法王の仲介努力も既に遅すぎた。

下院は4月13日採択を行ったが、上院の方は4月16日「キューバ共和国」の承認を認める「ターピー修正条項」を含む決議を51対37で採択した(マッキンレー大統領はキューバ独立政府の承認に反対)。上下両院の決議が「キューバ共和国」を承認するか否かで異なったため、両院協議の末、4月19日米国としてキューバを植民地にしないという「テラー修正条項」を付して採択された(翌日大統領が署名)。

これに対し4月24日スペインからの宣戦布告があり、翌25日米議会は4月21日に遡って宣戦布告を決議した。


つづく


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